いと高き果ての国へ
潮風を受けて、帆は大きく膨らんではためいた。
わかたれた波が、船尾で白く泡立ちまた一つの海になっていく。
マストの頂上、見張り台の上から遥か船尾を見晴るかし、リアナはぎゅっとロープを掴んだ。
足元からは、リアナを探す声が聞こえている。
「姫さまー、リアナさま、どちらですかー?」
リアナと共に国を出、ついてきてくれた女官たちだ。
もしも今、彼女たちが上を見上げれば、あまりの驚きに卒倒してしまうかもしれない。
まさか自分たちの主が、船員よろしくマストの上でスカートを羽ばたかせているなんて。
リアナはぎゅっと身を縮こまらせ、帆の死角になるように身体をよじった。
あまり心労をかけたい訳ではないが、船に上がったならどうしても見てみたかった。
きっとこの先端からは、すべての海が一望できるかもしれないと思ったのだ。
(ここまで上っても、海しか見えないわ。私の国にはもう……)
リアナは船尾に広がる海をじっと見つめる。
視線の先、来た海路の元には、リアナの生まれたカラル国があるはずだった。
青と碧の境。緩やかに弧を描く水平線。
陸はもう遠く、リアナの目ではなにも見えない。
「姫さま!? どちらへ行かれたのですか!?」
下から聞こえる声に焦りが混ざってくる。
(そろそろ降りなくちゃ)
女官たちは心配性で口うるさい。時に面倒に感じることもあるが、それがリアナを心底想ってのことだというのは、よくわかっていた。
先の不安も多いだろうに、リアナのことを思いここまでついてきてくれたのだ。
彼女たちに、これ以上心配をかける訳にはいかないだろう。
答えようと口を開いた途端、大きな手がリアナを抱えるようにして後ろへ引き倒した。
「きゃっ」
「姫、お怪我は」
悲鳴にかぶさる様に、耳元で低い声が響く。
尻もちをついた衝撃はあるが、痛みはなかった。
どうやら、抱きすくめられるような体勢で、見張り台に座り込んだようだ。
自分を抱く腕が誰のものか気付いた瞬間に、リアナの鼓動が跳ね上がった。
「――だ、大丈夫です。イレネオ」
「よかった。だが、不用心です。落ちればひとたまりもない。海に慣れない姫は知らないだろうが、船というものは安定しているように見えても風任せです。陸と違って揺れるものだ。どうか手すりには近寄らないように」
一息にそう告げられ、リアナは慌てて大きく頷いた。
船乗りらしい逞しい腕は力強く、リアナの手では振りほどけそうにない。
引き寄せられた頬にイレネオの胸板がシャツ越しに押し付けられていた。亜麻の滑らかな感触と、その向こうの固い筋肉の感触に、リアナはぎゅっと拳を握った。
見上げれば、イレネオの顔がすぐそばにある。
まっすぐな鼻筋を挟む奥まった黒い瞳。癖のある黒髪の下、濡れて光る黒曜石のような瞳。
こうして見つめ合っているだけで、顔から火が出そうにも感じる。
「おっとこれは失礼。未婚の姫君には刺激が強かったかな」
最初からわかっていただろうに、白々しい。
睨みつけたリアナに、イレネオはしれっとした表情で返した。
「風に飛んでいきそうな風情に見えましたので。慌てて捕まえた次第です」
イレネオがゆっくりと手を離した。
が、狭い見張り台の上では、これ以上身を離す方法もない。リアナは黙って首を振った。
そもそもが、見張り台に上る姫君など、どう叱られたところで仕方のない話だ。
「ご容赦を。若君の奥方になるお方に無礼を働いてしまいました。この詫びは陸に――我が国に到着してからいかようにも」
「いいえ、あなたは悪くないわ……」
「へえ?」
「わかっています。言わせるまで離れないつもりですか」
「目を離した端から、またマストに上られると私が困りますのでね」
「……私が危なっかしいのが悪かったわ。もうしません」
しぶしぶ謝るリアナを一瞥すると、イレネオは身軽な動きでリアナをそこに置いたまま、しゅるりと見張り台を下りた。
「では、お早くお戻りください。先に降りて、女官を誤魔化しておきますので。お姉さま方の心臓を止めるのはしのびないのでね」
「わかっています……」
赤い頬を両手ではたいて、リアナは顔を上げた。
改めて、船尾の向こうに広がる碧い海と、青い空を見渡す。
陸は――カラル国は、もう見えない。
