二人きりの作業部屋
この日の全講義を終わらせ、同棲している築十五年のアパートで黙々と作業をする二人。椅子に腰かけキーボードを打ち込む渋谷と、座布団に腰を下ろし背を丸めて紙に物語を紡いでゆく黄本。タイプ音とペンが髪を走る音だけが室内を支配していた。
そんな中不意にタイプ音が止まる。それに気付いた黄本も一時的に手を止め、彼を見やった。
「どうした。上がってる分打ち終わったのか」
「んーいや。まだ、あと三分の一くらい」
と言っても直ぐに新しい原稿がくるんだけどな。そう言って人懐っこい笑みを浮かべる渋谷に対し、黄本の眉間にはしわが現れる。不機嫌を表現するそのしわに、彼は椅子から立ち上がりテーブルを挟んで正面に座ると眼鏡のブリッジのすぐ上にある不機嫌の証に人差し指を添える。
「咲はさ、何で締め切り前なのに大学行ってんの? 代返だっだら俺やるし、家でゆっくり作品書けばいいのに」
「学費払ってんだから行くに決まってるだろ……それに一人で家に籠ってたら息が詰まるからな、気分転換も兼ねてだよ」
ぐりぐりと眉間のしわを伸ばそうとする彼の指を鬱陶しそうに払いのける黄本。
「ふーん、気分転換ねえ……」
渋谷は興味なさそうに呟くと、徐に立ち上がり黄本の背後に腰を下ろし背後から彼を抱きしめ肩にあごを乗せた。すぐ左側に在る渋谷の顔を、一応鬱陶しいぞという意を込め手のひらで軽く叩いてから作業を再開させる。
「邪魔だから離れろ」
「やだー」
まるで子どものように黄本の体に腕を巻きつける渋谷。バスケットボールのサークルに入っている彼の筋肉質な腕を引きはがすのは文系人間の黄本には不可能である。それにこんなことは一度や二度ではないので黄本は慣れた様子で彼を無視してペンを動かす。
「……」
「ひーまーだー」
「だったら作業をしろ! 自分で手伝うって言っただろ!」
「そうなんだけどさぁ、腕が疲れた!」
「……じゃあこの手は何だ、この手は」
自身の服の中に侵入している不届き者の手の甲を抓ってやれば腕はすっと引っ込んでいく。彼にしてはやけにあっさりと引いたなと伺うように後ろを振りむいた刹那、黄本の唇に柔らかいものが触れる。それが彼の唇であること瞭然で。ちゅっ、と可愛らしいリップ音を立てて離れていく。
「隙あり」
「~~っ!」
「さぁて、作業再開すっかなー!」
羞恥に駆られた恋人に怒鳴られる前に彼は腰を上げパソコンの前へ戻っていく。その顔は悪戯が成功した子供のように晴れやかなものである。
「あ! でもその前に飯にしよう飯! な!」
「……」
「何がいい?」
怒る気も失せた黄本の大きな溜め息が一つ。ばくばくと煩い心臓に手を当て、瞼を下ろす。
「……カレーの材料買っただろ」
「そ、そうだったな! 俺としたことが。あはは!」
「……ふっ」
「俺が作るから先生は作業を続けて下さい!!」
後ろから見えた彼の耳が真っ赤になっているのを発見し、思わず笑ってしまった。キスの一つで緊張するような浅い関係ではないというのに。照れる基準が不明すぎる彼の心は未だ掴めないが、こういった場面を見せられると心臓を高鳴らせるのは自分だけではないのだとひどく安心してしまう黄本であった。
その後カレーライスが完成していざ食べようとした際らっきょうを買い忘れていたことに気付いて渋谷が買いに走るのである。