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空の鱗と海の翼  作者: 『空の鱗と海の翼』制作委員会
空と海の愚者のうた/七ツ樹 七香
32/40

空と海の愚者のうた

 大海の楽士ジュデッカは、宝を得るため空へ来た。

 罰だと余人は宣うが、ジュデッカには希望だ。

 愚かと友人に笑われ、辞めろと縋る両親を置いて、彼は大海の水底にある美しい郷里をあとにした。みな、彼が生きて戻ることはないと泣いて惜しんだ。

 而してその嘆きは少しずつ形になりかけている。

 掟に従い竜巻の中を駆け上り、水平環アークの一本道を通りぬけた先で、ジュデッカは片目を失った。差し向けられた翼ある大獣の前で彼は玩具同然で、彼の欠損は大空からの警告だった。

 空の果てと海の果ての境界を踏み越えた時から、生きるか死ぬかに、運命は決まっているのだと。

「顔は大事にしてほしかったよなぁ。惜しんでくれる娘だっていんのに」

 楽器を武器に持ち替えて、折れた剣を携えてなお、ごく個人的で気楽な旅と肩をすくめるジュデッカだけが、まだ世界のすべてを笑っていた。傷ついた左腕で斜めに布を巻いた顔をさすり、ジュデッカはぼやく。その四肢にすでに傷のない場所はない。尖った右耳の先も欠けてしまった。

 だが、消しきれぬ命に空は歯がみしているだろう。まだ灯る生を掲げ、ジュデッカはまた、歩き始めた。

 鼻歌をうたう。彼の好きな、明け方の歌だ。

 大空は大海を拒み、大海は大空を憎む。

 混じり合わない裏表。

 遥か遥か昔から、ずっとずっとそうだった。

 百年前、いがみ合いに倦んだ空と海のふたりの王が融和を謳った。つまらぬ掟と禁忌を作り、形ばかりの平和を敷いた。

 これを希望と喜んだ者も多くいたが、空と海はなにも変わらなかった。

 この道が何よりの証拠だと、ジュデッカは嘲笑を隠さない。

 ただ、ジュデッカはこの冒険を楽しんだ。金茶の隻眼はまだ若者の無謀さを失わず、旅路の終わりの宝物を思い描いては、捧げるつもりの悪態を考え心を軽くした。

 決死の覚悟なんて大仰な決意が自分に似合わないことを、ジュデッカは知っていた。

 この道を行く理由は、ジュデッカの中にひとつだった。

 宝物が欲しい。

 望むとおり願うとおり、欲のままあるがまま。

 この道の果てにしか宝がないというのなら、真っ直ぐにいくほかない。軽薄に頑なに、そう信じていた。

 凍えるような空気が体にまとわりつく。

 むき出しの腕に冷気が刺さる。ざわめきを聞いて、ジュデッカは立ち止まった。足下には絨毯のように、銀と白で彩られた無数の氷の花の平原が広がっていた。

 おとぎ話の世界の花は氷の粒を散らして、きらきらした笑い声をたてた。

 ようこそ、ジュデッカ

 こんにちは、ジュデッカ

 宝石のような花に似合いのかわいらしい歓迎は、ジュデッカが氷花の園へ足を踏み入れた瞬間一変した。花々は折れそうな茎と尖った葉を揺らし狂喜して合唱した。

 戻れジュデッカ

 帰れジュデッカ

 黙殺して歩を進めると「キャア」と悲鳴を上げ花は砕け散る。足下ではじけた花は鋭利な氷の刃になってジュデッカの足を繰り返し傷つけていく。パチン、パチン、と花は死んでいく。

 死ね、ジュデッカ

 屍を食わせよ、ジュデッカ 

 花々を踏みしめるごとに耳に突き刺さるような苦鳴が満ちる。

 黒々とした渦になって頭の中に響く怨嗟にジュデッカは歯を食いしばる。友人知人、母や妹に似た声もした。「なぜ行くの?」と花は訊き、凍えきったジュデッカを傷つけた。蝕まれながらジュデッカはひと足ごとに死を積み上げ、万の断末魔を聞いて氷の花の園を抜けきった。

 無数の切り傷を負った足を引き、血の滲んだくちびるをほどく。

「女の悲鳴は趣味が悪い。男もヤだけど」

 ぼやきに答えたのは静寂だった。

 ジュデッカの背後で、踏み荒らされた平原が役目を終え、渦を巻いて閉じていく。

 舌打ちする。空の揶揄と憫笑を感じたのだ。

 終わりの見えぬ道をひとりゆく寂寞が、彼の背に重くのしかかり始めていた。彼の歩いた後には点々と赤い血の跡が残る。海でしか生きてこなかった体は、彼にだけ届かぬ悲鳴を上げていた。

