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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

下の子

作者: 月崎 歩

 窮屈で空しいベランダには、古さだけが残っている。

 砂埃の色をした物干し竿に洗濯物は吊るされない。檻のようなアルミ手すりに布団が干されることもない。足場は誰にも頼られず、物置にもなれず、ゴミの仮置きとしてすら役立てられない。母と息子の二人暮らしでは、物もゴミも、部屋の外には溢れない。

 手すりの縦格子の向こうに見下ろせるのは下の階の荒れた庭と暗い石塀。目線を上げれば雑居ビルの外壁。顎を上向けてようやく覗ける狭い空は快晴でもくすんで見える。そんな空に見下ろされている冬のアパート。

 手すりの内側では褪せたアイボリーの室外機が、側面に十数年分の薄赤い錆を蓄えて仕事を待っている。黒ずんだコンクリートには乾いた泥がこびりつき、排水溝では木枯らしに捨てられた枝葉が積もって朽ちている。

 壁のない隠し部屋。絶えず、過去が積もり続ける。

 こんな腐りかけの小さな廃墟に誤って煙草の灰を落としてしまっても、誰の迷惑にもならない。誰も見ていない、きっと。

 こぼれ落ちた灰を無視して茶色のフィルターを唇に挟み、俺は期末対策のプリントをからっとめくった。視界の外の気配には気付かないふりをした。


 数日前まで、自分は煙草には手を出さないだろうなと思っていた。喫煙者の母には迷惑していたし、不法行為が憧れの対象になる時代でもない。見栄を張って煙草を始める不良は昔のドラマのイメージで、特に中学生の喫煙なんて背伸びっぽさが恥ずかしいくらいだった。

 だから先輩の家で煙草を差し出されたときも当たり前に断った。うちに遊びに来ていた先輩にベランダを貸したときも、家の者として付き添っただけで、一緒に吸う気はさらさらなかった。

 けど、手すりに背を預けた先輩が煙草を吸いはじめたときだ。なんだか普通だな、と思えてしまった。別に煙草を咥える仕草が似合っていたわけもないし、かっこよく見えたわけもない。ただ、かっこつけているダサさもなかった。ただただ、普通だった。俺にはそう見えた。

 思い浮かんだのは当たり前に煙草を咥える大人の自分。煙草の箱を室外機に置いて、その隣に浅く腰かけて。誰からも忘れられたベランダに、その姿はなかなか馴染んでいた。

 次の日には先輩のバイト先で煙草を買った。見た目で選んだ黒のボックス。隣の百均でベランダサンダルと小さな缶の蓋付き灰皿を買った。それらは室外機の陰に置いておけばバレないだろうと考えながら帰宅して、ライターを買い忘れたことに気付いた。食器棚の引き出しの奥から古いマッチを見つけて、試しに一本擦ってみた。無事に点いた火に見とれているとき、自分の行動がおもしろく思えてきてちょっと笑う。なんで俺は柄にもなく前のめりになっているんだろう、と。


 いま思えば俺は、このベランダに出てみたかっただけなのかもしれない。

 二本目の煙草を揉み消す。周囲は薄暗くなりだしているが俺はまだ家の中に戻らない。しばらくここで肺の空気を入れ替えないと、煙草の匂いを部屋に持ち込んでしまうからだ。息と服に残る程度の匂いでも外から帰ってきたばかりの人にはすぐ分かる。今までそれを感じてきたのは俺の方だったから、よく知っている。

 部屋に留まらず外出する用事があればいいものの、ほとんどの日はそうじゃない。だから部屋に戻れるようになるまでの時間潰しの用意をしてある。今日は歴史の一問一答だ。決して勉強で非行を相殺できるなんて期待はしていないが、携帯電話を持たない俺が煙草片手にでも扱える暇つぶしというと、プリントと単語帳くらいしか思いつかなかった。

 本当は何も持たずにぼーっとしておくだけでもよかったのだ。つまらない景色を眺めるだけでよかった。勉強は得意だけど嫌いだ。

 もしここが本当に誰の目も届かない場所だったら、あるいは俺が変に人見知りじゃなかったら。俺は散る煙の行方を見えなくなるまで観察したり、物憂げな表情で手すりに肘をついてみたり、向こうの壁のシミが何に見えるか想像したりして自分の世界に浸っていただろう。

 でも、子供がいた。下の庭で、いつも幼い男の子が遊んでいる。俺は興味がないふりをして目を向けないでいるのだが、あっちが俺を見上げてくる。俺が煙草を吸っている間、何度となく見上げ、見つめている――気がしている。

 俺はときどき無視しきれずにちらりと目線を流してしまう。流した先では、あの子供が地面の観察に夢中になっている。三歳前後だろうか、小さな背を丸めてしゃがみこみ、顔は地面に向かっている。目が合ったことは一度もない。慌てて目をそらす様子すら目撃できたことはない。

 プリントに目を戻してため息をつく。また視線を感じる。



 今日こそは訊くぞと決めていた。母さんのお喋りが始まってしまうといつまでも向こうのペースで進むから、違う話題を割り込ませるタイミングが難しい。話の区切りを見極めて、自然なタイミングで。こう言うのだ。

「話変わるけど」

 それは夕飯の支度の終わりがけに成功した。

 母さんが「うん」と頷いて俺の話を待つ。

「うちの下って誰か入ったん?」

 知りたかったのはあの子の身元だった。下の部屋は長い間空き部屋だったから、最近引っ越してきた家族がいるはずだ。でなければ、あの小さな子供が毎回どこかから抜け道を利用して不法侵入していることになってしまう。そういう行為に見て見ぬふりをすることは、流石にできない。

 母さんは食材を炒める手を止めて答えた。

「うんうん、そうそう。引っ越しの挨拶きてたでしょ――あ、そっか。翔真は……」

 俺は茶碗を片手に、フローリングに直置きされた炊飯器の蓋を開ける。

「俺、知らん」

「ね。そういえば翔真おらんやったわ」

「いつ?」

「先週よ。わざわざ挨拶のカードと洗剤持ってきてよ、絶対貧乏してないわ」

「ふうん、先週」

 じゃあ、先輩がうちに来た日にはもう空き部屋ではなくなっていたのか。

「ねえ、挨拶はともかく、カードなんて作る? 育ちがいいって損よね。お金も時間もかかってね」

 火から外したフライパンを持って、母さんは俺の背後を通り過ぎていく。意地でも羨ましいとは言わない人だが、拗ねたような声色は隠せない。

 俺はしゃもじを一旦手放して、母さんが落とした菜箸を拾って流しに放り入れた。俺の動きに気付いた母さんが軽く謝って礼を言う。

「そうそ、翔真くんからもカード貰いたいなあ。クリスマスでもなんでもいいやんか、いつでもちょうだい」

 母さんの猫なで声を背中に受ける。話題を取り戻す必要がある。

「その人ら、貧乏してないならなんでこんな狭いボロに住むんかや」

 内装は意外と古くないとはいえ、リビングと一部屋しかない物件なんて。一人暮らしなら十分だと思うが。

「狭いなんて。一人なら快適でしょうよ」

「一人ならそう、だけど。でも一人なわけ……」

 混乱した俺が炊飯器の前で固まり言葉を発せなくなっても、母さんに戸惑う気配はなかった。

「おかしくないって、両隣もお一人だろや」

「……なんとなく、下は親子のイメージがあって」

「そうよ、共働きの三人家族」

「一人じゃないやん」

 思わず首をがくりと落としてしまった。母さんが「なにそれ」とくすくす笑っている。俺はあの子供の不法侵入が警察沙汰になる心配までしはじめてしまったというのに。

「下のご家族はねえ、どっかに戸建てを持ってあって、今あちこちリフォームしておんのよ。旦那さんの出張に合わせてあって、ここは二、三ヶ月の仮住まいだそうね。ご夫婦とちっちゃい子供と三人で」

「そう。ちっちゃい子供か」

 ようやく欲しかった情報に辿り着いた。あとは母さんの話したいように話してもらって大丈夫だ。

 夫婦茶碗をリビングテーブルへ運ぶ。母さんはもうリビングチェアに座っていて、テーブルの中央には鶏肉入り野菜炒めの入ったフライパンが置かれていた。大皿や取り皿の用意は必要ない。使うときもある。

「下の子ったらね、保育園くらいのかわいい男ん子で、マイペースしてる子。ほほえましいの。ま、うちの子の方が可愛いからいいけどね。自覚ある?」

「母さんにとってはそうなんでしょう」

「まあ、よしとしましょ」

 母さんは茶碗を受け取り、「洗剤貰えたの嬉しいわ」と歯を見せて笑った。

 俺はテレビのチャンネルを何度か変えたあと、母さんに遅れて箸を持った。

 嫉妬の対象は経済力か。それとも、子供に父親がいることか。

「奥さんね、少しお腹大きかったわ。たぶん赤ちゃんやと思うのよ。どのくらいだろ?」

「今度会ったときに訊いたら」

「そうね。まあ、でも、生まれる前に帰っちゃうだろうし、聞いてもね。そうね。それにしても、兄弟なんて大変そうだし」

「大変だろうね。兄弟多い友達がたまにおかわり遠慮するわって言ってたし」

「やだ、いらん気づかい! そんなのお母さんは望んでおらんぞって言ってやれ! 翔真、お前もおかわりすんだよ!」

 母さんは行儀悪く箸先を振って急かす。俺は笑いを堪える。

「うるさ。食いはじめたばっかだし」

 俺の反応を見て、母さんは今日一番の笑顔を見せた。

 母さんの笑顔にはいろいろある。喜んでいる笑顔、何かを企んでいる笑顔、暗い感情を隠している笑顔。俺はそれぞれを見分けられる自信がある。そして、息子の笑顔を見たときの笑顔が最も明るいと知っている。

 きっと俺達は珍しいくらいに仲が良い母子なのだろう。思春期のはずの俺は母親と二人での食事が大好きだし、母親との親密さを友達に隠したことはない。同級生の語る母親のウザさにはちっとも共感できない。

 多くの同年代と俺とで親子関係に大きな差があるのは、俺と母さんの年の差が二十もないことが影響しているかもしれない。人に明かすと少しばかり驚かれてしまう母さんの若さも、恥ずかしく思ったことはない。

 なのに母さんは俺に気を使っている。勝手に負い目を感じて、意味もなく後ろめたくなっている。

 経済力も父親も、弟や妹も、欲しいなんて思ったことないのに。


 母さんが俺に持たせたかった全てを持って、下の子は明日も庭に出るだろう。彼に遅れて、下校してきた俺もベランダに出るはずだ。

 彼はいま金のかからない遊びに夢中だよとか、柔らかそうなファーの付いた上着がつやつやで可愛らしいとか、そういうことは母さんにはまだ教えないでおこう。

 一ヶ月くらいご近所さんを続ければ、母さんも自分の嫉妬心に慣れると思う。彼に対しての愛着が嫉妬と遠慮に勝る頃には、「下の子がさ」で始まる俺の話に食いついてくるだろう。それからは彼の目撃談が日常の話題の一つになる。

 母さんのこういう気質は人見知りの一種だろうか。とすると、俺達はやはり母と子だ。俺なんて、毎日のように彼の姿を見かけているのに手を振ってやったことすらない。目が合ったらどうすればいいか分からないから見ないようにしている。「お兄ちゃん何してるの」なんて言われたときにどうすればいいか分からないから、単語帳をめくってめくって、忙しそうなふりをしている。

 きっと俺達にはまだ早い。カーテンの向こうのベランダは、これまでどおり外の景色のままでいい。


 *


 人は自宅のベランダを自由に出入りできる。そんな当たり前の事実を思い出したあの日から約二週間。振り返ってみると、雨や風の日と母さんの休日以外は毎日ベランダに出ている。

 放課後の流れは決まりきっていた。帰りのホームルームが終わって教科書を片付け、友達と軽く雑談したら下駄箱へ。部活も寄り道もなし。俺の所属する化学部は実質帰宅部だから、顔を出さないのは今に始まったことじゃない。

 このような実質帰宅部や幽霊部員可の部活動はいくつかある。それは部活動への参加が全生徒に義務付けられているからだ。自主性の向上、所属意識、連帯意識の育成、居場所づくり。部活動を義務化してまで学校に居場所を作らせようという制度の結果、帰宅できる部活動が生まれた。

 今日も俺は当然のように下校して、のんびりするでも急ぐでもなく帰宅する。家に入ってからも決まりきった流れだ。玄関の鍵を閉めて靴を脱ぎ、リビングを横切り半開きの障子戸をすり抜けて部屋に入る。ベッドに鞄を放る。学ランをハンガーに、カッターは脱ぎ捨て、ズボンを部屋着に履き替える。動きは早い、でも急いではいない。ハンガーラックから学ランと入れ替わりで引き抜いた古着のダウンを重ねて着る。机の引き出しから黒いボックスの煙草を取り出し、リビングに戻ってカーテンを半分開けて、窓の鍵を、窓を開ける。

