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空の鱗と海の翼  作者: 『空の鱗と海の翼』制作委員会
天縛の輝石/橘 紀里
8/40

真実

 空と海の狭間、竜の(つがい)(つかさど)()の神殿。

 そこで、(いわい)の儀式が行われたあの日、余人の入り込む隙のないはずのその場所に、人の子の王の軍勢が攻め寄せた。竜を解放するのだと、そう言った王は、黒の呪術を以て神官たちを(ばく)し、竜を捕えようとした。


 だが、その本当の理由は、翼を切り落としてその力を我が物とせんとしたのだろうとセラノは語る。

「竜の翼は彼らの力の源泉。世界に満ちる神気(エーテル)を取り込んで己が力に転換し、世界の(ことわり)を整える。それは神によって選ばれし竜にだけ与えられた力であり、竜を(うしな)えば均衡が乱れる。ゆえに竜を傷つけようなどという愚かな真似をするとは、誰も予想さえしていなかった」

 そうして、とセラノは険しい表情のまま、言葉を続ける。

「燃え盛る炎の中で、竜を縛した呪石を手に入れた王は、その場で神の(いかずち)に打たれて死んだと聞いた」

「神の……(いかずち)? 神様って本当にいるの?」


 怒りを宿した声で静かに語るセラノに、シェンは思わずそう尋ねていた。神話や叙事詩の中で聞いたり、祭りで祈ることはあっても実際にその存在を感じるような経験はなかった。ネルクを見れば、彼は静かに頷いた。


「声を聴くことがなくとも、確かにおわします。空と海を司るそれぞれの竜を選び、(つがい)とする。次代の竜を産み育てるよう、神託が下るのです」

「その竜がまた次の神殿の竜となるの?」

「いいえ、次代の竜は概ね別の場所から選ばれます。ですから、地の神殿で生まれた竜はある程度大きくなると、空か海へと自由に羽ばたくのです」

「よく……わからない。生まれた竜を自由にするのなら、どうして神殿で番わせる必要があるの?」

「……私にもわかりません。けれど、それが世界の均衡を保つために必要なことなのだと、ただそう伝えられていました」

「だが、お前は納得していなかった。そうだろう、(そら)の神官」

「空の、神官……?」

 セラノは厳しい眼差しでネルクを睨みつける。さらには、彼は枕元に立てかけられていた剣を抜き、ネルクの喉元に突きつけた。


「俺はお前の顔を覚えている。(つがい)の儀式の時に白竜と共に地の神殿へと来た。白竜はお前を慕っていた。答えろ、なぜあんな愚かな真似をした」

「……愚かな、とは?」

「地の神殿は結界に包まれている。招かれねば決して入れない。だが、唯一あの日、祝の儀式のために開かれていた。だがそれは神官しか知らぬ事柄。誰かが手引きをしたとしか考えられない」

 ネルクは答えない。けれど、セラノは何かを確信しているようだった。ゆっくりと、重たげに続ける。


「愛していたんだろう、白竜を」


 ネルクの肩がびくりと強ばる。いつも穏やかに微笑んでいる彼が、時折見せる冷ややかな表情と不穏な気配。彼の全身から、抑えようとしても抑えきれない燃え上がるような激しい感情が溢れる。


「あなたに何がわかる。リシェはずっと不安そうでした。見知らぬ場所で、見知らぬ相手と番わねばならないことを。彼女を空の神殿に縛りつけただけでは飽き足らず、その伴侶さえも勝手に押し付ける。ただ、世界の調和などという誰にも見えぬもののために」


 リシェ、というその響きに、シェンの中で何かがざわめいた。淡い金色の髪、夢見るような淡い銀がかった(けぶ)るような空の色の瞳。対照的に黒い髪と、満月の日の夜の空を閉じ込めたような紺青の瞳。


 目の前に広がる真っ赤な炎と、静かな森の中で自分を見つめていた穏やかな鳶色の瞳。


『あなたは私が守りますから。リシェのように、犠牲にはさせない』


 そう言って、彼女の——を()()()()()()()()


 何かが記憶の底から浮かび上がる。あとほんの少しでそれに手が届く、と思ったその時、ドォンと遠くで響くような音が聞こえた。セラノが顔色を変え、ネルクを探るように見つめた。だが、もう一度響いた低い音に、舌打ちして剣を持ったまま踵を返す。

「どこへ……」

「あの音は間違いない。話は後だ」

 聞かずともわかる。シェンは駆け出した背中と、立ち尽くす幼い頃から親しんだ青年とを見比べた。鳶色の瞳が静かに彼女を見つめる。穏やかな色に微かに浮かぶ激しい炎のようなゆらめき。それを、彼女はずっと知っていたような気がした。