あんなにも高く天をつく頂は、世界中のどこにいてもきっと見えるのだろうと、無邪気にそう信じていたと言うのに。
■◇■◇■◇■
カラル国は、標高の高い山脈の上から、長く山岳地帯を治めてきた国である。
リアナの父――カラル国王には心労の種があった。
昨今力をつけてきた海洋の民。
一つは陸地へと支配を伸ばし新技術の開発に余念のないアルトヴィンター帝国。
もう一つは、伝統的な佇まいを重視するディーニア王国。
山岳の国、このカラル国は地理的に孤立しているが、鉱山資源に恵まれた豊かな国でもあった。
いずれは、アルトヴィンター帝国がこの国を飲み込もうと動いてくるに違いない。いや、それはもう始まっているものかも。
となれば、独立して国を残せる方法を選ぶ必要があった。
つまり、ディーニア王国との婚姻による和平である。
そもそも、リアナ自身も同じことを考えていた。
リアナには兄がいる。カラル国の跡継ぎの不安はない。
まだ幼い妹もいる。リアナが受けなければ、妹が見知らぬ異国へ嫁ぐことになるだろう。
自分が行くのが最善だ。
なんの不安も、問題もなかった。
話がまとまり、イレネオが迎えに来るまでは。
「月光の如く輝かんばかりの金髪、我らの愛する碧の海原と同じ瞳を持つ美しい姫君。あなたを迎えられることを、我がディーニア王国はこの上ない光栄と考えます」
異国から来た使者は、使者に相応しい大仰さの、弁舌さわやかで朗らかな――信用できないタイプの男だった。
イレネオの笑顔には嘘しかないし、その差し出す手は欺瞞で満ちている。
よって、リアナの第一印象は、むしろ悪かった。
父王から、ディーニア王国について少し話を聞くがいいと言われ、二人きりにされた途端。
リアナはテーブルの向こうのイレネオをきっと睨みつけた。
「父王の選択です、否やは言わないわ」
「否、としか思っていないお顔に見えますが?」
「いいえ、ディーニア王国とアルトヴィンター帝国。天秤にかけて父王があなた方を選ぶのは、理解できます。結婚には賛成です」
「ほう? では不足があるのは、なんでしょう」
「あなたの存在よ。結婚はします。でも、あなたの言葉は信じられないわ」
「おや、残念。王子殿下にはその胡散臭い笑顔は信じていないがお前の口達者は信頼できると言われ、この度の使者を任せられたのですが」
そう口にしたときの表情が、いつもより少し柔らかかった。
それで、リアナは少しだけ考えを変えた。
「あなた、ディーニア王子と強い絆があるようですね」
「私が? いえ、王子殿下からの評は今言ったようなものばかりで」
「軽口をたたくのは仲の良い証拠……いいえ、なによりあなたの声が証明しています」
「声、ですか?」
「王子の名前を出したとき、嬉しそうでしたもの」
イレネオは、一瞬かっと頬を赤らめた。
そして、ゆっくりとリアナから視線を外し、深い息をついた。
「……幼い頃から気さくな方で。性格の悪い私を、こうして取り立ててくださいました。あの方には幸せになってほしい」
仰々しい褒め言葉も、からかうような態度も信用できない。
だが、その言葉だけは、嘘はないと感じた。
リアナの準備とディーニア王国とのやり取りを待つ長い滞在の間、イレネオが真実の表情を見せたのは、このときだけだった。
それだけで、異国での暮らしが、ようやく安心できるものになった。
イレネオがこんな風に思う相手のいる国なら、きっと。
その思いだけに背中を、旅立った。
自分の心の決定的な過ちに、気付かないまま。
■◇■◇■◇■
はじめての船旅は、リアナにとっては興味深いものだった。
揺れる床も、水の節制も、つらくはあった。
けれど、なによりも水上を走る船の吹き抜けていく風が気に入った。
カラル国の乾いた風とは違う。
海水を含むどこか柔らかで重い風は、いつも温かかった。
リアナが海を愛し始めた頃、船は目的地へ到着した。
ディーニア王国の王都最大の港には、知らせを受け、未来の王妃をひと目見ようと集まってきた民がごった返していた。
船が近づき、リアナが人影に気付いた頃には、花輪と歓声がひっきりなしに投げかけられていた。
リアナは船べりに駆け寄り、大きく手を振り返す。
今日ばかりは女官たちもイレネオも、強く制止することはなかった。