 俺はベランダに出る。居場所に入る。

 黒の箱を開きながら。

 窓を閉める。


 ふたりともが、ひとりきりだ。

 俺がベランダに出る時間にはあの子供も庭に出ている。先輩と一緒だったあのときは夜に近かったから例外として、あの子供を見るのは俺がベランダに出る回数と同じだ。

 彼はとても静かだ。しゃがみ、立ち、歩き、しゃがむ。暗い色の地面と雑草に向き合い続ける。そんな様子に俺が多少の薄気味悪さを感じていることは否定できないが、日暮れまでの庭遊びは彼にとって欠かせない時間なのだろう。ダンゴムシでも眺めているのだろうか。実は手遊びをしているだけだろうか。気になるけれど、俺に彼を観察する度胸はまだない。

 マイペースしてる子、と母さんは言っていた。マイペースにも種類がある。彼は母親を困らせないタイプのマイペース。手のかからない、親孝行な子供。


 俺があのくらいの歳の頃は可能な限り母さんをストーキングしていたと聞いている。自分の三歳前後の記憶なんてものはないからなにもかも伝聞だ。寝ているとき以外はいつも母さんの足元にまとわりついており、磁石で引っ張られているかのように一メートル圏内を維持していたそうだ。

 自在に走り回れるまでに成長した頃の記憶なら少しある。母さんと行動を共にしている間はとにかく同じ空間にいることにこだわった。広い部屋の両端にいることは平気なのに、壁や扉で区切られると不安になってしまう。ただのついたてや薄いカーテンでも、別の空間だと感じる状況は頑なに拒んで、ガラス戸の一枚も許さなかった。

 ただ、いつも母親を困らせている問題児でもなかった。必要だと言われれば他人に預けられるのも嫌がらず、保育園にもあっさり適応したと聞いている。

 俺の中に少しだけ残っている記憶の中にも、寂しがったり帰りたがったりした場面はない。俺は自分のいる場所が親の仕事終わりを待つための施設であることを理解していた。母さんと自分のためであると納得していたから、我慢しているという感覚もなかった。

 小学校に上がってからは放課後倶楽部という名の学童保育の世話になる。入学からしばらくはそこが野球クラブや水泳クラブと同列のものだと勘違いしていたから、自分は習い事に通わせてもらっているのだと思っていた。初めての夏休みが始まった頃、放課後倶楽部も保育園の延長であることに気付く。この勘違いを笑い話のつもりで母さんに伝えたとき、母さんは寂しそうな顔をした。

 今になって分かる。ずっと寂しがって帰りたがっていたのは、母さんの方だった。


 母さんが働いていることを理解して不在を受け入れていた一方で、一緒にいるときの区切られ不安はいつまでも続いた。中学に上がってからも、十四歳になっても、中学二年生にすっかりこなれた今でも続いている。

 子供部屋の障子戸は常に全開か半開きにしている。勉強机に向かっている間も、母さんのいるリビングという空間を戸の向こう側にしたくない。母さんがいないときでも開けっぱなしにしているから、母さんがどのタイミングで帰ってきても、振り返って首を伸ばせばすぐに顔を見ておかえりと言える。あの戸は開かずの戸ならぬ、閉まらずの戸だ。

 そういえば、もしも今この時に母さんが帰ってきたら、振り向いてもカーテンしか見られないのか。厚いガラスの戸をぴたりと閉めているのもちょっと俺らしくない行動だ。

 今の俺は完全に外にいる。外に閉じ込められてしまっている。窓を少し開けるか? 駄目だ、煙が入ってしまうから。ああ、だから閉めているのだった。俺はどうやら寝ぼけている。

 一人で煙草を吸った初日、俺は少し悩んで窓を閉めた。煙が入ってしまうから、と、この窓は閉まっているのが正しい姿だから。悪いことをしている自覚もある。

 この窓は、扉だ。いつだったかこのベランダを隠し部屋のように感じたのは、我ながら本質を突いていた。


 なあ、そっちの家の窓は開いてるか?

 物思いに耽るうち、俺の目は下の子を追っていた。多分遠い目というやつで。俺は俺の無意識に助けられ、彼を観察するきっかけを得た。

 目が合ったらどうしようという不安は消えた。そんな心配は不要だと分かってきていた。彼は俺の存在を感じてはいるだろうが、わざわざ顔を上げて様子を確かめようとするほどの興味は抱いていない。

 仮にこの認識が誤りだったとしても俺は慌てないだろう。だから、忙しいふりをするためのプリントや単語帳はもう持っていない。もし目が合ったら、お兄ちゃんらしく手を振ってやろうと思っている。俺がそう思うくらい、この子は赤の他人じゃなくなった。

 初めてまともに顔を見た。今まで根拠もなく不気味さを感じ、彼の表情が人形めいた無感情である可能性まで想定していた俺の覚悟は、全く無意味なものだった。

 純真かつ真剣な眼差しで土や草をしげしげと見つめる。時折人差し指でつついてみる。その表情は夢中の一言だ。この半月でとっくに庭の隅々まで調べ尽くしてあるだろうに、まだまだ飽きる気はないらしい。

 一人遊びが苦にならない性格であることは初めて見た日から明らかだった。その印象は今日まで変わらず。だけど今ではより正しい表現ができる。彼は一人遊びこそがホームなのだ。もしかすると、二人以上では多すぎるとさえ思っている。

 そんな彼なら窓が閉まっていても気にしないかもしれない。母親はリビングで家事でもしながら見守っているのだろう。そうだ、父親の可能性もあるんだったな。頼もしい父に見守られ、安心して夢中になれる。それは母に見守られる安心感とは違うものだろうか。

 羨ましくは思わない。俺は母さんとの二人暮らしに満足している。養育費をくれる顔も知らない父には感謝しているが、別に会いたいとは思わない。物心つく前から二人家族で、足りなかったことなどない。三人以上なんて多すぎる。

 母さんもきっと、いつか、息子は本当に母親以外の家族を必要としていないのだと気付いてくれる。


 ふと思い出して自分の右手に目をやると、長く育った白い灰がほろりと落ちるそのときを見た。煙草として吸われずにただ燃え尽きて散った灰。指に挟まれた煙草の先の、赤い火を隠す黒い燻りは、だいぶフィルターに近付いていた。俺は半端に残った灰を落としてから煙草を咥え、最後の一口を吸い込んだ。

 あの子が俺を見上げている気がする。ゆっくりと煙を吐き出し、灰皿で煙草を押し潰して穴に落とす。そうしながらさりげなくアルミ手すりの向こうを見れば、しゃがんだ子供の背が見える。背中に目があるわけはない。この錯覚は、いつなくなるのだろうか。

 なくならないのかもしれない。こそこそ隠れて煙草を吸うことの後ろめたさがもたらす被害妄想的な錯覚だとすれば、ありもしない視線を感じてしまう自意識過剰はきっといつまでもなくせない。

「ダサいし」

 小さく呟いたのを境に、周囲の音が大きくなった気がした。何も不思議なことはない、自分の声にびっくりして寝ぼけ眼が覚めただけだ。

 冴えた耳でもここは静かだ。辺りの路地を使うのは付近の住民と散歩の人、あとは地元のタクシーくらいなものだ。登下校中の子供の声、自転車と買い物袋、近所同士の挨拶、たまに通る低速の車。

 街の音は新鮮だ。いつも家の中で母さんを待っていて、ベランダの窓はもちろん、子供部屋の窓も閉めていたから。外なんてどうでもよかったから。

 俺は外の空気が好きになったというわけではない。だけどダウンを着てまでベランダに出る。当たり前のように煙草を吸う。それは煙草を吸うためであり、ベランダに出るためだ。どっちも本当のことで、自分の好奇心に従った結果だけど、あまりおもしろくない。自分のことなのに分からない。特に、美味しくもない煙草を吸うことに関しては。

 それでも二本目は吸うらしい。俺は箱の中の煙草をつまんだ。つまんだところで静止する。

 ――見てる。でもどうせ見てない。じゃあ誰に見られてるんだ。あの子供の他に誰が!

 すばやく目を向けたって、彼は俺を見ていない。せめて顔を背ける瞬間だけでも目撃できたなら! 苛立ちは行き場を失う。

 小さくため息をついてつまんだ一本を引き抜いたちょうどそのとき、外から自転車のブレーキ音がひょろひょろと、気の抜けるような細く高い音で響いた。うちのそばで止まった。俺は出したばかりの一本をそっと箱に戻す。

 がしゃりん、と自転車のスタンドを下ろす音が聞こえた。錆びついたボタンを滑らせて鍵をかける音。俺は息まで止めて耳を澄ました。自転車の鍵と手の内の家の鍵が擦れ合う。カゴからバッグを取り上げた。間違いない、母さんが帰ってきた音だ。今日の仕事は早く上がったのか。


 煙草を上着のポケットに押し込めて窓を開ける。悪あがきに深呼吸をして、匂いを散らそうと上着をはたきながらサンダルを脱ぐ。フローリングに片方の足を戻して、残した足でサンダルを押しやる。

 慌てた様子を下の子に見られたかもと心配になって手すりの向こうを見たが、ベランダの死角にいるようで見えず、俺はちょっと助かった気持ちで窓を閉めた。

 急いでかけた鍵がきちんとかみあっていることを確認して、カーテンを閉めきってリビングの電気を点け、子供部屋に戻る。戻るまでに上着は半分脱いでいる。煙草も片付けなきゃいけない。だけどいつ玄関が開いてもおかしくない状況だ。

 俺は片腕だけ脱いだ半端な格好で障子戸を静かに引き、こぶし一つ分だけ隙間を残した。

 ダウンをハンガーラックに戻したとき、玄関の鍵が回る音。金属のドアが軋みながら開く。引き出しの奥に隠すべき煙草は、仕方なくダウンのポケットの底に置き去りにした。

 玄関のドアは、やけにゆっくりと閉まる。

 ただいまが聞こえない。軽い足音が部屋に踏み入る。こっちからおかえりと言おうか考えて、今は控えることにした。

 母さんは怒っているのかもしれない。どこかからうちのベランダが見えて、俺がいるところを目撃したのかもしれない。悩む時間がないからこそ、俺は下手な演技や言い訳は試みず様子を窺うことにした。見られていた場合に怒りを煽ってしまわないよう、見られていなかった場合に墓穴を掘らないよう。

 障子戸の向こう側に気配がある。やはり控えめにでもおかえりと言おうか。

 母さん、どうして普通に歩かないんだ? なんで、忍び足みたいに近付いてくるんだよ。

 障子戸を開けたくなった。母さん、怒っているなら喋ってくれよ。そうしてくれなきゃ、いるかいないか分からない。帰ってきたのが母さんかどうかが分からないよ。

 帰ってきた誰かが戸の前で動きを止めた。

 小さい声がした。

「だれ?」

 母さんは、ただいまとは言わず、俺が誰なのかを知りたがった。

 強盗か何かを警戒しているみたいだ。きっとそうだ、もし俺がいるのならこの戸が半分以上閉まっているはずがないから。

 俺は母さんを驚かさないように答えた。

「俺だけど、翔真だけど」

「なんだ、やっぱり翔真くんなんやないの! なんてドッキリよ」

 障子戸の隙間を何かが横切った。母さんが放り投げたバッグだ。のんきな足音が遠ざかっていく。この様子なら何にも気付いていないだろう。

「別にドッキリじゃないでしょうや」

 ほっとして障子戸を開けると、母さんがわざとらしく振り向いて「わあ、空き巣が!」と両手を上げた。俺はナイフを突きつけるジェスチャーを見せて「金の隠し場所を言え」とやり返した。

「こっちが教えてほしいわ!」

 母さんは笑いながらコートを脱ぎ、俺は手を伸ばしてそれを受け取った。こうしなければコートは不憫にもリビングチェアの背もたれに干されてしまうから。俺はコートの形を整え、子供部屋のハンガーラックに連れていく。

 コートを吊るしている途中、ベランダの窓を閉める音がした。

「もう、半端に開けて。何してたん、マジでドッキリのしかけだった?」

「……何? 何、閉めた?」

 俺はリビングに顔を出した。母さんは窓の鍵のレバーを上げているところだった。次いでカーテンが引かれ、ベランダは隠される。

「窓、閉めたんか」

 俺は呟いて、ゆっくりと窓際に向かう。母さんが意外そうな顔をする。

「駄目だった? 換気でもしてたん」

 俺はカーテンの中央の分かれ目をまくって鍵の状態を見た。レバーは真上を向いて窓ガラスと並行に立っている。俺もさっき、この状態にしたはずだ。鍵をきちんとかけて、小さなレバーが半端な閉まり方になっていないのを目で見て、確認して、カーテンを閉めたのだ。まさかレバーだけ上げて窓は半開きだったなんて間抜けみたいなことがあったわけもないだろう。