 白い平原の先から、さらさらと静かな流れの音がした。

 星の流れる川が見えた。大海へ注ぐ空の大河だ。

 故郷に繋がる雄大な流れが、ジュデッカを早足にした。

 川縁には小舟が一艘浮かんでいた。櫂をもった船頭がひとり立っている。真夜中のような外套をまとった気味の悪い片足の男だった。

 ジュデッカは役立たずの剣に手を掛ける。

 この道に立つ何者かが味方であるはずもない。

 だが、フードを目深に被った男は口元だけ見せてにたりと笑い、ジュデッカを歓迎した。

「ようこそ大海の愚者。行き先を」

「野暮だな。この先へ」

 男はジュデッカを眺め回すと鼻で笑い、握った櫂で彼の血だらけの足を差した。

「そんな足で私の船を汚すのか。その指も凍って使えまい。次も空は何かをおまえから奪うだろう」

 ジュデッカは招かれぬうちに舟に乗り込み、足に食い込んだ花の欠片を引き抜き川面へ放った。

「あんたの船の格が上がるさ。ご心配痛みいるが、リュートだってまだ弾ける。俺は大海の出だ。氷とは折が悪いが水はお友だちでね」

 ジュデッカは小舟から手を出し、星の川に指先を浸す。死にかけて黒化した指はやがてすっかり色を取り戻した。

「それは重畳」

「本気じゃねえだろ。あんたは何だ。俺はココに沈めても死なないぜ。黙って、向こうへ渡してくれ」

「空の大河の渡し守、いまの私の名はそれだけだ。川に身を投げ、星の滝を降りて大海へ還った者は何人もいる。先へ向かうだけが道ではない。私は止めぬ。自由にするがいい」

「下手な勧誘だ。しつこく止められた方が、やる気になると思うがな」

 答えると、男は黙って舳先を向こう岸へ向けた。

 ジュデッカは胸元を探って祈りを唱える。首飾りをひとつ。ジュデッカは服の内に隠している。空の民の掛守りだ。ジュデッカを拒むこの世界で、それだけがあたたかい。

 ジュデッカは尋ねた。

「空の歌姫は今日も明け方の歌をうたったか」

「海の者に、教えられることはない」

「だろうな」

 ジュデッカは疲れ果てた体を船尾にもたれさせた。

 男が訊いた。

「空を求めたは掟を知らでか? 愚者よ」

「子どもでも知ってる。あんた、初めてじゃないだろ、このお役目」

「知る限り百有余人が挑み、一人以外は半ばにして道を降りた」

「へぇ、希望に感謝するよ」

「愚者よ、いまなら戻れるぞ」

 ジュデッカの瞳に青い炎が揺れた。立ち上がって船を揺らし、振り向いた男に中ほどから折れた大海の剣を突きつけた。

「そう催促されると気分が悪い。俺はあんたを殺さなきゃならないのか?」

 刃先を差し入れ男のフードをするりと裂くと、そこには青白い髪の老人がひとり居た。

「行くのなら送るのが私の役目だ。先には闇があり、獣がいる。この足も食らわれた。知って行け」

 男の皺のある喉には、古い傷が残されていた。

 ジュデッカはそれを見て息を呑み、深く息をついて腰を下ろした。

 小舟がまた、ぐらりと揺れた。

「頼むよ。足、気の毒にな」

「…………」

「あんた、連れ合いは」

「すでに世にない」

「そうか……」

「これほど言うのに、愚かなだけでなく強情な男だ」

「ハハ。一生の宝とわかっているのに、挑まねぇ奴こそ愚か者だ」

 老人はそれを聞くと、声を立てて笑った。

 低く、ごく愉快そうに笑った。

「これほど空に理不尽を受けても?」

「手段がないからそうしたまでだ」

 大河の岸辺が近づいてくる。

 その向こうは、不穏な暗がりが広がっている。

 薄闇の水辺にジュデッカが降り立つと、老人は目を伏せて言った。

「愚者に祝福を」

「呪うなよ、同胞」

 振り返って、ジュデッカは喉をそらし一枚の虹色の鱗を彼に示した。