船上のリアナが見えたのか、ひときわ大きな歓声が上がる。
その歓声が更に盛り上がったのは、群衆の奥から姿を現わした一団によるものだろう。
馬車には輝く王家の紋章が掲げられ、優美な白馬に跨った騎手が一団を先導している。
「……あれは」
「あれが、ディーニア王国王太子エリゼオ殿下です。早馬が間に合ったようで良かった」
背後に立つイレネオの声には、安堵が混じっていた。
「イレネオ様、いつになくリラックスしていらっしゃるわ」
「は……陸地を見てほっとしたようです。顔に出ていましたか、これは失礼」
「ふふ、遠いこの国から長旅でのお迎えでしたものね。ようやく戻られたのだもの、当然です」
リアナが笑って見せると、イレネオは表情を引き締め陸へと視線を戻した。
「ええ、これも殿下のため……ですが、予想よりもずいぶん楽しい旅になりました。まさか天空の国の姫君が、こうもお転婆とは思わなかったものでね」
「あら? 誰のことかしら」
「目を離すとすぐに高い所へ行ってしまわれる。やはり生まれた土地が恋しくてあられるか?」
「マストに上ったのはあの一度だけです!」
「途中のシュラウドで見つけなければ、あの後も上るおつもりだったのでしょう。見張り役の船員に言い含めておいてよかった」
「まあ! あの子があなたにいいつけたのですね」
お菓子で手懐け、見張り台を貸してくれるよう交渉したつもりだったが、交渉上手が他にいたらしい。
毎度、上ろうとしたところで制止されるので、どうしたことかとは思っていた。
「……ま、そんな苦労もこれで終わりだ。今日は枕を高くして眠れますよ」
「ベッドが揺れないことに違和感をおぼえるかもしれませんね」
二人が並んで会話をしている間に、港に停泊した船はタラップで陸へと繋がれた。
そろそろ向かうべきかとリアナが考えている間に、馬車から降りた人影が一つ、供も連れずに近寄ってくる。
「……あら」
「まったく。すぐそういうことをする……」
リアナの隣で、イレネオが大きなため息をついた。
そうこうしている間に、身軽にタラップをよじ登った相手は、勝手知ったる様子で船の中を歩き、リアナの元へと歩み寄ってくる。
柔らかな赤い巻き毛を風にそよがせながら、その方は朗らかにリアナとイレネオに向かって片手をあげた。
「や、二人ともお疲れさま。長旅は大変だったでしょう」
肖像画しか見たことがないとは言え、リアナに対してこんなに気安く話しかけてこられるのは、最初から気安かったイレネオを除けば、この国にはただ一人だけだろう。
「エリゼオ殿下で、あらせられますか」
「はい。そういうあなたは、リアナ姫ですね。迎えがこの男でびっくりされたでしょう?」
「どういう聞き方です。私はきちんと仕事をしてきましたよ。姫君にもちゃんと応じて」
「ええ、びっくりしました。こんなにも口から先に生まれたような人がいるものかと」
「姫君!?」
イレネオの悲鳴を聞いて、リアナとエリゼオは同時に声を立てて笑った。
どうやら、リアナが思った通り、エリゼオはイレネオのことを深く信頼しているらしい。
妻となる娘を預ける相手に、この男を選んだこと――そのことで、リアナもエリゼオがどんなに丁寧に他人を見ている人物なのかを図ったのだった。
「あなたとは気が合いそうだな、リアナ姫。お互いに熱烈に愛し合って決まった結婚ではないかもしれないが」
「愛は育てるものと父から教わりました。あなたと共に歩く未来を信じて」
手を取り合ったのは、ほぼ同時だった。
どちらにとっても相手が必要だった。
国の在り方を体現するような二人だった。
背中に時折当てられるイレネオの視線だけが、リアナにとってどこにも片付かない思いだったけれど。
リアナとエリゼオが船上で合流し手を振るのを、陸の人々は熱狂的な歓迎で受け入れたのだった。
■◇■◇■◇■
結婚の手筈は滞りなく進んだ。
時折、イレネオは連れ帰った責任からか、リアナに与えられた部屋に入り浸っていた。
なにもかもはじめての異国の暮らしで、心細い思いをしなくて済んだのは、イレネオのおかげだ。
リアナは諸手をあげて彼の訪れを歓迎し、軽口には軽口で応じた。
夫となるエリゼオよりも先に、式のドレスを試着するリアナを見た時には、さすがのイレネオも絶句していたようだったが。