「翔真くん?」

 不審がって呼ぶ声。俺は無意味に頷いて、カーテンから手を離す。

「いや、別に何も……。閉めたつもりになってた」

 間抜けがあったわけもないなんて言っても、窓が開いていた事実は俺が間抜けだった証拠に他ならない。焦って行動している人間の『したつもり』なんてこんなものなのだ。自分に呆れながら窓を離れたときだった。

「翔真!」

 母さんが怒鳴り、俺の腕を掴んで引き止めた。引っ張られる腕に従って後ろを向けば、目の前に現れた母さんの顔は険しい表情をしていた。

「お前ベランダで何してたんかや」

「何って、は?」

「先輩が来てたのと違うよな。なんて煙草よ、好きじゃない匂いだわ」

 母さんは威圧的に俺を睨む。俺は動揺のままに目をそらして、自分の間抜けさを思い知った。

「……どれなら好きなん」

 うろたえるのが嫌でふてくされて言い返すと、間髪入れず頭をはたかれた。

「少なくともそれが嫌いなんは間違いないだろうや、馬鹿」

「じゃあ違う煙草にしたほうがいいよな」

「お前な、はあ……お母さん、マジでムカついてるのよ」

 母さんは自分の苛立ちをどう伝えてくれようと悩むかのように腕を組む。そう振る舞うことで怒りを維持しているように見えた。ショックを受けているようだった。

 本当は俺に見せているほどの怒りは持てていなくて、怒ろうとして怒っている。その向こうに悲しみがある。俺の中では後ろめたさが後から後から湧いてくる。

 母さんの気持ちが手に取るように分かって、あまりに分かりすぎて気分が悪くなる。的外れでない自信がある。毎日毎日、それこそ記憶のない頃からずっと、母さんを悲しませないように気を付けてきたから。

 母さんを幸せにするために必要なものは、息子の俺が心から幸せであること。毎日が母さんを幸せにする練習で、本番だった。

「ごめん。先輩に、何本か入ったの渡されて」

 嘘をついてしまった。素直にやめればいいのに子供じみた意地が出張ってくる。こんなのは俺も母さんも幸せじゃないのに。

 煙草をやめないつもりじゃない。もう煙草は吸わないだろうと感じている。でもやめると決断するのは今じゃない。母さんに怒られて取り上げられたんじゃなくて、自分が飽きて手放したのだと思いたい。

 どうして俺は嘘をついてまでこんな意地を張るのだろう。母さんに取り上げられたからやめる、でいいじゃないか。これは思春期のせいなのか。俺は母さんと対等になろうとしているのか。

「これくらいなら、まあいっか、と思って。バレてもそんな怒られんだろと軽く思ってて」

 解けない謎を抱いたままで、俺は過ちに気付いた子の演技をやり通す。態度を小さくした俺に、母さんも声の怒気を抑えた。

「ああ。そんで?」

「怒られることしたって、その、自覚をした」

 俺は叱られるのに慣れていない。説教されるようなことをしないから。怒られることはあっても、どれもよくある小言や些細な口喧嘩だけだ。叱られることは滅多にない。

 それは母さんの立場からしても同じことだ。母さんは叱るのに慣れていない。

「ごめんなさい」

 謝ったことで罪悪感が増した。俺は母さんを裏切っている。隠れて煙草を吸うよりも酷い裏切り。

「もうしません」

 嘘をついた。悪いことをしたなんて思っていないのに、反省もしていないのに。でも嘘をつかないと、ただでさえ叱り方を知らない母さんが、ちゃんと叱ってやれなかった後悔と劣等感で苦しくなってしまうから。

 母さんは窓に背をよりかからせた。俺は話が終わると分かった。

「本当かや」

「反省してます」

 隠す気もないため息を浴びる。それには安堵が混じっている気がしてならず、俺は全て白状して謝りたくなった。

「出せ、煙草。灰皿とライターも捨て」

「ならベランダ……灰皿とか、外だから」

 母さんはどかなかった。

「いい、いいもう、外なら。明日片付けなや」

 バツの悪そうな顔で黙り込んだ俺は、自分の中に煙草をやめるつもりがないことを自覚した。母さんのため息を聞いて覚えた胸の痛みが治まりきるより先に、新しい灰皿を買いに行かなければと考えていたから。

 煙草を取りに自室へ一歩入ったとき、母さんはぽつりと俺の名を呼んだ。振り返ったが目は合わなかった。

「お前、ちゃんと反省……」

 母さんは黙り、続く言葉かため息かを、とくんと空気を呑み込んで隠した。

「煙草も、いいわもう。明日自分で捨て。お前の手に煙草があるとこ、お母さんに見せないように捨て」

「分かった。明日、うん」

 声が震える前に言葉を切って、震える腕で障子戸を引いた。

 戸が木枠を打つ素朴な音は、母さんと俺を繋ぐ何かの、ぼつりと千切れる音だった。


 *


 灰皿、ライター、嫌いと言われた煙草の銘柄。何一つ変えず、俺はあの日の翌日も煙草を吸った。それは最後の二本だったが、自分が初めて買ったこの一箱を空にしたとして、それをもって煙草をやめるのか否かに関しては全く想像がつかなかった。

 やめたくないと願ってもやめようと決意しても、その選択はあみだくじのスタート地点の一つに丸をつける行為にすぎないような、もっと悪ければ、どのスタート地点を選んでも複数だった道は内へ内へと合流し、唯一の結果に辿り着くのみだと決められているような諦め。現在の俺の意志は未来の俺に降ってくる意思に対抗できないような無力感があった。俺はもっと、自分は確かな自分を持っているやつだと思っていた。

 いつもどおりのペースで最後の二本を吸っている間に考えていたのも、やはりいつもどおりのことだった。今日の宿題と明日の授業、来週の合同体育、再来週からの冬休みの予定、今日の下の子の様子、今日も監視されている妄想と、その否定。

 最後の一本を灰にして、空き箱と一緒に灰皿を捨てようか考えた。考えていたつもりだったのに、ちょっとしたら何も考えていないも同然で遠くを見ていた。俺は匂い消しの時間も取らずに部屋に戻ると、留まることなく家を出て、先輩がレジに出ていることを確認して黒のボックスを買った。


 どっちにとってもショックな出来事であったはずなのに、俺と母さんの会話はあの日の記憶を失っているかのように変わらなかった。

 母さんは何日経っても灰皿を捨てたか訊いてこなかった。一歩ベランダに出るだけでサンダルが見えるし、探せば灰皿もすぐに見つかるのに、見つけようとする様子さえなかった。

 もうしないという俺の言葉を信じて全てを水に流しているなら都合が良い。しかしそう考えるには、一度も煙草の話を蒸し返さないのは母さんらしくなかった。確認すらしたくないくらいに思い出したくない出来事なのかもしれない。または、とっくに俺の言葉が嘘だったことに気付いているけれどそれを突きつけられず、気付いていないふりをし続けているのかもしれない。

 これらのどれが正解なのか、母さんの言葉や表情をどれだけ観察しても感じ取ることはできなかった。何も変わらないという確かな異変を、俺と母さんは一週間以上引きずった。

 ある日、母さんのライターがオイル切れになり、俺は「俺のライター捨てたのもったいなかったな」とかまをかけた。母さんはにやりと笑って、「そうかあ、お前が二十歳になったらいつでも横取りできるのね」とふざけた。その日から俺と母さんのぎこちなさは消えた。

 母さんは自分から確かめることができないでいたのだろうか。俺の方から「捨てた」と言ってもらえるのを待っていたのだろうか。あれで安心したのだろうか。そんなことさえ、俺は分からないままでいる。



 今年は暖冬だとニュースキャスターが話していた。取材映像では農家の人が不作を危惧していた。終業式の話題と街の方の中学の映像が流れ、またクリスマスの話題にこじつける。

 平日の正午過ぎのテレビは見慣れない番組と人ばかりで、これにしようと思えるものはない。バラエティ番組の再放送を見ながら母さんの手作り弁当を空にして、もう一度チャンネルを一巡したあとテレビを消した。

 未だに誘いの電話が来ないということは、先輩は高校の友達と遊んでいるということだ。このままでは俺は夕方までひとりきりになる。遊びたければ同級生に連絡してテレビゲームをしにいく手もある。冬休みの宿題を早々に終わらせてしまうのもいい。終業式の日の午後は大抵行き当たりばったりだ。何をしてもいいし、何をしなくてもいい。

 外は眩しいくらいに明るく、ベランダはひなたになっていて暖かそうだ。クリスマスもきっと晴れる。今年も二人でケーキを作るつもりでいる。


 ベランダで本当の意味でひとりきりになれたのは初めてのことだ。普段よりずっと早い時間、下の庭にいつもの子供はいなかった。

 俺は外を向いてまっすぐ立ち、真っ青な空をまっすぐ見上げた。

 ほぼ真上から降る太陽の光はベランダの色味を様変わりさせていた。冬にちょっかいをかけるかのような強く暖かい自然光はあらゆるものの輪郭をくっきりと見せる。朽ち果てた印象だったベランダは、表面の汚れはともかく各部の傷みや劣化は軽く、思っていたよりもずっと若々しい感じがした。

 コンクリートのくすみなんて向かいにあるビルの壁と比べたらないに等しいものだ。アルミの手すりのまだらな汚れは砂埃と雨の跡ばかりで、浮かび上がって見えるこの汚れの層を水拭きするだけでも見違えるのではないかと思った。

 一部だけ指でこすってみたいという好奇心をこらえ、俺はいつものように室外機に浅く座った。

 暗く寒々しいベランダより断然気分が良い。健やかで、落ち着く。自分の中に残っている良い子の部分を取り戻させてくれるようだ。

 煙草が空になっていて良かった。きっと、あったら吸っていた。そしてこの明るさに後ろめたさを煽られて、また自分に呆れていたかもしれない。ベランダに出た直後に箱の中が空だと気付いたとき、俺はほっとしていた。

 空箱をポケットから追い出して室外機の端に追いやったら、身体も心も軽くなった。同時に、今まで、ずっと重たかったのだと気付いた。


 光沢を失った銀色の縦格子には目立つ傷も歪みもない。建物の古い外観に対し、この頑丈で長持ちしそうな手すりはギャップがあって、必要に応じて改修が施されてきたのであろうアパートの歩みを感じさせる。俺が生まれた後にリフォームされたと聞いたことがあるから、ベランダもそのときに新しく作られたのだろうか。

 その他の点検や整備も適当に行われているのだろう。工事は昼にすることが多いようだから、俺がその時間に居合わせることはなく、どこがどう修復され改修されたかはほとんど知ることがない。

 新しくなったのは俺が何歳くらいの時なのだろう。この場所の昔の姿に覚えはないだろうか。小さな頃の写真に写りこんではいなかっただろうか。目を閉じたり開けたりして記憶を探ると、ふと、アルミの格子ではないこの場所の姿、茶色に錆びきった鉄の棒がベランダを囲っている光景が浮かんだ。これが思い違いじゃないとすればどのくらい昔の状態だろうか。俺はその頃のベランダを知っているかもしれない。

 視線で足場を辿っていく。そこだ。俺は出入りする側の窓の前を遊び場にしていた。母さんは家の中にいて、俺は何かカラフルなおもちゃで遊んでいたような覚えがある。でも、一人じゃなかった? 隣を見ると室外機があって、座っているのは男……。いや、座っているのはただの俺だ。今のベランダのイメージを持ち込んでどうする。

 過去を映す目に没入しかけていたところを現在に邪魔されて、すっかり現実まで押し戻されてしまった。こんな調子じゃ、アルミの格子になる前が鉄の棒だったって記憶も疑わしくなる。漫画やテレビに出てきたボロアパートのデザインを思い出して当てはめてしまったのかもしれない。俺がリフォーム前のベランダに出たことはあるのか、あとで母さんに教えてもらおう。


 室外機を離れ、窓の前まできて振り返る。

 一番奥はベランダを仕切る白い板。そして錆びついた室外機。室外機の隅に置かれた黒のボックス。いつもより明るい景色。

 ――この辺りで俺は座っていたのだろうか。

 頭の片隅に潜む記憶の塊を掠めるような僅かな既視感を捉えて、俺はそっと膝を曲げた。片膝を立てて静かに腰を落とす。目線が低くなり、足場と室外機がせり上がる。

 デジャヴだ。

 初めて見る光景とは思えない。ただ、室外機は今使っているものよりもずっと古い型で、緑がかった色であり、一回り大きい外装の角は無神経に角ばっているイメージだ。

 俺は座りこんだままで窓越しのリビングに目を向ける。昼間は電気を点けず自然光に頼りきりだが、今日のように明るいとフローリングの埃まで見える。この洋室を見て、今の俺の頭に浮かんでくるのは畳の床と昭和の雰囲気だ。当時、中は和室だったのではないだろうか。

