天縛の輝石
黒い鞭と見えたのは、蔓だった。しゅるしゅると奇妙な音を立ててまとわりつくそれは、シェンを軽々と男の元へと引き寄せる。
「シェン!」
「セラノ、よく見つけてくれたね」
にっこりと優雅に笑うその顔は美しいのにやはり恐ろしい。もがいて逃げ出そうとしても、彼女を抱き寄せた腕はびくともしなかった。
「あなたが、なぜ……?」
セラノは明らかに男を知っているようだった。愕然と目を見開く様子に、この状況が彼の望んだものではないらしいとわかったことだけが救いだったけれど。
「神の呪いを受けた君なら、きっと見出してくれると思っていたから」
「言っている意味がわかりません。あなたは俺に緋竜を追えとおっしゃった。それが彼女と——シシェン=ヴィンスとどう関係があるというのです?」
シェンを引き寄せたままの男は、セラノの必死な訴えにも表情を変えなかった。それどころかくすくすと愉しげに笑う。
「白竜と黒竜、今まで見出してきた中でも最高の二人のその粋の仔、永遠に失われたかと思っていたけれど、生きていてくれて嬉しいよ」
「神官長、一体何を……」
「神官長?」
そう呼ばれた男はこれは失礼、と優雅に首を傾げる。そうしてシェンの美しい片翼にそっと触れると、満足げに微笑んだ。その手つきは優しいのに、背筋がぞくりと震える。間近に迫った緑の瞳は、やはり不穏な光を浮かべていた。
「私はハル=シシェリ、空と海の狭間、地の神殿を任されていた神官だ。ハルと呼んでくれて構わないよ、私の愛し仔」
「任されて……いた?」
「そう、神の怒りを受けて神殿は焼けてしまったから。愚かな王のせいでね」
セラノとネルクが語っていた、王の軍勢が攻め込んだという昔話。その手引きをしたのがネルクだと、セラノはそう言っていなかったか。王の軍勢が邪悪だったのだとしたら、その場にいた白竜と黒竜を庇護するはずだったこの神官長を、これほど恐ろしく疎ましく感じるのはなぜなのか。
震えるシェンに気づいたのか、ハルは柔らかく微笑む。その目の光は変わらぬままに。
「リシェとイェル、二人の仔である君は神の最高傑作だからね」
「どういう、こと……?」
「世界は神気で満ちている。けれどその巡りは人や獣の営みによって穢され乱れる。それを整えるのが神殿の役目。その神殿の要が選ばれし白竜と黒竜だ。穢れた神気を浄化し、均衡を保つ。けれど、要の役目を負った竜の寿命は短い。人間が相争うようになってからはますますだ。神気の浄化が竜の負担になっているのは明らかだった。だから、私は選定を重ねたのだよ」
世界中の竜に印をつけ、最も神気を効率よく吸収し浄化できる個体を探す。天と海の狭間、地の神殿を作り、そこで優れた個体の竜を番わせ、より安定して長く神気を浄化できるような個体を生み出す。
「そんな、それは神託だと……!」
愕然と声を上げたセラノに、男は宥めるように微笑みかける。
「そう、神のご意志だよ。竜は神気を浄化する。空と海の神殿にはそれぞれ竜が招かれる。ならば招かれた竜の仔を産み増やせば世界は安定する。竜が苦しむこともなくなる」
「竜は神託によって選ばれ、狭間の神殿での番いの儀式以外は祈りを捧げる。そう、神が定めたもうたのでは?」
「左様」
鷹揚に頷く男の秀麗な顔は変わらなかったが、酷薄な笑みは何よりも雄弁だった。
「すべてが欺瞞なのですか? 竜はただ捕えられ、利用されていた? 王が語っていたことこそが真実だったと⁉︎」
「だとしたら? いずれにせよ世の安寧は竜による神気の浄化にかかっている。彼らの気まぐれに任せたまま、世界の滅びを見過ごせと?」
「そもそも世界の均衡とは何です⁉︎ あの日、竜が喪われ、緋竜が世界を闊歩するようになった。あらゆる街や村を焼き、まるで人を滅ぼそうとするように——!」
首を落とされた緋竜は灰も残さず消えた。だが、現に街を滅ぼすことのできる存在は幻ではない。それはまるで——。
「……式神? まさか全てはあなたの謀なのか⁉︎」
「おや、それを知っているとは。さすがリシェスの名を継ぐ者だ。記憶も共有していたかい?」