聖堂での式は厳かに進み、宴の後にはリアナとエリゼオの二人だけが寝室に残された。
初夜という言葉は重く、リアナの背にのしかかる。
女官から必要な知識は教えて貰ったけれど、それでも不安でいっぱいだった。
「リアナ姫」
エリゼオの手が伸びる。
黙って抱き寄せられた胸板に、なぜか思い出したのは船上の出来事だった。
イレネオと二人で見た海。強く吹き付ける海風。逞しい腕の感触。
これじゃない、と胸の奥が叫ぶ。
その時が迫ってはじめて、リアナは気付いてしまった。
だが、この期に及んで、どうしてエリゼオを拒むことなどできようか。
エリゼオの言う通り、熱烈な愛情を持って結婚したのではないことは、最初からわかっていたのだから。
リアナは静かに目を閉じ、エリゼオの手に身体をゆだねた。
闇の中、一瞬の躊躇があったように思ったけれど、それもリアナの気のせいかもしれない。
これで正しい、間違ってはいないと、リアナは自分に言い聞かせた。
ただ一つ、過ちがあったとしたら――それは、心を許す相手を間違えたのだろう。
この場にいない誰かの名を呼ぶことなどできるわけもなく。
リアナは、エリゼオの妻となった。
■◇■◇■◇■
遠い異国から来た王太子妃は、国中で歓迎された。
リアナはものおじしない性格でもあったし、勝気で健康的なところはむしろ強い子を産むに相応しいと思われているようだった。
懐妊の兆しはまだないが、いずれも若い二人である。周囲が心配するほどのことではない。
心配しているのはイレネオくらいのものだったが。
「リアナ姫、ご懐妊はまだで……?」
「そういうことは、同性でもそう軽々は訊かないものですが」
「軽々ではありませんよ。後嗣問題は非常に重要な国家事項です」
「本音をおっしゃい」
「エリゼオの血を引く子どもは可愛いだろうなーって」
「……本当に、あなたときたら殿下のことがお好きですね」
リアナはため息をついた。
イレネオは最近では、リアナの前でエリゼオに対する好意を隠さなくなった。
やましいものではないので、最初から隠す必要などまったくないのだが、単に気恥ずかしかったらしい。
一度、リアナに核心を突かれたことで、リアナには隠さなくていいと思いなおしたのだろう。
そういった態度は、リアナには嬉しかった。
黒い瞳が喜びに輝くところを、ずっと見ていたいと思っていたから。
「あの方は、貧乏貴族の一人息子だった私を取り立ててくださった。恩があるのですよ」
「恩、だけではないですね?」
「人の気持ちを敏感に汲み取って、寄り添うことのできる方だ。恐れ多いことですが、友人としても尊敬している」
その笑顔は完璧で、一点の曇りもない。
だから、リアナも完璧な笑顔で応えた。
この思いがエリゼオに、あるいはイレネオにだって、見抜かれてしまえば、二度とイレネオと会うことはできなくなるだろう。
二人とも、人の心に敏い。
絶対に見抜かれる訳にはいかない。
リアナにとって、イレネオに会うことは日々の喜びの一つであり、同時に苦しみだった。
心をさらけ出すことはできない。絶対に、この相手には。
ただ、目の前で生きて動いていることを確かめるだけで、幸福を感じるだけで。
■◇■◇■◇■
アルトヴィンター帝国による侵略が始まったのは、そんな日々のさなかだった。
いまだ後継の気配のないまま、エリゼオは最前線に赴いた。
いずれも海の国。海戦が中心となる。
艦隊を率いて出陣するエリゼオを、リアナは不安を抱えながら見送った。
イレネオに対する思いとは違っても、エリゼオに対する思いもまた愛の一種だ。
必ず帰ってきて欲しいと涙ながらに願うリアナを、エリゼオは優しく宥めた。
そうして、なんの不安もないような晴れやかな顔で船に乗って、リアナの元を去っていった。
しばらくは、平穏が続いた。
戦況は悪くないというニュースだけが、リアナの耳には入っている。
変わったことと言えば、なぜかエリゼオの供に選ばれなかったイレネオが、毎日不満を漏らしていることくらいだろうか。
色々なものが手に入りにくくなったと聞いてはいるが、戦争中だから仕方はない。
茶葉も、甘味も、少なくなったものをなんとか工面してリアナに供してくれているのだ。