 終わりがけのかるたのように、問う度ぱしりと答えが跳ねる。さっきみたいに過去から追い出されてしまう前に確かめなければ気が済まない。

 窓を開け、畳だったフローリングを膝立ちで擦り歩く。奥の台所は変化なしか。四角いちゃぶ台だったテーブルを横目に、閉ざされた障子戸に手をかける。この先はなんだったか、開けてみればきっと思い出す。

 開けるとそこも畳だった。もちろんベッドなんてなくて布団だ。昔は母さんもこの部屋で寝ていた。二つの布団があった。小さい俺は母さんの布団に収まりきって、母さんの腕に寄り添って眠っていたような。隣の布団を使った覚えはない。

 九歳まで一つの布団で眠っていたというのは今思い出したものではない確かな記憶だ。でも昔は布団が二つあったなんて本当に忘れていた。今では布団は一つしかない。俺は一度も使わなかったのだろうか。もしかして、それ以前は別の誰かの布団だったのだろうか。

 あれ、と、不可解が思考に立った。

 本当に二つ目の布団は空だったのだろうか。フラッシュバックして見えた光景には、本当に俺と母さんだけがいたのか。小さい頃の俺は母さんの布団の端で寝ていて、それは母さんの隣であり、母さんと誰かの間であり、隣の布団には、眠っているのは――。

 現実に戻る。デジャヴを感じてから思い出すのが楽しくなって、想像を膨らましすぎた。空想の域に踏み込んでしまっている。

 ベランダで思い出した記憶はまだ現実味があるにしても、リビングに入ってからのものは妄想だ。きっと瞬間的に浮かんだ空想を自分の記憶と混同しただけだ。次々に景色を思い出すなんて都合が良すぎる。今日まで一度も思い出したことのない、幼児時代に見た景色をなんて。

 ベッドに這い上がってうつ伏せになり、脱力する。さっきまでの隠し部屋を見つけたようなわくわくは煙になって消えた。

 どんな風に訊けっていうんだ。三人で眠っていた記憶があるけど本当かって? 離婚したのは本当に俺が赤ちゃんの頃だったのかって? 俺の父親はベランダで煙草を吸っていたかって?


 二匹の犬の鳴き声が聞こえた。外からだ。それぞれの飼い主であろう二人分の声が笑いながら挨拶を交わした。犬を叱る声が聞こえたのち鳴き声は一匹だけになり、じきに止んだ。

 俺はベランダの窓を閉め忘れていることに気付いて体を起こした。

 開いたままの窓、コンクリートの足場、脱ぎ捨てられたサンダル。

 窓の手前で立ち止まる。太陽の傾いた分、ベランダに落ちる濃い影が陣地を広げている。これから太陽はアパートを行き過ぎて、直射日光を浴びる権利はベランダの反対の面に移る。

 もう、終わりにできるはずだ。

 暖冬とはいえ冬は冬。ろくに動きもせず日陰に居座るのは辛くなっていくことだろう。煙草一本きりならまだしも、匂いを残さないためにプラス十五分は必要だ。こんなこと、正常なら金を貰ってもやりたくないと思うはずだ。

 ベランダに価値のあるものはなかった。煙草は美味しいものではなく、吸って何かに満足することはなかった。母さんとの関係は狂ってしまった。

 自分が煙草を吸いたいのか、ベランダに出たいのか、その両方なのか、そうしたい動機が何なのか、何も分からないままでいた。だけど煙草を買い足し、その二十本を灰にして、今日もまたベランダに出て、結果、誰のためにもならない過去を掘り起こしてしまった。

 煙草なんて吸うタイプじゃなかった。ずっとダサいと思っていたし興味も湧かなかった。なのに気が変わってしまったのはイメージしてしまったからだ。室外機に浅く腰かけて当たり前に煙草を吸っている自分のような、誰かの姿を。それがあまりに馴染んだ光景だったから。

 あれが過去に実在した景色なら、俺は父親のようなあの誰かの真似をしていたことになる。俺はそれを信じない。俺は一歳の時を最後に父親を見たことなどないはずだからだ。そうでなければ母さんが嘘をついていることになるから。

 今すぐ灰皿とライターを回収して、サンダルも引き上げて窓を閉めれば終われるだろうか。いらないものは誰かにあげれば済む。そうして窓を開けないでいれば元通りになるだろうか。戻りたい。当たり前で、俺が俺の意思で行動していた頃に。戻るんだ。


 下の子のことが気になった。俺が出てこなくなったことを悟った彼は何を思うだろうか。俺が見ていてやらずに彼は安心して遊べるのか。彼はそう思っていない気がした。いつもベランダで感じる視線は俺の被害妄想に違いないが、視線のうちのほんの一部くらいは下の庭からのものも混じっていたはずだ。

 何故だろう。彼との時間を手放すことは、年上の義務を放棄する身勝手な行為であり、彼への裏切り行為であるように思えた。

 結局、ベランダには煙草が必要だった。何故であろうと必要だった。

 誰もいない荒れた庭。俺はベランダの物をそのままにして窓を閉めた。

 俺は微笑むほど安心した。


 *


 先輩達と合流して頼んでいた煙草を受け取り、カラオケは断って帰ってきた。開封前の煙草を引き出しに突っ込む自分に呆れる。まるで呪いだ。

 昼間は灰皿を回収して終わりにしようと考えていたのに、そうしないまま窓を閉めたのはどういう風の吹き回しなのか。終わりにしようと決意したことをどんなきっかけで忘れてしまったのか。煙草を手に入れたあとで我に返ったが、反省しようにもよく覚えていない。

 うっかり買ってしまったとしか言えないこの感じこそ依存症の恐ろしい症状なのかもしれない。


 *


 母さんが仕事に出るのを見送ったあとはテレビを見ながらゴロ寝して、昼食にはご飯を温め直してレトルトの中華丼を食べた。食べ終わってからテレビを消した。まだ電気は点けなくていい。日が暮れはじめるまでは、自然光が照明代わりだ。

 リビングのカレンダーは今日のところに書き込みがされている。夕方からは例年通り、放課後倶楽部の頃のメンバーで集まるクリスマス会に参加する。母さんがパートから帰ってくる前に出る予定で、まず先輩と合流して友達の家に向かうつもりだ。俺はカレンダーの書き込みをもう一度見て、記憶が正しいことを確認した。


 幼い頃の記憶はどれほど正確なのか。一歳の時の記憶はどの程度残っているものなのか。俺の記憶力が特別良いのか、それともこのくらいは稀ではないのか。

 脳の研究者だって全ては分かっていないのだから俺なんかに分かるはずはない。だから俺は低く見積もる。自分の記憶は基本的にデタラメなものだ。そう思うことにした。昨日のデジャヴは、デジャヴにも満たない勘違いだった。妄想だったなら、何も問題はない。

 昨日の夜、ベランダの手すりがアルミに変わる前のことを母さんに訊いた。答えは「錆びまくりの細い鉄棒の柵」だった。俺は「見た覚えあるかも」と言ってみた。母さんは頭ごなしに否定することはしなかったが、目もよく見えてない時期だからね、と根本的な矛盾を指摘した。俺は納得するしかなくて、それ以上は何も訊かなかった。

 リフォームしたのが赤ちゃんの頃なら、本当に一歳の時だったのなら俺の記憶は矛盾する。リフォームされる前のベランダで遊んだ記憶も、畳の記憶も布団を二つ並べていた記憶も、思い出したと思い込んでしまっただけの作り物なのだろう。室外機によりかかって煙草を吸っている男の光景も、実在したものではなかったのだろう。本当に、母さんが嘘をついていないのなら。

 俺は自分の記憶にある光景を母さんに確かめようとはしなかった。母さんに嘘を重ねさせるのはかわいそうだと思った。

 どんな事情があるにしろ、母さんが隠すべきだと思ってそうしているなら俺は隠されたままでいるべきだと思った。平気だ、俺は母さんを信じている。だから、デタラメなのは俺の記憶の方だ。だから、何も問題はない。


 家を出る予定の時間から支度の時間を含めて逆算して、いつもより一時間早くベランダに入った。

 見慣れたアルミの縦格子に過去の映像が重なる。それは昨日よりも明瞭に浮かび上がる。

 幼い自分や父親のいる過去の姿には不思議なくらいに親近感を覚えさせられる。逆に、俺だけしかいない現在の光景に違和感を持ってしまいそうになる。

 いつも閉まっている窓が開いているとき、いつも開いている戸が閉まっているとき。それらに気付いたときの『違う』感じが、このアルミ格子を見てもする。ただなんとなく、そう思う。

 現在までの十数年間変わらずにあり続けたこの景色より、昨日思い出したばかりの過去の一場面の方に親しみを感じるのは奇妙だ。それは当然の疑問のはずなのに、こんな疑問を抱く自分がひねくれているように思える。ただなんとなくでいいじゃないか、この瞬間の俺があの景色をふるさとだと感じている、その事実があるというのに何に文句をつけるつもりなんだ、と。

 それでも俺は自分なりに考えてみたかった。ひねくれていようとなんであろうと、ただなんとなくなどという曖昧な感覚に流されることに危うさを感じる。今にも当時に連れ去られ、閉じ込められてしまうのではないか。そんなやけに警告めいた恐怖に気付いて息を呑んだ。

 町の音に耳を澄まして冷静になる。過去に連れ去られるなんて魔法みたいなことは起こりようがない。ぼけっとしているから妄想が過剰になる。ごちゃごちゃ考えるのはやめて、いつもどおりをこなすことだ。

 俺は新品のボックスを覆うフィルムを剥ぎ、中身の包み紙も引き抜いてポケットにゴミを仕舞う。隙間なく並ぶ煙草の中の一本を抜き取り、咥え、どこかから注がれる視線を知りつつ火を点けた。


 一時間も早く出たのに下の子が既に庭にいたことは、不審ではあったが頼もしかった。少なくとも彼の姿が見えているうちは、俺が現実に留まれている証明になってくれるはずだから。

 ――そうだよな。俺がここで煙草を吸っているとき、お前がそこにいてくれてなかったことはないもんな。

 彼をじっと見つめても彼がこっちを見ることはない。いつも感じる視線の元は彼ではない。隠しカメラも覗き穴も見つからず、周りの建物からこっちを見ているような影なんてものもない。だから、やはり正体は俺自身の自己嫌悪や罪悪感だと考えたい。

 だったらどうしてこの日課をやめないのだろうか。どうして、いつもより重く刺さるこの視線が、俺を逃さないための監視であるように思えてならないのだろうか。日課をやめようとした俺を責めているように感じてしまうのは、どうしてだろうか。

 はあっと煙を吐きだし、空気をゆっくり吸って、宥めるように吐く。

 ようやく少し落ち着いた。

 こういう自分は嫌いだ。被害妄想の塊だ。

 普通に考えてありえない。誰も見てはいないのだから。冷静になればこんな幻覚は消えてくれるだろう。しかし考えれば考えるほど視線を近くに感じてしまう。そのうえ今日は一段と、監視されている気配が強い。

 目を離すと彼の顔がこっちに向いている気がする。何度も目で見て確かめているのに疑ってしまうくらいに存在感のある視線だ。見上げられている気がする。俺を見ている何者かは、上にはなく、同じ高さにはなく、俺の目線より下にある。

 彼を見る。リラックスした横顔。安心しきっている無防備な背中。彼は俺をどのくらい意識しているのだろうか。顔は向けていないけど強く意識していて、その注意が彼の仕草の端々に現れ、それらを俺の無意識が読み取っていて視線のように感じているのかもしれない。超能力のような話だが、彼が背中にもう一組の目を隠している可能性よりは現実的だ。

 原因が存在していてほしいから俺は答えを探し続ける。現実的なものでなくても、彼の背中に目があったなんてものでも構わないから何か明らかになってほしい。俺の視覚が捉えているものと視覚以外が認識しているものが違っているのは気持ちが悪い。

 何より、分からないことが怖かった。

 これまでのいつの日よりも強い今日の視線は、俺を監視しているのか責めているのか。それとも何かを急かしているのか。何かに痺れを切らしたのか。俺は何をしてしまったのだ。何をしてしまっているのだ。

 耐え忍ぶような時間を過ごす。コルク柄のフィルターを挟んでいる指は、からくり人形のように一定のリズムで口元にやってくる。煙草はゆっくり短くなっていく。俺は逃げ出すこともできないまま、鈍感を装って遠くの空を見ている。

 注視されているかのような居心地の悪さは多少薄れた。ただし視線が途切れることはなかった。


 やっと一本目を吸い終わって心が緩む。二本目に火を点けるまでの休憩時間を不自然じゃない程度に長びかせることにして、手遊びに煙草の蓋をすぱすぱと開け閉めする。開けるのときの小さな抵抗、閉めたときの引っ付くような吸着感。二つのリズムからベランダの窓の開閉を連想したとき、自分が二本目を吸わないという選択肢を持っていることに気付いた。

