春待ちの宵祭り
はっと寝台で身を起こしたシェンは、あたりを見回して、そこが見慣れた自分の部屋だと気づいてほっと息を吐く。ごく淡い金色の長い髪を揺らし、まだ震える体を抱きしめるように左肩を右腕でぎゅっと掴んだ。
「ただの夢だよね……」
独り呟きながら窓を見れば、空は白み始めていた。夜明けが近いこんな時間に目を覚ましても寒いばかりだ。もう一度、毛布に潜り込んで眠ってしまう方がいい。そうわかっているのに。
逡巡していると、トントンと扉を叩く音がした。低く柔らかな声が、扉の向こうから少しくぐもった響きを宿して届く。
「私です。もう起きていますか?」
聞き慣れた声にシェンはするりと寝台をすべり降りる。扉を開くと角灯の灯に照らされて、背の高い青年の姿があった。
穏やかな樫の木のような色の髪に、もう少し薄い色の瞳。彼女に取っては誰よりも親しい人の姿に、ほっと息を吐く。そんな彼女の様子に首を傾げた拍子に揺れる青年の髪は、肩よりも長くさらりと流れて美しいが、ところどころ跳ねている。いつも通りのそんな様子に、シェンは気が抜けたついでに思わず吹き出してしまう。
「おや、失礼ですね」
「何も言ってないよ」
「あなたは私の髪の毛の跳ねているところばかり見るでしょう」
「だったら梳かせばいいのに。私のは毎朝やるくせに」
「あなたの髪を寝癖のままにしておくなんて、森の精霊たちへの冒涜ですよ、フォルヴィ」
「私はシェンだよ、ネルク」
夜という名を持つ青年が甘やかに呼ぶ声がくすぐったくてシェンは苦笑しながら首を横に振る。真白い森というのは、青年が彼女につけた愛称だ。
「薄い色だなんて。私だったらもっとぴったりな名前をつけて差し上げたのに」
「生まれ持った名は変えられない。そう言ったのはあなたじゃないか」
「まあ、成人したらまた考えましょう」
今はあなたがそれでよいのなら、と青年は肩を竦めて頷いた。白色貴石の灯りに照らされた表情は、いつも通りの優しいものだった。彼女よりも頭一つ高いのに、いつも少しかがんで彼女の顔を覗き込むように近づくから、あまり背の高さを感じさせない。今もほんの少し眉根を寄せて頬に手を伸ばし、柔らかく撫でるとその胸に彼女の頭を引き寄せた。
「また怖い夢を見ましたか?」
「平気。ちょっと背中が痛い気がしただけ」
そう言うと、青年はさらに眉根を寄せた。けれど、すぐにそんな表情を改めて、そうっとそれは、壊れ物を扱うように彼女の頭を撫でた。
「眠れないのなら、温かいお茶でも淹れましょうか」
「でも、まだ朝早いよ」
「今日は春待ちの宵祭の日ですから、皆早起きしていますよ」
「お祭りは夜からなのに、早起きするの?」
祭り自体は毎年のことだが、今年は何やらいつもより盛大に行われるらしい。
「もう十年ですからね。ちょっとしたお祝いのようですよ」
「十年……」
「あなたがここに来てくれた感謝を皆が伝えたいのですよ」
「そんなの……私は何もしてないし。どっちかっていうと、みんなが感謝してるのはネルクにでしょ?」
目の前の青年はこの街の祭祀を司る神官のようなものを務めている。ような、というのは、シェン自身が神官というものがどういう役割を担うのかよく知らないせいだ。
青年は静かに首を横に振ったが、それ以上は何も言わず、柔らかな毛織の肩掛けでシェンを包み込むと部屋の外へと促した。台所と一続きになった居間の暖炉には暖かな火が燃えている。そのそばに置かれた柔らかなクッションの上にシェンを座らせ、テーブルの方へと歩いていく。その背中を見ながら、シェンは首を傾げた。
「火を熾しておいてくれたの?」