「あんただろう、ここを通り抜けたひとりって。幸せだったか」

 男は答えずちいさくうなずき、ただ静かに舟を漕ぎ出し二度と振り返らなかった。

 ジュデッカは闇へ踏み込んでいく。

 月も星もない夜の闇に彼の体は黒く塗りつぶされた。

 鋭敏になった彼の耳に「まっすぐに」とただそれだけが囁かれた。

 常闇に道はなく、頼りない足下が不安を掻き立てた。

 明け方の歌を、もうジュデッカは口ずさまなかった。胸の内に残る澄んだ声の歌を聴き、胸元にある首飾りを押さえ、一歩一歩を脚を引きずって歩いた。

 嘲笑した知人の顔が浮かんだ。

「大丈夫さ、俺が行くんだ」

 真剣に彼を引き止めた親友には詫びるほかなかった。

「行かなきゃいけない。悪いな、あの酒はお前にやるよ」

 泣いた母と妹、怒りを露わにした父を思い出した。

「なぁ、あんたらだけでも……」

 ぬるい気持ちが湧き、泣き言を垂れそうな唇を噛む。

 もう、まっすぐ歩けているのかわからなかった。ぐるぐると回る道化になってしまったのかもしれなかった。

 頭上から、ジュデッカを襲った獣の猛々しい声が響いた。肌が粟立ち、ジュデッカの背を恐怖が稲妻のように貫く。

 走ることもできない足が、ただよろよろと二、三歩を早足にした。

 氷の花の悲鳴が響く。

 まだ、楽観の服を纏っていられた自分の呟きが胸を締めた。

 大河の老人の勧めは、今の彼にひどく甘く聞こえた。

 己を笑ってジュデッカは言った。

「――それでも、帰らねえよ」

 黒いだけの道はひたすらにこれまでのジュデッカを踏みしめさせた。

 負けやしないさ。カンタンだ。なにが悪い。諦めるなんて、つまらない。

 声が頭に響くたび軽薄な口ぶりに苛立ちが湧く。体の重みがつぶれそうに増していく。

 苦しげな足取りのジュデッカの背に、誰かが高々と叫んだ。

『己の目玉ひとつ守れぬ、愚鈍な海のジュデッカ!』

 どっと笑い声が取り囲む。

 大勢が遠くから、みすぼらしく歩くジュデッカを嗤っていた。

 衝動が理性を灼ききった。喉が枯れるほど吠え上げて、折れた剣を投げつける。落ちた音も立てず、暗闇は毀れた武器をうれしそうに飲み込んだ。

 光のない夜は、それきり静寂だった。

 なくした左目がうずいた。

 足を止めた。

 ジュデッカの身体から力がずるずると抜けていく。

 命が吸われていくようだった。

 宝など、本当にあるのかこの先に――。

 疑いに誘われた死の甘い匂いが、ジュデッカの鼻先を漂った。

 ジュデッカは膝をつく。

 ぼんやりと声が聞こえた。

 這う。前へ。這う。

 ――ジュデッカ。

 リンと涼やかな、彼を呼ぶ声がした。

 ジュデッカはようよう生きている金茶の瞳を見開いた。

 幻覚と訝るが、朧な輪郭は確かに彼の眼前に浮かびあがった。

 この宝探しを最後まで嫌がり、止めた女の影だった。

「もうやめて、ジュデッカ。死んでしまう。こんな目に遭って」

 顔のない女の声はふるえていた。

「どうか。いま、私の口づけを受けて。お願い、ジュデッカ」

「ダメだ。まだ、俺を信じているだろ?」

 女の体が砂のようにさらさらと崩れ落ちるのと同時。

 バチン、と心臓が張り裂けるような音を立てて暗闇が破裂する。

 射殺すような光が注ぎ、ジュデッカは片目で捉えられる全てを見失った。頭を真っ白に灼かれ、ああ死ぬのだと覚悟した。

 名を呼んだ。返らぬ声が、恋しかった。

 どれほどの時間が立ったのかわからない。

 ゆっくりと片目を開く。ぼんやりとしてよく見えない。手足の感覚がなかった。ただ、ジュデッカは自分がいま眩しいところにいることを知った。どこかに背を預けている。息ができることを確かめる。