 蓋を閉めたところで手遊びを停止する。戻ればいい。たったそれだけのことだ。

 そっと灰皿に蓋をして、室外機の足元へゆっくりと下ろす。悪事を働いているかのごとく息を潜めて、しかしすばやく。有無を言わさず逃げきるつもりで腰を浮かした。すいっと立ち上がったこの足だったが、急に動かなくなってしまった。動けなくなった。

 強い視線。下の子を見る。下の子は俺を見ていない。つまらなそうな横顔。まだ遊びたいと思っていそうな。俺は本当に悪いことをしている気になってくる。

 そんな顔をされても困るよ、俺はもう、たくさんなんだ。戻りたいんだ。

 だけど彼の期待に応えて笑ってやりたいのも本心だ。子供の言いなりになるのは大人の仕事みたいなものだから。今日は時間もたっぷりある。

 ふっと楽になって腰を下ろしそうになった。俺は膝を曲げる寸前で思い直した。俺は自分のために逃げなくちゃならない。呪いのような煙草の誘惑に打ち勝たなくてはならないのだった。

 おねだりをするみたいにぐずってみせる子供の声。いや、そんな声はしていない。この声は今聞こえたものじゃない。俺の記憶の一場面、過去のベランダで父親に向けて発した不満の声だ。

 下の子はずっと下にいる。表情に変わりはなく、何かを訴えてもいない。さっきまでつまらなそうに見えていたのは俺の思い込みだったのだと思った。不気味な視線に納得できる理由を求めるあまり、彼に何かがあるはずだと疑いをかけていた。そうであってくれないと、視線の原因が人ではない存在に求められてしまうからだ。そんなものの存在はもちろん信じてはいないけど、もしかしてという思い込みから存在を感じてしまうのが怖いから。

 いくら見回しても見つけられなかった視線の元。それが見えていなかっただけだとしたら。そんな存在は信じてはいないけど。見えていなかっただけで、気付かないうちに、見回す度に何度も、今日まで何度も目が合っていたのだとしたら。このアイデアは嫌なくらいに正しそうで、俺は下の子の平然としている横顔から目を離さないことでしか自分を慰められなかった。彼に声をかければすぐに正気に戻れると思った、でも声は出なかった。

 きっと何もかも勘違いだ。熱があるのか、ストレスが溜まっているのかどっちかだろう。このところ俺が味わっているあらゆる不調を全て煙草のせいにもできる。考える力が衰えるくらいに喫煙が俺に合わなかったのだ。

 ベランダを出れば少しは落ち着いて考えられるようになる。視線や気配は幻覚だ。寒気と恐怖は症状だ。何も見えないし、見えたってそれは幻覚だ。

 俺は視線を横にずらした。窓の前には子供一人ならゆったりと座れるくらいの小さなスペースがある。俺の記憶で俺が座っていた、今は誰もいない空間。本当に何もいないのか、もしかして見えていないだけなのか。今、目が合っているのだろうか。もちろん、何も見えない。

 監視されているような落ち着かなさは変わりない。まさか、こっちではない?

 俺の目は逆側へ向く。何一つ変わった様子のない仕切り板。どこにいるのか分からない。目が合っているかも分からない。目が合っている気がする。見られている気がする。下の子は背を向けたままだ。俺の背中側は室外機を挟んで窓だ。隙間はない。それでも背後から俺を見ているというのなら――。俺は力なくぶら下がっている手を拳に変えて、静かに後ろを振り返った。窓の向こうには、誰もいないリビングがあるだけだった。

 これで満足しただろ。忘れるな、これは体調不良のせいで始まってしまった幻覚なんだ。何かがいる気がするだとか先輩に話してみろ、笑い話にしかならないだろう。俺はそういうダサいのが嫌いなはずだろ。

 気持ち悪いと思ってしまうのは症状の一つにすぎない。視線は被害妄想だ。誰も何もいない。これから俺は灰皿を持ってベランダを出て、あとは気を抜かず禁煙する。それだけでいい。

 大丈夫だ。一呼吸置いて目線を窓から外し、小さなスペースの方へ送った。誰もいない。

 小さな子供がいるような存在感。べたりと尻をつけて座っている、おもちゃを夢中でいじっている、そんな光景がよく馴染む地味なコンクリート。

 大丈夫だ。何も見えないし、見えない何かも存在しない。

 俺は腰をかがめて陰に隠した灰皿に手を伸ばした。だけど、取れなかった。

 下の子がいない。足音も聞こえなかったのに。そもそも足音なんて聞こえたことがあったっけ。思い出せないが今はどうだっていい。下の庭でついさっきまで地面や雑草を覗き込んでいたはずの小さな背中が消えている。錆びた鉄柵の隙間から見える暗い庭から、あの子供がいなくなっている。

 肩が錆だらけの柵に当たりそうになってしまい、慌てて引っ込める。錆だらけでザラザラの、腐っているように見える、継ぎ目が割れそうな鉄棒の柵。

 大きめの室外機のせいで狭くなった足場。俺はまともに膝も伸ばせないまま動いたせいで無理な横歩きになってしまう。片足を引きずる形になっていた。にもかかわらず、俺は移動しようともがき続けた。

 俺は逃げようとしていた。今度こそ連れ去られてしまうんだと恐怖に駆られた。室外機の前を抜け出ても動揺のせいで立ち上がれない。その場で俯いて胃の辺りをさすった。

 これも幻覚に違いないのだ。待っていれば戻れる。ベランダを出ればいいだけだ。それだけだ。

 休んでも立ち上がれないほど怖かった。母さんに会えなくなると思った。

 コンクリートに手をついて進む。四つん這いで一歩、二歩。もう端だ。

 鉄棒の付け根には穴が空いているところもあった。排水溝には小さなゴミが散らばっているだけで、長く放置されている様子はなかった。どこにも意外なところのない、見慣れたベランダだった。

 手のひらを窓にべたりとつけて引っ張る。居間の母さんが笑顔になった。

「頑張れ、力持ち!」

 窓を挟んでいるために小さく聞こえる母さんの声援。大きな窓は重く、手のひらが滑って離れてしまう。

 開けてくれればいいのに、母さん。

 両手を張り付けて綱引きのように体重をかけると、引っ張られた手首の皮はきゅっと突っ張って、手のひらがうまく密着して窓を引けている手応えを感じた。踏ん張る足の指先はスリッパの行き止まりで窮屈に詰まっている。手の指にも力を込めてもうひと踏ん張りしてみると、窓枠からべりっという音とゴムの感触が伝わってきて窓が数センチ開いてくれた。

 母さんの歓声。俺は隙間に指をかけて窓を体の幅以上まで開けて、ふらついて尻もちをついてしまいながらも母さんからの祝福を受け止めた。すぐに立ち上がって母さんと目を合わせる。

「すっごい力持ちや、すっごいじゃん。見たか、君のお兄ちゃんはかっこいいねえ」

 母さんはにこにこしながら俺を褒めて、腕の中の眠たげな赤ちゃんにも笑いかけた。母さんの膝の上から畳にかけて垂れているのは、小さい頃の俺が使っていたタオルケットだ。俺のタオルケットを使っているのは誰なんだ。

 なんで、母さん。俺がお兄ちゃんなわけがないだろ、母さん。俺は一人っ子だって、母さんが。

 訴える声は出てくれなくて、俺の口が発したのは甲高い泣き声だった。

 母さんは「うそ」と目を丸くして驚いて、釣られて泣き出した赤ちゃんを抱きしめた。

「ああびっくりしちゃったね。ああ、お前も窓が重かったんだろな。疲れちゃったんだもんね」

 俺は母さんの方へ駆け寄りたくてスリッパを脱ごうとした。そのとき、頭の上からつむじをつんと押されて動けなくなった。

「お前は、下の子の邪魔をするお兄ちゃんじゃないよな」

 そう言われて水の出るシャワーのおもちゃを握らされ、大きな手で頭を撫でられた。

「よし、力持ち。窓閉めるとこまでやったら完璧だ」

 火の点いていない煙草を咥えている父さんは、窓を指でつついて促し、きょとんとしている俺の顔を見て笑い、室外機へ戻っていった。

 室外機の上に黒のボックスの煙草。その隣に腰を下ろし、父さんは煙草に火を点ける。その姿は俺が煙草を始めるきっかけになった、俺が大人の自分だと思ったイメージのそのものだった。

 父さんは俺を見て、俺が窓を閉めるのを見守ろうとしている。母さんが俺を応援する。

 閉めてはいけないと思った。戻らなければ。中に入らなければ、ここから出なければ。

 俺の体は家族の期待に応えようとし、両手の指を揃えてガラスと窓枠の段差にかける。閉めるのはなんの苦労もいらない。閉めたくない。ここは俺の居場所じゃない。俺はここに閉じ込められたくない。だけどこの体に今の俺の意思は反映されないみたいだ。

 俺は窓枠に指を添えたまま動かなかった。このまま粘るしかないと、やりかたも分からない抵抗を試みた。俺の体はしばらく動きを止めていた。母さんの応援も止んでいる。止まっていた。時間が止まっていたのだ。

 何かが聞こえた。何の音がしているかも分からないのに、びりびりとうるさく感じている。そして膜を張ったような無音は徐々に薄れ、耳鳴りが治まるときとよく似たペースで聴覚が戻ってくる。

 半開きの窓の向こうで大きな呼び出し音を鳴らしているのは、リビングテーブルの上にある家電の親機だった。


 背中が冷たい。俺はアルミの柵を背にへたりこんでいた。

「戻ってこれた」

 俺は声を出して確かめた。体が動くと分かってすぐに窓の向こうに片腕を突っ込み、そのまま這いつくばってベランダを出た。息を整えて立ち上がりながらまだ鳴り続けている電話機に向かった。

 フローリングにリビングテーブル。汚れたベランダ、アルミの縦格子。

 ここは現実だ。俺は安堵のため息をつきながらリビングチェアに腰かけ、テーブルに手を伸ばして受話器を取り上げた。もしもしと応答すると、電話先の男の声は「いま家?」と呼びかけてきた。

 先輩の声を聞いて、俺は心の底からほっとして笑った。

「これ家電だろや」

「そうや、そうやったな」

 先輩はけらけら笑って、俺も一緒に笑った。そこで自分は遅刻しかけているのではないかと心配になって時計を見る。時間は体感とほぼ変わらなかった。ベランダに出てから、十分ちょっとしか経っていなかった。

「何の電話ですか?」

「ああ。今から兄貴が小中学生に配る分のノート買いに行くらしくてな、車出すからついでに来んかって」

 それは魅力的だった。先輩とは毎週のように遊んでいるのに、兄の方と会うのは数ヶ月ぶりになる。

「どこ行けばいい?」

 俺は打ち合わせに入ることで肯定を省略した。先輩は嬉しそうに調子良く話しはじめた。

「よっしゃ。まだ家なんだけどな、お前が来るなら待っておろうと思ってるから。いや、寒かったら別に迎えに行ってもいいんだ……あ、今すぐじゃなくてもいいぞって、兄貴が。どうする翔真」

「あ、ちょっと」

「なになに、聞いてなかったとかやめろよ」

 もちろん先輩の言葉は全部聞いている。俺は立ち上がりながら頭をかく。

「聞こえてます、はい。今ちょっと、窓閉め忘れてるのに気付いて」

「じゃあお前が窓閉めて着替えてる間に俺らがお前んちに着く流れ?」

 待ってくださいと俺は声を大きくして、先輩に焦りが伝わるようにと願った。制御できない怯えによって何も考えられなかった。テーブルに両肘をついて、片手で頭を抱える。

「ちょっと窓閉めてくるんで待ってください」

「待ってよ。行っていいならすぐ出たいから。俺らはお前んち向かっていいわけ?」

 それを判断できるほどの余裕がない。とにかく待ってほしかった。

 俺は視界の外から刺さる視線が気になって気になって、電話なんてしている場合ではなくなっていた。電話から離れさせてほしくてたまらなくなっていた。そして俺が顔を上げて窓を閉めて戻るまでの間、先輩には電話を繋いだままでいてほしかった。

「ごめん、待って、窓が……」

 緊張で一語ずつしか喋れなくなりながら、重い頭を上げるのは諦めて首を捻る。視界の縁のぎりぎりに半開きの窓が映った。その窓とアルミの柵の間に何かがいるのが見えた気がした。逆光を受けているその何かの輪郭が、小さな子供の座り込んでいる大きさに見えて、俺は声を堪えて歯を食いしばった。