「リシェは俺の半身の伴侶だ。知らぬものはない。あの空の神官じゃない……あなたが全ての元凶だったのか!」
セラノは燃えるような怒りをその目に宿し、腰の剣を抜き放って切り掛かる。シェンもろとも手にかけんとするほどの気迫は、けれど、何か見えない壁のようなものによって弾き飛ばされた。
「無駄だよ。私には神の加護がある。そんな鋼で私を傷つけることなどできない。歴代の竜の翼石とその力を手にしている私には、ね」
さあ、と男はシェンに微笑みかける。
「美しいその翼、片方はあの混乱の中で失ってしまったのかい? いずれにしても、それだけの生命の輝きがあれば十分だろう」
男の胸元でふわりと光が浮かんだ。男が首から下げたアミュレットに埋め込まれた青と金。それは、なぜかひどく懐かしい色をしていた。
「ああ、気づいたかい? これは君の両親の翼石。君の翼は、きっともっと美しい輝石になるだろう」
男の目は愉悦を浮かべている。今しも、本当に手に入れたかったものが、すぐ手の届くところにあるのだとでもいうように。
「あなたは狂ってる! 竜を守るといったその口で、彼女の翼を奪い殺すのか⁉︎」
額から血を流すセラノの叫びにも、男は顔色一つ変えなかった。薄く笑ったまま、シェンの背中へと手を伸ばす。ぐ、と翼を掴まれ、逃げ出そうとしても、男の腕の拘束は強く、それ以上に何か不可思議な力で身じろぎ一つできない。
「君の翼は完璧だけれど、竜としてはまだ雛だからね。大丈夫だよ、シシェン=ヴィンス。痛みを感じさせるようなことはしないから」
シェンの翼を握った男の手から光が溢れる。めり、と嫌な音と共に激痛が走る。自身の器官の一つであるそれを傷つけることは、腕や足を捥ごうとするのと変わらない。翼を納めることさえできれば、と考えても、凍りついたように動けない。冷や汗が流れ、意識が朦朧とし始めた、その時。
「フォルヴィ、離れなさい!」
それはただの愛称だった。けれどずっと幼い頃からそう呼び続けられたことで、シェンの一部を確かにかたち作っていた。ゆえに、真名で縛られた呪縛がほんのわずか、それで緩む。
「何?」
男の気が逸れた一瞬をついて、両腕で思い切り男を突き飛ばす。その向こうに見えたのは、見慣れた樫の木色の髪。けれど、何かを尋ねる間もなく、金と青の石を握った男が振り返り、その手から苛烈な炎と風の刃が放たれた。男を挟んでいてさえ、届く業火と疾風の威力に、シェンは思わず叫んでいた。
「ネルク!」
「平気ですよ、これくらい」
炎に焼かれ、全身を切り裂かれながらも彼女を見て微笑んだその顔は、いつも通り。けれど次の瞬間、視線を外し、男へと向き直る。
同時に、金の髪の男の胸から透明な結晶が生えた——否、貫いた。
「そんな、莫迦な……ッ」
男が信じられないように自分の胸を見下ろし、そして自分を貫いた鋭利なその結晶を持つ青年を改めて見て目を見開く。
「ファネルク=ルイェル⁉︎ そなたがなぜ……死んだはずでは⁉︎」
「ええ、亡霊ですよ。私の心はあの時に死んでしまいましたから。だから、ここにいるのはただの抜け殻です。あなたを滅ぼすためだけに、愛する人の、その忘れ形見を利用してでも」
「な……! では、これは……」
「そうです、あの子の翼と神気で作り上げた、あなたの得た竜の力さえ封じ込む『天縛の輝石』です」
鳶色の瞳に、静かな、けれど確かな殺意と苛烈な怒りを滲ませて、ネルクはさらに深く結晶で男の胸を抉る。同時に男が胸から下げていた二つの石が砕け散った。男を包んでいた光が消え、そしてその体から黒い靄のようなものが溢れ出す。
「リシェスの仔竜の翼を切り落とした……? そこまで、私が憎かったか」
「ええ、たとえ何を犠牲にしてでも、あなたの存在を無に帰すとそれだけを誓って生きてきましたよ」
頃合いです、とネルクはその耳元に顔を寄せ、何かの音の連なりを口にした。
絶叫と、雷鳴。耳をつんざくほどの轟音、そして黒雲と驟雨があたりを包み込む。
「ネルク!」
シェンは力の限りに叫んだけれど、激しい雨によって全ての視界は失われた。