それを思えば、声高に問いただすこともできなかった。
すぐにエリゼオは無事に戻ってきて、こんなことで不安を感じる自分を諫めてくれるだろう。
そう信じていたのに――結局、死骸すら帰っては来なかった。
自室で待つリアナの手元に届いたのは、戦死の報だけだ。
膝から崩れ落ちかけたリアナを、横にいたイレネオの腕が支えた。
イレネオですら、蒼白な顔色をしている。
リアナの身体を支えることで、ようやく自分も立っているような有様だ。
近くの椅子に腰かけさせられたところで、リアナの目から涙がこぼれ落ちた。
エリゼオ戦死の報を携えた使者は、リアナの傍に寄って眼前に跪いた。
「……どうしてですか、エリゼオさま。必ず戻られると……」
「申し訳ございません。リアナさまには知らせるなと厳命されておりましたが……こうなってしまったからには、お伝えせざるを得ません。我が国の状況は悪く、既に王都近辺は包囲されております」
はっと顔を上げる。
隣に立つイレネオは、もはや反応もしなかった。
イレネオがその事実を隠していたことを、リアナは初めて理解した。
口惜しそうに床を睨む使者に、リアナは震える声で応えた。
「お知らせくださり、ありがとうございました。お疲れでしょう。どうか、ゆっくり身を休めてくださいませ」
「は、もったいないお言葉……」
使者の退出に合わせ、イレネオも出て行こうとする。
その背中を呼びとめた。
「イレネオ、あなた、どうして私に隠していたの! なにもかも、わかっていたくせに……」
「それが、エリゼオ殿下の指示でした」
こんなにも冷たい声色を、リアナははじめて聞いた。
振り返ったイレネオの顔からは、表情が失われたようだった。
――だから、リアナはすべてを許した。
エリゼオが旅立ってからの間、イレネオがすべての情報をリアナから遮断するのに、どれほど気力を使ったかわかってしまったから。
「イレネオは、エリゼオさまから聞いていたのですね。戻って来ないかもしれないと……」
「はい。エリゼオ殿下は自分が戻らなかった時のことも、私に指示されました。だから私も連れて行って欲しいとあれほど言ったのに……!」
イレネオは、耐えかねたようにその場に膝を突いた。
駆け寄ったリアナの手を、イレネオは、黙って握る。
その手が濡れているのは、涙のせいだと見なくともわかっていた。
「エリゼオさまは、ご自分が戻らなかった時のことを、なんと?」
「あなたを連れて逃げろ、と。私になら、あなたを幸せにすることができるだろうからと」
「エリゼオさま、が……」
ならば、イレネオと違って自分は失敗したのだろう。
完璧に隠していたはずの想いを、けして見透かされてはならないはずの気持ちを、エリゼオはどこで知ったのだろうか。
驚愕で震える肩を、イレネオの手が強く抱きしめた。
その感触は、いつかマストの上でリアナを抱いたときの腕、そのままだった。
「あなたの罪ではない。私の方が、最初からすべてエリゼオさまに知られていたのです。結婚の前夜、エリゼオさまはおっしゃった。『お前のものを奪ってすまない』と、『だが、奪うからこそ幸せにしてみせる』と。そのうえで――」
イレネオの身体が離れる。
黒い瞳が、真上からリアナの瞳を貫いた。
「こうなったからには、私に預けるとおっしゃった。連れて逃げろと。もう自分には幸せにはできないから、と」
「イレネオ……エリゼオさま……」
「黙っていて申し訳ございませんでした。あなたの想いも、自分たちの感情も」
「……私たち、三人とも……同じことを考えていたのね」
頬をつたう雫に、イレネオの手が伸びる。
初心な少年のようにぎこちない指がリアナの目元を擦り、そのまま顎を掴んで引き寄せた。
唇に当たる感触は、エリゼオのものとはやはり違っている。
だが、イレネオと共にある限り、リアナはエリゼオのことを忘れることはないだろう。
エリゼオがあの穏やかな笑顔に隠していたなにもかもを、今度こそリアナは聞くことができる。
イレネオの口を通じて。
■◇■◇■◇■
陥落し、燃え上がる王都から、多くの民が逃げおちていく。
そこに、しっかりと手を繋いだ二つの影があったのだと吟遊詩人は歌うが――二人がどこへ向かったものか、後の世の歴史書には記されていない。