「もしもし? 雨でも降り込んでんのかよ?」

 先輩は笑って茶化す。俺がふざけてこんな演技をしていると思っているのだ。

 俺は緊張感のない声を心の支えにして、視界の端の気配に目を凝らした。子供が顔を上げてこっちを見た気がして咄嗟に顔を伏せた。

 俺は目を閉じてしまった。開けるきっかけがほしい。先輩にもう一度喋ってほしかった。

「もしもし、閉めに行ってんの?」

 先輩の声が聞こえているうちに目を開けた。子供の影は消えていた。

「……まだっす。待ってて、もらっていいですか」

「分かったから行ってこい」 

「うん、ごめん」

 音が立たないように受話器をそっと寝かせた。

 ごめん、すぐ戻るから。起き上がり、頭を抱えていた片手を下ろしてふらふらと窓へ近寄る。

 あれ、なんのために窓まで来たんだったっけ。

 そうだ、そう。いつも二本吸うのに、今日は一本しか吸ってないんだ。

 分かったよ、すぐ戻るって。

 ポケットから煙草を取り出しながら、足でサンダルの片方を引き寄せる。その片方に足を入れてベランダに乗り出し、もう片方に足を伸ばす。

 下の庭ではあの子が草を眺めている。あの記憶の中の俺の年齢も、あの子と同じくらいに見えたなと思った。

 窓を閉めようと手をかけた。

 その直後、先輩が大声を出しているのがリビングの受話器から聞こえてきた。閉まりかけた窓の隙間に滑り込むように漏れてきたものだった。

 俺は我に返って窓を開けリビングに転がり込んだ。サンダルの片方がフローリングにぱたんと落ちる。もう片方を足の先にひっかけたまま、俺は急いで窓を閉めて鍵をかけた。

 電話機に戻らなければと思ったが、その前にカーテンも閉めた。ベランダを視界に入れたくなかった。電気の点いていない室内は一気に暗くなる。電気のスイッチには向かわず、受話器に飛びついて耳に当てた。

「戻りました」

「遅くね?」

「ごめん、さっき何か叫んでなかった?」

「ああ、呼んだんじゃないよ。兄貴がドア越しにまだかって言うから、まだって返事した」

「マジでありがとう……」

「なんて? 声ちっさ」

 疲れきっていた。頭も混乱している。今日起こった多くの出来事や思考が時系列もばらばらによみがえって行き交う。

 あれは一体、何だったのか。母さんが抱いていた赤ちゃんは。父さんが言った下の子という言葉は、普通に考えて下の家の子供を指すものではないだろう。弟という意味と取るのが普通だ。

 だけどそんなはずはない。俺は一人っ子だ。そうでないなら母さんが嘘をついていることが確実になる。母さんが、俺が思っていたよりも多くの嘘をついていることが。

 あれは一体、何だったのか。俺を監視する子供の影は。以前から分かっていたのは、自分がこの頃、煙草の依存症と自己嫌悪やストレスみたいなものによって、視線を感じるという被害妄想に陥っていたことと、下の庭にいる子供に感じる異質さから彼を疑っていたことだ。

 しかし視線の元は手すりの内側、俺が居座っている室外機の横だった。記憶の中の俺が遊んでいた場所だった。俺は過去の自分に監視されていたのだ。深層心理のはたらきとか、よく分からないけどそれっぽいもののせいだ。そして俺が昔の記憶を呼び覚ましてしまったことが、幻覚をよりはっきりしたものに進化させたのかもしれない。

 下の子とよく似た背丈の影。もしかすると、見た目は下の子の姿をまるっと反映させているのかもしれない。さっきぼんやりと見た影の輪郭を脳裏によみがえらせようとすればするほど、上着の色や質感がいつも下の子の着ている物と同じだった気がしてしまうのだった。

「もしもし?」

 先輩の声で電話中だったと思い出す。慌てて謝罪する。

「ごめん、その……聞いてなかった」

「いや何も喋ってないけど。大丈夫か?」

「大丈夫。えっとじゃあ、すぐ出てそっち行くから、買い物ついてっていいですか?」

「分かった、じゃあ待つわ。電話切るけど、大丈夫な?」

 先輩は心配そうに念を押した。俺の様子の異常さから不調を察してくれたのだろう。自分でも取り繕いきれていないことは認識していた。病んでいると言わざるをえない。

 どうせなら心配してもらえていることに甘えて、電話を子機に持ち替えた上で支度が済むまで通話状態のままでいてほしいくらいだが、そんなはずかしい注文は流石にできない。


 受話器を置いて電気を点け、急いで支度を始めた。

 俺はスーパーのレジ袋にサンダルを突っ込んだ。煙草を開封した時に出たゴミもポケットから出して袋に入れた。

 流しの前に立つ。黒のボックスを開くと蜂の巣ように詰まっている煙草が現れる。今日吸った一本の分の穴が開いていて、俺はその抜けをきっかけにして煙草の整列を乱した。

 不規則に生まれた隙間に蛇口の水を流し込んで溢れさせ、中の煙草を一つ残らず濡らしてしまう。これでもう完全にゴミになった。気分が変わって無意識に煙草をポケットに戻してしまうというようなことを防げる。

 あとは、何が何でも新しいのを買ったり貰ったりしないようにしなければならない。

 箱ごと握り潰してひっくりかえすと、絞り出されて落ちてくる水は既に透明ではなくなっていて、茶色に染まった毒々しい液体が排水口へ流れていった。こういった形で目の当たりにさせられるとぞっとしないではいられない。冷たい水でしっかりと手を洗った。

 駄目になった煙草もサンダルと同じ袋に入れて、袋の口を固く結ぶ。

 これを持って先輩の家に行くまでの道でゴミ箱を見つけるか、駄目でも夕方のクリスマス会までに捨てられれば証拠隠滅は完了だ。ベランダに残してしまった灰皿は、次に友達を家に呼んだときに処分しよう。

 臆病者でもいい。お化けを信じて怖がっているわけではなくて、幻覚を幻覚と認識した上で怖がっているだけだから、多分、セーフだ。

 ズボンだけ履き替えて、財布を入れた鞄を肩にかけて子供部屋の電気を消す。障子戸は開けっ放しだ。これだけで、一つ自分を取り戻せた気分になる。

 リビングの窓はカーテンに覆われている。窓はきちんと閉まっている。緊張しながら歩み寄り、鍵に触れた。鍵がかかっていないと分かった瞬間レバーを上げて鍵をかけた。

 俺は鍵をかけたつもりになっていたのだ。本当に気が動転していたから。俺が鍵をかけ忘れたのだ。

 外の光によってカーテンに作られる室外機や手すりの影。余計な影は一つもない。

 下の子はまだ庭だろうか。いつもこんな早くから日が暮れるまでずっと遊んでいるのなら、不思議を通り越して不気味だ。

 過去の記憶や現在の景色や被害妄想がごちゃ混ぜになって、勝手に怖がってしまっているのが申し訳なくなった。申し訳ないが、正直彼の姿はしばらく見たくない。

 俺は窓と鍵が閉まっていることをしつこく確認して、ぎりぎりまで目を離さないために後ろ歩きで玄関へ向かった。


 *


 思い出した一場面を種に、他の記憶が引きずり出される。

「翔真」

 父さんの声が思い出せた。

「りく」

 父さんは、俺以外を呼ぶこともあった。

 母さんもそうだ。

「りくくん」

 俺を呼ぶときみたいに、大好きな人を呼ぶ声で。


 母さんと俺は二人家族で、三人以上だったことはなく、二人でいることが最高に幸せだ。

 母さんも俺がいるだけで幸せだ。俺はそう確信している。だけど最高ではないのだろう。二人も足りないのだから。

 俺は俺の知らないことを知ろうとする必要はないのだろう。母さんがそれらを知らせないと決めたのは、俺のためであり、母さんのためなのだろうから。

 母さんの嘘を信じているふりを続けると、俺も母さんに嘘をついているということになるのだろうか。それは母さんと俺のためになってくれるだろうか。

 父さんとか、りくとか、昔のベランダの記憶全てが幻覚である可能性は十分にあって、そうであれば俺を悩ませている物事は漏れなくさっぱり消え失せてくれる。それは何よりも幸せな可能性だが、真実が俺に都合の良いものであるなんて期待はちっとも持てない。気のせいだ幻覚だと何度言い聞かせても、ちっとも信じられないくらい、あの記憶には真実味がある。


 引っ越さないかと母さんに言ってみた。

 中学の近くとか志望校の近くとか、勉強のモチベーションが上がりそうなところに。第一、この部屋だって安いから住んでいるというわけでもないだろう。ここと同じような広さと便利さで、ここより安い部屋があるのではないか。

 母さんはいいねと同調してくれて、楽しそうに間取りや立地の話を始めた。しかしその反応はもしも話にはしゃいでいる以上のものではなくて、真面目に引っ越しを考えている様子は見られなかった。

 俺は全然本気じゃないやろと不平を漏らした。母さんは、そんなにお金の余裕ない、住み慣れたところが一番やと思わんの、と不平な口調で返した。

「昔の思い出が残ってるからなんて言わんよな」

 俺はベッドの中でこっそり愚痴を零した。自分勝手な不満だと分かっていた。もし母さんの本心が俺の疑った通りだったとして、家族の思い出が残っている家から離れたくないことの何が悪い。母さんが俺のために隠し続けている思い出を、引っ越してまで奪う必要がどこにある。

 もう煙草はやめたし、今のところベランダにも出ていない。もちろん視線もない。このまま幻覚がなくなるのならこの家を怖がる理由はない。

 俺は、自分は母さんと他の二人を切り離したいだけなのではないかと疑っている。俺は幸せそうな四人家族を思い出してしまった。母さんが俺以外の息子を呼ぶ声を思い出してしまった。俺が母さんの唯一の息子でないと知ってしまった。だから、多分。

 俺は下の子の邪魔をするお兄ちゃんだ。

 重い窓を開けても母さんが抱きしめに来てくれなくて、母さんを返してほしくて、泣いたんだ。


 どこでもいいからどこかへ。過去の積もったベランダを捨てて、新しい場所で二人家族をやり直したいのに。


 *


 膨れたエコバッグとスーパーの袋を一つずつ、腿にぶつけてごそごそと鳴らしながら玄関に入る。一旦それらを床に任せて、背後で閉まったばかりの玄関ドアを押し開ける。軽く首を伸ばすと見下ろせる住人専用の駐輪場では、母さんが下の部屋のおばさんとのお喋りを続けていた。俺はドアストッパーを差し込んで玄関ドアを開けたままにさせてから顔を引っ込めた。

 母さんに借りた鍵を靴箱の上に置く。母さんがわざわざ鍵を渡して俺を先に戻らせたということは、あの井戸端会議には俺が退屈する程度の時間がかかる見積もりなのだろう。かなり打ち解けている様子だった。

 まだ日暮れ前だが、カーテンは開けずに電気を点けた。どうせ母さんが戻ったらすぐにケーキの調理を始めるから、外からの光では足りない。

 リビングテーブルに上げた袋の中身を冷蔵庫や戸棚に移していく。置き場所が母さんの気分で変わるような物はテーブルに残しておいた。

 もう下の子が庭に出ている時間だ。

 そういえば、母親は外にいたし子供は連れていなかった。それでも庭にいるとすると、父親が見てやっているのだろうか。クリスマスとはいえ、平日なのだが。

 上着と鞄を定位置に戻し、子供部屋の窓越しに下を覗いた。庭の半分も見られない。

 いないのか?