この辺りは森の中だから、薪には事欠かない。それでも日が沈めば人々はカーテンを閉めてひっそりと過ごす。蝋燭の灯りは限りなく小さくし、淡い光を放つ白色貴石の角灯だけが夜の頼りだ。
「言ったでしょう、今日は皆早起きをするから、と」
「それにしたって、まだ夜明け前だよ」
「すぐに明けますよ。今日は昼と夜の長さが等しくなり、太陽が力を取り戻す日。空が明るさを増せば、守り石もより力を得るでしょう。あなたの負担も減るはず」
その言葉に、どきりとシェンの心臓が跳ねた。ネルクはシェンの手をとると、持っていた木のカップを握らせた。口をつけると少しばかりぴり、と舌先に刺激を感じたけれど、すぐにとろりとした甘さが包み込む。
「蜂蜜と生姜?」
「ええ、体が温まるでしょう?」
ネルクはシェンを椅子に座るよう促し、背に回って彼女の髪を梳く。手際よく緩やかな三つ編みに編み込んでいくその手は大きく温かい。見上げれば、鳶色の瞳もいつも通り穏やかに笑んでいた。
彼女は穏やかなその色が大好きだった。少し赤みがかった、豊かな実りを生み出す大地の色だ。本来は空を舞う猛禽の色だと聞いたことはあったけれど。
「では、それを飲み終えたら、今のうちに行きましょうか」
「え……?」
そう言ったネルクにシェンの体が強ばる。どこへ行くのか、問わずともわかっていたからだ。常にシェンに優しい青年は、それでも、それだけは譲ってはくれはしない。
「この街の人々と——何よりあなたを守るためです」
どうか、と眉根を寄せて懇願するように言われれば、シェンにはそれを拒むことなどできなかった。
ネルクに促されるままに、手早く着替えて外套を羽織り、外へ出る。春の気配が近い夜明け間近の空気は冷たく澄んで、けれど真冬ほどの鋭さはもうなかった。東の森の向こうからゆっくりと日が昇り、空を薔薇色に染め上げていく。美しいのに燃えるようなその色に背筋が冷えた。
いつか、こんな空を見上げたことがあるような気がして。
「どうかしましたか?」
振り返ったネルクに何でもないと首を振り、そのまま足早に追いついて一緒に歩いていく。たどり着いたのは街外れの崖。そこに掘り込まれたような大きな石扉だった。街の食糧の備蓄や武器庫として長らく使われてきたその奥へと続く石扉は、小人妖精の手になるものだと言われている。
一見ただのごつごつとした岩にしか見えない。けれど、ネルクが右の手のひらをぴたりと当てて、何か一連の音の連なりを呟くと、その変化はすぐに現れた。
触れているところを中心に、幾つもの円が波紋のように広がって、放射状の線がまるで太陽のように浮かび上がる。次いで、青年は今度は低く歌うように、いくつもの音の連なりを口にする。
紡がれる音に合わせるように、円と放射状の線の間に絡まる蔦のような紋様が浮かび上がり、やがて中心に細く亀裂が現れる。蔦模様が石扉全体を覆うように埋め尽くすのと同時に、中心の亀裂から奥へと招き入れるように扉がゆっくりと開いていく。
「不思議……」
「何度見ても見飽きないですね」
「ネルクもそう思う?」
「ええ、これほどのものは、世界中を見渡してもそうはありません。ずっと貴重なものが収められ、守られてきたのでしょう」
「貴重なもの……」
シェンがそう呟くと、ネルクはふっと表情を和らげた。大きな手でシェンの頬に触れ、親指を滑らせるように撫でて顔を覗き込んでくる。
「まあ、あなた以上に貴重なものなどありませんが」
「人を珍獣みたいに言わないでよ」
「希少で可愛らしいのは間違いないですけれど」
くすくすと笑うその顔に緊張も和らいで、促されるままに奥へと足を踏み入れた。