「後で、話を聞かせて」

「シェン」

 呼び声はいつもと変わらない。けれど、今はそれどころではなかった。脳裏に浮かぶのは、シェンがいつも触れていたあの輝石。

「守り石があるのに、なぜ……?」

 呟いた時、ズン、と今度は何かが落ちるような大きな音が聞こえた。迷っている暇はない。セラノは傷は癒えたと言っていたが、空を飛ぶ緋竜を相手にできることは多くはない。


 視線を断ち切り、外へと駆け出したシェンの目に入ったのは、先日見たものよりも遥かに大きな緋竜。

「この莫迦(ばか)、引っ込んでろって言っただろうが!」

「もう逃げない」


 己が何者であるかをほとんど確信してしまった今は。


「セラノ」

 大剣を構え、緋竜と対峙する男の名を呼ぶ。彼の名を口にしたのはそれが初めてだったと気づいたのは、その響きに宿る真の意味に気づいてからだった。知らないはずの音が口をついて出る。

「セラノ=リシェス」

 はっとセラノが目を見開く。けれど、背後の緋竜を思えばためらっている暇はなかった。

呼んで(・・・)。知ってるんでしょ?」

 何を、と言及する必要はなかった。セラノはほんのわずか、ためらうように眉根を寄せたが、すぅ、と一つ呼吸を置くと、大剣を構え、緋竜を睨みつけたまま、それを口にした。


「シシェン=ヴィンス」


 瞬間、シェンの全身が震えた。足りなかった最後の欠片(ピース)がぴたりと嵌まる。名は本質。欠けていた記憶を取り戻し、知らぬうちに嵌められていた枷を壊す。そうして、失われていたそれ(・・)を解放する。

 正面には巨大な緋竜。大きく開けた口から覗く炎は、けれど彼女を脅かすことはない。

 背中に全神経が集中する。まるでそこに炎が宿ったかのように、熱く。

 そして忽然とそれは姿を取り戻した。


 真っ白な、彼女の体を包み込んでなお余りあるほどの大きな翼。緋竜の無骨な皮膜のような羽根とは全く異なり、優雅で美しく、そして力強い。けれど——。


「あんの野郎……! あれはそういうことか!」


 怒りに満ちた声の理由を理解するより先に、緋竜の炎が迫っているのを高揚する意識の隅で認識する。意識するよりも先に、言葉が溢れる。


「空を支配するのは、お前たちじゃない」


 大きな翼が風をはらむ。ただの風ではない。獣が生まれながらに走る術を、鳥が飛ぶ術を知っているように、世界に満ちる不可視の神気(エーテル)を取り込み、清浄な風を巻き起こして炎を吹き払う。


 たとえ、背にあるのが片翼だけでも。


 炎を払った風はそのまま鋭い風の刃となって緋竜を切り裂いた。ギャア、という金属を擦り合わせたような不快な鳴き声と共に緋竜は無様に落下していく。待ち受けていたのは獲物を捉えて不穏に輝く紺青の瞳と鋭い鋼。

 セラノは身の丈半分ほどもあるその大剣を軽々と、そして容赦なく振るった。あまりにも容易く、まるで柔らかな果物を切るようにほとんど何の抵抗もなく滑り落ちた刃は緋竜の首を切り落とす。


 地に落ちる重い音は一瞬。だが、シェンは思わず目を見張った。巨大な緋竜の(からだ)は、分たれた首からとろりと銀色の不可思議な液体を垂れ流したかと思うと、その液体さえもすぐに空気に溶け、そのままさらさらと灰に、その灰さえも風に流されるより先に消えていく。

「なに……?」

 周囲の焼け焦げた木々がなければ、全てが幻であったかと思ってしまうほどにあっけなく巨躯は消え去り、後にはただ静寂だけが残された——その刹那。


「ようやく見つけた」


 森の一角に黒い闇が浮かび上がっていた。楕円の姿見のようその黒い影はゆらめき、やがて人影が浮かび上がる。闇とは対照的な真っ白い長衣(ローブ)を翻してその闇から滑り出したその人影は、シェンを見つめるなり猫のように目を細め、嬉しそうに微笑んだ。

 シェンとは質の違う黄金の髪と、深い森のような緑の瞳。秀麗な容姿にそぐわない、その瞳に浮かぶあまりに酷薄な光に背筋が凍る。だが、身を翻すよりも先に何かが放たれ、シェンの手首に絡みついた。


「逃げないで。大切な私の白竜」


 手首に絡みついた黒く細いものが彼女の動きを封じる。それでも、その声の方が遥かにどす黒く恐ろしく響いた。

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