 リビングに戻って、ベランダを隠しているカーテンを見つめ、慎重に近付く。今は煙草を持っていないし、すぐに母さんも戻ってくる。煙草をやめてから数日、何も起こっていないし、大丈夫だ。

 カーテンを少しまくった。何もない。カーテンを半分開けて、数秒だけ躊躇して鍵のレバーを下ろした。

 窓を開けると冷たい空気が入ってくる。室外機の足元に目をやって、もうサンダルは捨てたのだったと思い出した。窓枠を掴みながら身を乗り出して庭を覗き込む。

 極めて常識的な思考から彼の所在を確かめなければと思った。あの子供は毎日のように夕方の一時間弱、もしかするともっと早い時間から俺が部屋に戻った後の時間まで庭にいる。更にもしかすると、母親のいないときにまで外に出されたままであるのかもしれない。

 あの子の居場所として与えられているのが暗く荒れた庭だけだなどという可能性を、庭を一目見ておくだけで否定できるのなら安い。

 俺はつま先立ちでベランダに踏み込み、胸の下の高さの手すりに手を置いた。薄い影に沈んだ地面、静かで暗い。誰も住んでいない頃と変わらない庭。誰もいないならそれでいい。

 名前を呼ぼうとして息を吸ったが。

「りく?」

 俺は関係のない男の子の名を呟いてしまっただけだった。すぐに違うと思って口を閉じた。そもそも、下の子の名前なんて聞いたことがなかったのだ。

 真下にいるってことはないよな、そう思い立って背伸びをし、手すりから身を乗り出した。何かが動いた音がした。しかし子供はいなかった。

 服越しの冷たさで手すりの形を明確に感じられる。服を汚してしまったかと今更焦って、これ以上体重をかけてしまわないように体を浮かして下がろうとした。

 足音がした。背後に誰かの気配が。フローリングを叩く細かく早い足音がばたばたばたと近付いて、俺の声は、ぐ、と裏返った。

 何かが背中にぶつかってきたかと思うと肩は強く引っ張られて、手すりに乗っていた胴が手前に滑って落ちる。反射的に足を踏ん張る、踵もまともにつけなかった。どうにかアルミの格子を捕まえて体重を支えはしたものの、俺はコンクリートに腰をぶつけ、室外機に肩を打ちつけてしまった。

 俺の腕を強く掴んでいる母さんが、俺に覆いかぶさるような体勢で止まっていた。俺の肩を掴んだままだったために引き倒されて、この状態になったのだと思う。暗さのせいか、母さんの顔は心配になるくらい青かった。

「大丈夫、母さん?」

 母さんは大きなため息を俺に聞かせた。そして小さな声で喚く。

「何か思いつめてるのかと思ったのよ! 翔真くん、お願いよ、もう!」

「二階から飛び降り?」

 腕を強く引かれて起き上がる。立ち上がると大げさに抱きしめられた。

「関係ないわ。何よ、急に。この手すりだって信用ならんわ。折れたらどうする!」

「前のならありえるけどこれは無理やろ」

「前の……?」

 母さんは小さく唸って俺を睨み、俺の背中に両手を並べてリビングに押し込んだ。母さんの顔はまだ青く見えた。

 手すりが当たっていたあたりがまだ冷たくて手を当てる。ざらりとした感触に気付いて、俺は早足で台所に向かった。シャツをぴんと伸ばして流しの上に突き出し、手すりに接していた部分をはたく。砂粒がぽつぽつと落ちてきて、数度で砂の感触はなくなった。見たところ汚れも付いていない。

 窓を閉める音がしないと思って振り向く。

 誰もいなかった。俺の体は途端に緊張した。

 母さん。呼びかけの声が出る前に、母さんは窓の向こうに戻ってきた。カーテンで隠れている室外機の方に行っていただけだったのだ。

 安心するのも束の間、母さんが黒のボックスと缶の灰皿を手にしているのに気付いた。すぐに、前に空にした箱を置きっぱなしにしていたと思い出す。

 ちゃんと説明しなければ。言葉を整理している間に母さんはリビングに上がり、冷たい声を発した。

「捨てろって言ったよな。捨てるって言っただろや」

 強い口調で言う母さんの顔色は悪いままだった。一言で全部を説明できる言葉があればたちまち安心させられるはずなのに。

「それは捨て忘れて……」

「しかもまだこの煙草か? 嫌いだっつったじゃんかよ。喧嘩売ってんのかや!」

 またそこにこだわるのか? 俺は頭が熱くなって母さんを睨み返した。

「なんでこれは嫌いなんだよ。何か理由があんのか」

 言ってからこれでは母さんをより傷つけてしまうと思った。俺自身のことも。

「よくそんな口が利けるもんだな」

 母さんは乱暴に窓を閉めながら言った。煙草の箱と灰皿を壁際に音を立てて置く。それさえ挑発に感じた俺の頭はもっと熱くなって、母さんが鍵をかけている間も目を離さず、堂々と口答えをした。

「どんな口でも利いてやるよ。これ吸ってたの誰なんだよ」

「それが関係あんのかや」

 顔を上げた母さんが俺の真正面に立つ。まっすぐ向き合う視線の高さは同じだ。

「俺は父さんの顔覚えてないはずって、本気で言ったんか。それとも、そう思い込んでほしかったから言ったんか」

「何の話よ、話変えるつもり?」

 変わらない冷たい声の裏に、戸惑いと焦りが感じ取れた。

 言葉を返さず無言の時間を作っても、俺の質問に答えようとする様子はなかった。それがまた悔しかった。

「俺、一人っ子だったんじゃねえのかよ」

 母さんの目が大きく見開かれる。息を呑む音が聞こえた。

 大好きな人を責めて追い詰めている事実が辛くて悔しい。俺達の平穏を壊しているのは俺だ。隠されたままにしておけなかった俺のせいだ。入る必要のないベランダに入ったあの日の俺のせいだ。母さんを問い詰めている今の俺のせいだ。

 だけどもしかしたら、まだ間に合うかもしれない。俺は母さんの笑顔を脳裏に描いた。

「いろいろ隠してたとしてもいいよ、俺は」

 目の前の唇が震えている。

「翔真」

 震えた声が呼ぶ。

 母さんが泣いてしまうのではないかと思って、俺の中の突発的な怒りは矛先を反転させて俺に向けた。俺は責め立てたいなんて思っていないのに、子供みたいに怒ってしまった。言わなくていいことを言ってしまった。

「いいよ、母さん。絶対に根に持ったり、嫌ったりしないし。俺にとっては大したことじゃないから。別に、二人に会いたいとか、言わないしさ……会いたいと思ってるってわけでも、ないよ……」

 それでも隠しておきたいと言うのなら、俺はそれを理解するから。もう問い詰めないし、怒らないから。

 怒ってごめん。そこまでを伝えて母さんの返事を待った。

 どれも本心だ。こんな後悔は二度と味わいたくない。早く元の生活に戻りたい。

 母さんは音を立てないように鼻を啜って、涙声で、ゆっくり喋った。

「さっきね……下の奥さんに、お菓子貰ったのよ。保育園とかおともだち同士とかのパーティーで余って、お裾分けですってね……息子さんにあげてって」

「それは……どんなのがある?」

「食べちゃおっか」

 母さんは無理に微笑んで誘った。俺も笑顔で、「食べよう」と頷いた。

 あれね、とテーブルの上の紙袋を目線で指して、母さんはテーブルに向かう。俺は癖になっている施錠のチェックをして、半分開いたままだったカーテンを引いた。

 カーテンを引ききる寸前、アルミ格子の向こうの庭が目に入った。

 奥の石塀の辺りから、下の子がこっちをじっと見上げていた。

 俺がその姿を認識したと同時に、ベランダはカーテンに隠された。


 リビングテーブルを挟んで座り、ひっくり返した紙袋から雪崩れ出てきたお菓子を広げる。中身はメーカーもジャンルもばらばらな個包装のお菓子で、様々なお菓子のファミリーパックを開けた残りなのだろうと読み取れた。二人がおやつとして食べきるのに最適な量で、きちんと考えて用意してくれたのだと分かった。

 母さんはクリームを挟んだクッキーの袋を二つ取って、一つを俺に渡した。せんべいやチョコレートの混在するこのラインナップからなら、始めの一個としては納得の選択だ。

 一口で食べて、やわらかい甘さを味わう。外で友達と分け合うお菓子は塩気の強いスナック菓子やチョコレート菓子が多いから、厚みのある甘いクッキーは特別な美味しさだ。

 母さんはこちらからもお返ししたいわねと言って、お子さんはチョコレートが好きみたいよと続けた。

「え?」

 俺は驚いて聞き返した。母さんが下の子のことを知っていることが意外だった。考えてみれば、母さんは下で何度も顔を合わせているのだろうからそれはごくごく普通のことだ。

「下の子はチョコレートが好きみたい」

 母さんは律儀に言い直した。俺は「ふうん」と頷いて、目についたチョコレートを手に取った。

 結局、下の子とは一度も目が合わないままだ。さっきこっちを見上げていたときも、俺ではなく、少しだけ外れたところを見ていた。おそらくベランダに母さんが出ていたのが珍しくて興味を持ったのだろうと思う。だから俺とは目が合わなかった。

 突然現れたように見えたために驚いてしまったが、彼の母親が帰ってきたから庭に出してもらえたのだと推測できた。

「下の子がさ」

「うん?」

「いつも、庭で遊んでるんだよ。一人で、雑草見たり、土触ったり? 全然変わり映えしないのに、全然飽きる気配ないし。なんかそういうの好きみたいで」

「へえ、集中力がすごいんだ」

 母さんは彼の姿を思い浮かべているように微笑んだ。

「毎日だよ。俺がベランダに出たときは、いつもいる」

「あっそう、お前、毎日出てたん」

 からかうように笑われて、俺は説明しなければならないことがあると思い出した。

「前はね、前は。煙草はマジでやめたから。でも、やめたの、先週だけど――」

 俺は母さんに、あの日のあとも煙草をやめなかったことを話した。まだ残っている煙草をサンダルと共に捨てたこともちゃんと、一気に話しきった。やめたふりをしていた期間があったことについて、ごめんなさいと謝った。

 静かに頷きながら、母さんは感情的にならずに聞いていた。

「お前のすることはな、お前のお父さんと似てるわ。銘柄だけじゃなくてね」

 母さんは落ち着いた様子で小さいチョコレートを口に入れた。俺は緊張するのを感じつつ、ピンときていないようなふりをした。

「顔?」

「することって言ったでしょ。顔もそりゃ似てるけど、でも違ってね、あの人もいつも、ベランダで煙草吸ってたのよ。それは思い出したくないことだったから、お前に怒りすぎたのよ、ごめんね」

 回想しているのだろう、母さんはテーブルの上の自分の手元に目を落とし、つまんだお菓子の袋をころころといじっていた。半分下りている上瞼の裏にどんな光景が描かれているのか、教わらずとも少しだけは理解ができた。

「思い出したくなかったらいいから。ごめん」

 俺が言うと、母さんはちらりと俺を見る。

「思い出したくなかったのよ。けどね、隠し通す気じゃなかったの。だから、翔真の言葉がきっかけではあるけど、翔真のせいではないのよ」

 母さんは手に持っていたお菓子を置いて手遊びをやめ、俺と真摯に目を合わせた。

「りくくんっていうお兄ちゃんがいたの。りくはね、翔真が赤ちゃんのとき、事故で天国に行っちゃったの」

 天国に。俺は神妙に受け止めて、母さんの言葉を頭の中で繰り返した。

「……俺が、弟?」

 りくが俺の兄だと言っているように聞こえた。言い間違いだと思った俺は聞き返す。母さんは、そうよと認めて、りくは俺より三年早く生まれた兄だと言った。りくという兄がいたのだと、また言った。


 りくはベランダで遊ぶのが好きだったという。

 りくは父が煙草を吸うときはベランダに出られると覚えていて、父に必ずついていったのだという。

 りくは父が煙草を吸いに行くよう、ぐずったり、じっと見つめたりして要求することも多くあったという。

 りくはおもちゃをひたすら触ったり、父の姿を見つめたり、コンクリートをつついたりするだけのことにいくらでも時間を費やせたのだという。

 りくは弟が生まれてから、母を独占できなくなったことによる嫉妬や我慢を続けていたという。

 りくは冬のある日、ベランダで足を滑らせ、朽ちた鉄格子に背中からぶつかり、鉄の棒は元から外れていたのではないかと思ってしまいそうなほど軽い音で折れ、落ちていったという。

 りくは庭に落ちて、天国へ行ってしまったのだという。


 父さんは四十九日が終わっても、毎日ベランダで煙草を吸っていたという。

 父さんは、りくは今もベランダで遊びたいとせがんでいるだろうと、りくがそこにいるような気分になるのだと言っていたという。

 父さんと母さんは、何ヶ月も時間が止まったままになってしまっているのを感じていたという。

「翔真くんが一歳になるとき、お父さんから引っ越さないかって提案されたの。翔真のために時間を進めなきゃいけないって言ってね。お父さん自身、一生ベランダに縛り付けられたままになってしまうような感じがして辛かったんだって」

「母さんが断ったん?」

「そう。分かってたんだけどね、引っ越した方が翔真くんのためだって、分かってたけど。ごめんね、お母さんがわがまま言わなかったら、お父さんと別れることにもならなかったと思うわ。ごめんね」

「いいよ、大丈夫だよ」

 すすり泣きはじめた母さんを、俺は落ち着いて見守った。母さんが謝る度、俺は大丈夫だよと答えた。何度でも。

 大人がこんなに泣いているのを見るのは初めてで、かわいそうだった。俺より先に母さんの家族だった父さんやりくに感じた嫉妬が、本当に子供じみた感情に思えて、どうしようもなく情けない気持ちになった。

「りくが天国に行ったのは、下の子と同じくらいの時の話?」

 母さんが泣き止んだ頃に尋ねると、母さんは首を横に振った。

「もっと小さい、三歳の時よ」

 俺は下の子の姿を思い浮かべた。あの姿も、多分、三歳くらいだ。

「下の子って何歳くらいだっけ」

「もう六歳よ。来年から小学校。保育園から帰ってきたとこによく会うの」

 そんな子供は見たことがないなと思った。保育園帰りのその子と母さんがよく会うのなら、俺が煙草を吸っていた時間帯にはまだ帰ってきていないということになる。

「りくの写真は、ほとんどお父さんが持ってるのよ」

 母さんは部屋の隅に置かれたバッグから化粧ポーチを出してきて、一枚の写真を見せてくれた。

「この子が、りく?」

「そ、これだけ。お母さんは他の写真を全部あげてまで、この場所ににしがみついちゃったの」

 初めて目にした時以来、ずっと下の子だと思っていたあの子が写っていた。

 何故か懐かしさを感じて、目頭が熱くなった。

 俺はもうベランダ遊びに付き合ってやることはできない。俺まで過去の時間に縛られて、いつか戻ってこられなくなってしまう気がするから。

 ただ、これからは彼が俺の家族だったことを忘れないでいようと決めた。母さんの息子は俺ひとりだけだとか、二人家族の他にはいらないだとか、りくを家族から追い出すような考えはしない。