 少しずつ五感が戻ってくる。

 もたれた場所はかたく、芳しい花の匂いがして、獰猛な唸り声が聞こえた。だらりと投げ出した傷だらけの足の向こうから、なにかが歩いてくる。

 ジュデッカの残された右目に、銀色の獣が映る。

 美しいオオカミだった。冬空の瞳をした、オオカミだった。

 毛を逆立て、よだれを垂らし、今にも飛びかかりそうなそぶりに――。

 ジュデッカは、目を細めた。

 オオカミが足元を踏みしめ飛びかかる。

 彼の体に取りつき、喉笛が食い破られるかに思えたその瞬間。

 ジュデッカは、笑って言った。

「あんた、そんなに凜々しいツラだったか? 歌ってくれよ、イオアンナ」

 オオカミは喉に食い込ませかけた牙をピタリと止めた。

 ブルリと震えたオオカミは、蒼い瞳を閉じる。

 喉をそらす。

 天高くへ放つひと吠えが、歌声に変わる。

 空を青くし地に花咲かす、天上の歌声だった。

 ジュデッカの生傷が塞がってゆく。

 消えそうだった命の火が、力強く燃え立っていく。

 美しい獣は旋律の響きをまとって燦然と輝き、虹色の光輪に包まれまたたくまに美しい女性の姿に成り代わった。

「ジュデッカっ!」

 ふくらはぎまで伸びた女の空色の髪がゆれ、光の粒に包まれた純白の長衣が翻る。女は男の身体にすがりつき、乾いた血の貼りついた群青の髪をかき撫で、すきとおった声を涙に濁らせた。

「ジュデッカ、わかったの? ……私だとわかったの?」

「ノミになってたって見間違えるもんか。あんたのとこの試練ってやつはどこもかしこも悪趣味だ。まだこんなくだらねぇことを続けたいなら良案が百はある。偉いさんに俺に演出を任せるよう言ってくれ。……口付けしてくれ、イオアンナ。体中が痛い」

 傷だらけの彼の頬をつつみ、目を失ったくぼみと荒れた唇にキスをして、イオアンナは頬を濡らした。

「バカね、ジュデッカ。こんなことのために、大切な目を失うなんて。こんなにケガをして、こんなに、こんなに……」

 ジュデッカは、憔悴した恋人の髪をかきなでた。

「安あがりさ、命より。片目でもお前は見える。楽器も弾ける。ジュデッカさんの大事な勝負をこんなことなんていうなよ。まだ男前だろ? 勝ちを祝ってくれ」

「ジュデッカ」

 ただひとこと、呼ぶ声に込められた響きを読み取れないような恋人ではない。

 ジュデッカも同じ心を込めて彼女の名を呼んだ。

「迎えにきたよ、イオアンナ」

「……あんたみたいなヤツが、試練を抜けるなんて思わなかった!」

 裡に込もる総ての感情をない交ぜにして、イオアンナは声を絞る。

「結婚してくれるね、イオアンナ」

「私、カワイイ奥さんになるから覚悟して」

「寝台でそうならなんでも許す。ただ、悪いがこのボロ布みたいなあんたの伴侶を、しばらくは労ってくれ」

 軽々しい口の奥で彼が抱え越えてきたものを思い、空の歌姫は顔をくしゃくしゃにしてもう一度彼の名を呼んだ。

「さあ、イオアンナ。ノドの鱗を剥がしてくれ」

 ジュデッカは首をそらして急所をさらした。

 彼女が空の端で明け方の歌をうたったときから、ジュデッカの心のすべては彼女のものだった。

 彼が海の果てでリュートをかき鳴らし、夕暮れの音を捧げたとき、イオアンナはジュデッカに恋をした。

 喉仏の位置にある、海の民の印の鱗をイオアンナは爪で剥ぐ。

 パキリと乾いた音を立て、一瞬の苦しみを耐えた伴侶に、イオアンナは口づけた。永遠の愛を、囁いた。

 もうこれで、ジュデッカは海には帰れない。戻らない。

 久方ぶりの大空と大海の婚約は、美しい彩雲の下で輝いた。

 星の大河の滝を登ってきた深海の白鯨が、潮を高く吹き上げる。

 海の祝福が真珠の雨のように降った。

 道を越えた恋人たちは、掟を破った罪を許される。

 空に生きるも海に生きるもそのいずれにあらずとも、空と海の束縛から自由になる。

 二人は空に暮らすことを選んだ。

「ねえ、ジュデッカ。元気になったなら、こっちでの仕事を見つけなくちゃ」

「早々に手厳しいな。養ってくれないのか、歌姫さん。……リュートを弾くよ。明け方の空と海に届けてくれ。このくだらない試練とやらを、終わらせたくなるやさしい歌を――」

 ふたりは寄り添った。

 互いをこの上なき宝と信じ、ただ静かに寄り添った。

 ジュデッカとイオアンナはいつかうたう。

 遥か先まで響き届く、幸せなその歌を――。


おわり

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