空へ
雷鳴と驟雨はそれほど長くは続かなかった。けれど、そこにあったはずの神官長の遺体も、緋竜の残滓も何もかもを押し流し、後には何も残っていなかった。
ただ、そこにあったのは傷だらけで倒れた、誰よりもよく知る青年の見たこともないような静かな表情だった。
なぜ、と問いたいことはいくつもあった。けれど、満身創痍で傷だらけのネルクを前にすると言葉は何も出てこなかった。シェンはただ、拳が白くなるほど握りしめる。
そんな彼女の内心を見透かすように、静かな声が届く。
「許してください、とは言いません。たとえ時を遡れるとしても、私は必ず同じ選択をします」
何度も夢で見たあの痛みが現実のものであったことを知って、半ば無意識に体が震えた。あの狂った神官を倒すために、まだ人の姿をとることさえできない幼い仔竜だった彼女の片翼を切り落とした。さらに、彼女を通して神気を輝石に蓄積し続けた。それが、シェンの命を削ることになるかもしれないとわかっていてさえ。
「ひでえ男だな。利用するだけして謝罪もなしか」
低く言うセラノの声は、どこか自嘲するような響きを宿している。無造作に伸びた鉄紺の前髪の奥から覗く眼は揺れていた。彼もまた、信じていた相手に欺かれ、利用されたのだ。
「あなたに言われるようなことじゃない」
「何だ、可愛くねえなあ。代弁してやってるのに」
「余計なお世話だよ!」
「余計なお世話とは何だ!」
真っ直ぐに向けられた苛烈な眼差しは軽口よりもはるかに彼の内情を明らかに伝えてくる。そこに浮かぶ怒りは、自分が利用されたことへの怒りだけではないのだろう。セラノは地の神殿の神官だった。ならば、彼はシェンの父と母を、そして生まれたばかりの彼女を知っていたのだ。
「……他にどうしようもなかったのなら、仕方ないじゃないか」
「生まれたばかりの竜の仔の翼を切り落とし、輝石を作った。しかも、そこに神気を流し込み続けさせた、本人に知らせることもなく! それだけでも命を落としてもおかしくはなかったんだぞ!」
「そんなヘマはしませんよ」
冷ややかな声に、さらにセラノの全身から怒りが吹き上がる。落ちていた剣を拾い、その切先をネルクの喉元に突きつけた。
「残す言葉はそれだけか」
「セラノ!」
「いいか、こいつはあんたを利用するだけ利用した。あんたを殺すつもりがなかったとしても、竜としての本質を損ない、二度と空を飛べないようにしたんだぞ!」
その言葉に、ネルクが肩を震わせる。俯いて、先ほどのシェンと同じように握りしめた拳は白い。
——後悔をしていないわけではないのだ。だが、それほどまでにあの神官長への怒りと憎しみが強かった。それに、きっとそれだけではない。
シェンはネルクの前に跪いてその顔を覗き込む。鳶色の瞳は彼女を見ようとはしなかったけれど、揺れる眼差しが何よりもその証だった。
「ネルク」
「彼の言う通りです。私はあなたを利用しました。それに——」
「守ろうとしてくれたんでしょう?」
はっとネルクが彼女の顔を見た。その瞳はずっと変わらない。優しくて、ずっとどこか苦しげだった。ずっとそばにいて、可愛がってくれたあの日々の全てが偽りだったはずがない。たとえ復讐がその目的の大部分を占めていたのだとしても。
「損なわれてなんかない」
竜を利用し、己が物にしようとしたあの狂った神官から隠すために。
緋竜を寄せ付けぬよう、竜の本質を閉じ込め、そして竜の力を利用する彼を封じ、滅ぼすことができるようになる、その時を待ち続けた。
——彼女を慈しみ、守りながら。
「ネルク、呼んで」
封じたのは竜の本質。けれどそれは損なうためのものではなかった。
青年はシェンをじっと見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
「シシェン=ヴィンス・フォルヴィ。真白き森の強き翼、あなたに祝福を」
背中の片翼から熱が広がる。全身に力が満ちる。そうして思い出す——初めて会ったあの日、彼女が持っていた姿を。
背は光を受けて微かに七色に輝く白い鱗に覆われている。首は優雅に長く、額には真珠色の短い角が一つ。背と同じように鱗に覆われた尻尾は長くぐるりと身を包み込めるほど。
そして、白い片翼は人のかたちをとっていた時よりもさらに大きく、広げれば年経た大樹の頂にも届きそうだ。ばさりと羽ばたかせると、周囲の空気が澄み、空を覆っていた灰色の靄が翼に吸い込まれ、澄んだ輝きとなって取り込まれていく。満たされた器は、さらに神気を取り込み、元の有り様を取り戻す。
「まさか——」
息を飲むセラノの声と、歌うように祈りの言葉を紡ぐネルクの声がやけに遠くに聞こえる。
背に熱が宿る。巡る力に神官が語っていた言葉の意味を理解する。
——神は存在し、彼女を確かに愛しているのだと。
もうひとつの翼が背を突き抜けて現れる。揃った両翼は大きく風をはらみ、そして、今度こそ空を識る。枷はもうない。
シェンは、空を自由に駆ける天の竜である己を取り戻したのだ。