 だから、母さんの時間を進ませてあげてほしい。

 俺達を前に進ませてほしい。

 母さんは大事そうに写真を撫でて、ポーチに仕舞って目を閉じた。

「今のままじゃ、翔真くんのためにも、お母さんのためにも、りくくんのためにもならないね」


 二人で住むのにぴったりな部屋を探そうか。

 母さんは楽しそうに微笑んだ。俺にとってその言葉は、今朝貰ったアウターよりも特大のクリスマスプレゼントになった。

 言葉も出ない俺の驚きの表情に母さんはご満悦で、足取り軽く立ち上がって化粧ポーチを戻しに行った。

 俺は意味もなく立ち上がり、母さんの背中を目で追いながら、不動産屋に行く場面から想像をめぐらせた。

 母さんの手からポーチが落ちた。

 見開かれた目の向いている方から、冷たい空気が寄ってきた。

 風の音がした。


 ベランダに立つその子の体の幅だけ開けられた窓。下の子が、りくが、母さんをまっすぐに見ている。

 俺は心臓が凍ったようになって、全身の動力を失い固まっていた。熱さも冷たさも感じず、今いる空間が画面に映る風景と同じ、見えているだけのものになってしまっていた。

「翔真……りくが、ベランダに」

 母さんはふらりと腕を上げ、りくを指さした。

 俺は踵を押し滑らせるようにして重たい足を動かし、りくから目をそらさず母さんのそばまで近付いた。母さんは顔を動かせないまま俺に縋るようにしがみつき、ずるずるとへたりこむ。俺はその背中と腕を支えて一緒に膝をついた。

 窓を閉めた方がいい。そう思ったが、俺の体は母さんに強く引き寄せられていて動かせなかった。そうでなかったとしても動けるとは思えなかった。

 母さんが小声で何かを喋っていたため耳を寄せたが、開閉しているその口からは言葉にならない声が発されているだけだった。

 りくの表情が悲しげに歪んだ。そして、悲痛な声を上げて泣きだした。

「りく……どうしたの、りくくん!」

 母さんは泣きそうな声で呼ぶ。りくは大声で泣きながら、母さんの声に引き寄せられるようにスリッパを脱ぎ、窓枠に手をかけた。俺は咄嗟に叫んだ。

「来るな!」

 レールを跨ごうとした小さな足は驚いたように固まった。片足立ちになった体はバランスを取れず、りくはきょとんとした表情をしながら、窓枠にかかっていた指を滑らせた。直後にはコンクリートに尻もちをつく。

 その振動に揺れた頭が、何かが破裂するような音を発して異様な勢いで真下を向いた。何が起こったかは理解できなかった。

 ただ下を向いていると言うだけでは明らかに足りなかった。首の骨がなくなってしまったみたいに、頭部が胸の上へ落ちていた。胸の辺りから服に垂れてくる液体は赤黒い血の色をしていた。

 まるで後ろからレンガが投げつけられたかのような瞬発的な衝撃だった。何かの砕ける音もあった。

 母さんの悲鳴が上がっていた。俺も悲鳴を上げていた。

 落ちたと思った頭は元の位置に戻っていた。まっすぐに立って母さんを見ているりくがいた。

 りくは、さっきと同じように泣きだした。母さんの手が握る力を増して、掴んでいる俺の腕に指が食い込む。痛みを堪えて俺はりくに言う。

「りく、りく? 窓を、閉めてくれ」

 泣き声が小さくなる。呻くように泣きながら、りくは俺を見る。

「父さん、お父さんが、すぐ行くはずだから。ベランダで……」

 俺は後先も考えず、とにかく彼をベランダに留めようとして説得をした。りくは不満そうにぐずって、後ずさりしながらいやいやと首を振った。

 その頭がまた、何かの砕ける音と共に、ぶっつ、と鳴って胸へ落ち、鼻血のようなものが前へ噴き出された。

 また、りくの首は元に戻って、母さんを見て立っている。

 母さんがやっと泣き声を堪えて言葉を発した。

「りくくん。ごめんね。我慢ばっかりさせて、いっぱい甘やかしてあげられなくてごめんね。りくのこと隠したりして、いなかったみたいにしたりして、ごめんね」

 何度も謝る母さんと一緒に、俺も心の中で謝っていた。気付かなくてごめん。なかったことにしようとしてごめん。

 りくは泣きながら俺に人差し指の先を向けた。自分をいじめた犯人を周囲に知らしめるみたいに、俺を指さして嫌そうな声であーあーと泣いた。

「ごめん……」

 俺は謝ることしかできなかった。

 母さんは俺を強く抱きしめた。

「翔真は何も悪くないの。隠したのはお母さんなの」

 嗚咽を漏らしながら俺を庇うその行動が、かえってりくを憤らせた。りくは殊更大きく泣いた。地団駄を踏んでスリッパを鳴らしたあと、両手を前に出して中に入ってこようとした。

 ぶっつ、と頭が打たれ、鼻血が飛び散る。りくはそのまま前に倒れた。すぐに頭が上がり、血は消えていて、りくは鼻をすすりながら、フローリングに手をついて立ち上がった。

 母さんは謝罪の言葉を叫び、そうしながら俺を隠すように胸に抱き寄せた。母さんの腕越しに見える小さな姿、小さな手で涙を拭うりく。

 りくは床に置かれていた煙草の空き箱を持って、俺に見せつけて近付いてくる。俺は母さんの背に腕を回して、可能な限り後ずさろうとする。

 りくがご機嫌な声で言った。

「おとうさん」

 煙草を差し出して、俺の手に近付けて揺らす。また一度、首が落ちる。

 俺は震えて、慎重に首を横に振る。

 りくは涙目になってぐずって、催促する。

 だめ、と母さんが囁く。俺はつばを飲み込んで、はっきり答えた。

「お父さんにはなれない。ごめん」

 りくは必死に涙を我慢していた。悲しそうに低く唸って、ついに大声で泣きはじめてしまった。

 じゃあいらない。おとうさんじゃない。おとうさんじゃないの、いらない。

 俺はごめんとまた謝って、ベランダへ戻っていく後ろ姿を見つめていた。母さんは俺を守っていた腕を下ろして、呆然とした顔でりくを見ていた。

 ベランダに出て、りくは元気な顔で振り返った。手にはシャワーのおもちゃを持っていた。

「おかあさーん」

 機嫌の良い声で、可愛らしい笑顔を見せて手を振った。それはシャワーを持っている方の手で、中に残っていた水が鉄の柵やコンクリートに撒き散らされてしまう。

「りくくん!」

 突然母さんが叫び、膝立ちの上に両手もついて畳の上を這い進みはじめた。りくは水を浴びてしまって、慌ててシャワーを放り投げて数歩下がろうとした。

 俺は母さんを大声で呼んで追いかけた。母さんが連れて行かれてしまうと思って母さんを呼び続けた。

 母さんは飛びかからんばかりにベランダへ手を伸ばし叫んだ。

「だめ、りく!」

 ようやく俺の手が母さんの服を掴んだ。

 りくは足を滑らせていた。

 よろけた背中は頼りない柵を折り取って、コンクリートの向こうへ、下へ、消えていった。


 ぐったりとして動かない母さんを引きずり戻し、畳の上まで戻ってきた。仰向けにして肩を抱え直し、玄関を目指してずるずると進む。ただでさえ疲れ果てた俺の体は脱力した大人の想像以上の重さにすぐに音を上げた。俺は三メートルも進めたかどうかというところで腕を休ませる。

 うなだれて息を整え、また抱えようとしたとき、不愉快な音が隣から鳴った。

 こきゅ、と固いものの砕ける音。ぶっつ、と何かの破裂する音。

 母さんの肩を強く抱いて顔を上げる。機嫌の良さそうなりくと目が合う。

 りくは俺を指さして言った。

「りく」

 理解が及ばず固まる俺におねだりするように、りくはぐずって自分の体を揺すった。

「俺は違う、ごめん」

「りく!」

 ぶっつ。目の前の頭ががくんと落ちた。俺は息の止まるほどの恐怖に襲われて彼の両肩を突き飛ばした。りくの体はどたどたと後ろ歩きして、台所にぶつかって後頭部を打ち、仰向けにずるずると崩れる。頭が骨を無視してごろりと転がる。

「母さん、母さん!」

「おかあさーん」

 りくが起き上がって楽しそうに笑う。

 ぶっつと鼻血を吹き出して、顔を胸に落としたままべたべた走ってくる。

 血しぶきの付いた小さな手が眼前に迫り、俺は両手をばたつかせて振り払った。

 腰を抜かして這いずり逃げる。りくは何度でも立ち上がって追ってくる。俺は前も後ろも分からない状態で逃げ続け、ベランダにまで追い詰められた。

 りくの笑い声は泣き声になっていた。いやだいやだと喚いていた。

「りくくん、おにいちゃんにならない!」

「いやだ! 母さん!」

 畳の上で目を覚ました母さんが、取り乱して俺の名前を叫ぶ。

 りくは中から窓を閉めようと手をかけた。

 俺は大声で母さんを呼びながら窓の隙間に手を伸ばした。

 母さんが腕の力だけで畳を這って、俺を呼ぶ。

 俺は指を潰される覚悟で窓が閉まるのを止めようとした。

 りくが俺を睨んで声を張り上げる。

「下の子なんていらない!」

 ばちん。窓が閉まり、俺以外の全ての叫びに膜が張られた。

 窓の向こうのリビングで、倒れ込んでいる母さんが、両手で顔を覆って、肩を震わせてすすり泣いていた。

 フローリングには血の跡も何もなく、りくの姿も消えていた。


 *


 次の部屋が決まるまで待つこともできず、母さんが知り合いに相談して、ウィークリーマンションという種類の部屋に入ることになった。中は普通のマンションだけど消耗品や家具が用意されていて、気分は新居というよりホテルに近かった。

 今日は母さんが仕事に行ったあとで先輩と合流して、日用品や服をまとめるためにアパートに戻ってきている。

 重たい教科書やノートは自転車で往復して運びきるつもりでいたのに、先輩が待ち合わせ場所に車でやってきたせいで無駄な覚悟になってしまった。

 先輩はいつもの調子で、手伝いとはいえ遊び半分だ。真昼だというのにきっちりと閉めきられているカーテンのことが気になっているようだが、聞かないでいてくれている。

 今日だけで何回礼を言ったか分からない。

 作業に励み、どんどん鞄を膨らませていく。先輩は玄関と車を行き来して教科書を積み込んでいく。

 家電が鳴って受話器を取ると、昼休憩に入ったらしい母さんがこっちの調子を尋ねてきた。

「順調。先輩が車出してくれたから、往復する必要もなくなった」

「そう、ありがとうって言っておいてよ。ごめんね、任せきりになっちゃって」

「うん。あ、運び終わったら多分カラオケ行くから」

 母さんは嬉しそうにくすくす笑った。

「いってらっしゃい。気を付けてね、りくくん」

「うん。それじゃ」

 受話器を置いてため息をついた。

 母さんはあれから、たまに俺の名前を間違える。

「りく?」

「え?」

 りくを呼ぶ先輩の声に、反射的に振り返った。いつの間にか先輩が戻ってきていて、押入れの前で両手に持っている何かを眺めている。

「りく、だって。誰?」

 おもちゃのシャワーの持ち手を俺に向け、先輩は好奇心を露わにシャワーに書かれた名前の意味を尋ねた。

「知らん。……中古で、買ったやつだと思うわ」

 俺はおもちゃも車に乗せるよう頼んで、食器を詰める手を早めた。

 もうその名前は聞きたくないし、見たくもない。

 名前を間違えられたくもない。俺の名前じゃない名前で呼ばれたくない。

 りくは、俺の名前じゃない。俺の名前は……。


「翔真、教科書全部積んだぞ。なあ翔真」

「翔真?」

「お前だろや。どうした?」


 そう、そうだ。翔真だ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] やっぱり、文章うまいなー!と思いました! りくくん怖かった!でもかわいそうやった!!! なんでりくくん成仏できなかったんや……そして息子2人を完全魅了するママンすごい ほとんど、家とベラン…
[良い点] 日常に穴がある。思い出した時にこわごわと覗くような。 意識してしまったがために、後悔を置いてきぼりにする変貌が迫り気付けば追憶の中にいた。沢山の『もしも』が泡のように浮上する、狭いベラン…
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