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正気に書かれし狂気

 1923年に行方不明となったアメリカ人男性のものと思われる手記が、太平洋沖の海底調査で発見された。どのような保存状態に合ったのかは不明だが、幸いにも最後のページを除き鮮明に字を読み取る事ができた。

 長いこと狂人の戯言として片付けられていたこの手記は、2006年に我が機関の職員によって研究対象とされたが、現在は解読作業を中止としている。

 私は常にペンと手帳を持ち歩いてる。


 これは職業柄、頻繁にメモを取ったり予定を確認したりするというわけでは無く、──事実、私は船荷監督であり積荷の数のチェックをあらかじめ用意されていた書類に書き込む事はあっても、自分のメモ帳にそれらの内容や持ち主などを書く必要は無い──ただ単に私にその時々の感情や光景など何でも書き留めるという癖があるからである。


 自慢ではないが、私のこの記録癖は友人達から、病的であると言われるほど徹底しており、自分の最期の瞬間(とき)の光景や感情ですら書き留めておくくらいの気概を持ち合わせているのである。



 さて、これが妄想や遺書ではなく──遺書になる確率が高く思えるが──あくまで私の心情や見た光景をそのまま書き留めたものであるという説明はこの辺で終わりにしておこう。私にそれほど多くの時間が残されているとは思えないからだ。


 私は今、見知らぬ土地の薄暗くかび臭い牢にて、“奴ら”が私への処遇をどう決めるかをただひたすら待っている。


 これを読んでいる君が、私がどのような状況に置かれているか全く理解できないというのは当然私の知るところであるのだが、この遺書のようなものを書くのは既に2度目であり、また、私には“奴ら”がいつこの牢から私を処刑のために引きずり出すか見当がつかないという点を考慮して頂き、細かな説明は避けできる限り短く書かせてもらおう。



 私はつい数刻前まで()()の遺書に、私がモルヒネの虜ではあるものの腰抜けの変質者ではないという事を証明するために、なぜ屋根裏部屋の窓から、眼下の汚らわしい通りに身を投げ出す必要があったかを書き記していた。


  ──簡単に説明するならば、私はとある事情でこの世で最も恐ろしく、決してこの世界に存在していてはいけない、非現実的で名状するのも(はばか)られるおぞましいものを目撃してしまい、それを忘れるために「死」という手段を選び、そのための遺書を書いていたのだ。──


 だが“あの手”は私が投身自殺を決行するより先に私の所在を突き止め、骨の髄まで凍るような(まが)まがしさがこもる()えた泥の中に引きずり込まんと、屋根裏部屋の窓を叩いたのだ!


 とっさに私は神への祈りを口にし、少しでもそのおぞましい手を見ないようにと両の瞼を閉ざした。



 ふと、その絶望的とも言える恐怖を私の毛穴から突き刺すように送り込んでいた空気が、聖地や礼拝所で感じる清らかで澄んだ神聖なものへと変化した気がした。


 恐る恐る目を開くとそこに私の見慣れた屋根裏の書斎はなかった。


 目の前に現れたのは、──先に言っておくが、これは私の正気が恐怖により失われてしまったために見た幻覚などではないと信じてほしい。少なくともこの時の私は可能な限り冷静であることに努めていた──青々とした木々が生い茂りながらも地面へ陽の光を十分に行き渡らせ、澄んだ空気の中にこの世のものとは思えぬほど甘美で幻想的な鳥のさえずりが聴こえてくる、まるでおとぎ話の妖精達が暮らすような美しい森であった。


 私はついに私が信奉する神が私の魂をあの忌まわしき毒手から救い出し、この楽園へと導いたのだと歓喜した。


 あの恐怖がまだ記憶のうちに潜んでいる不快感はあったものの、この幻想的な世界でならどんなに恐ろしく私を憂鬱(ゆううつ)にさせるような記憶でも露と消えるだろうと思えた。


 先ほどの恐怖により、正気ではあったもののいくらか思考力が鈍っていたのか、自分のおかれた状況を深く考え込むわけでもなく、私は他にもこの楽園へと導かれた(にんげん)がいないものかとあたりの散策を始めた。──自分でもこの異常な現象を前に随分楽観的であったとは思う──


 草の丈はみな低く、生い茂る木々も立派で堂々とした大木ばかりであり枝葉は常に頭上にあったので、私の進路を妨げるようなものは無かった。



 数分も歩かないうちに、私はその森の中に違和感を覚え始め、徐々に思考力が回復していくにつれて足取りも慎重なものへと──この美しくも、どこか造られたような不自然さが滲み出る怪しい森に潜む何者かに気付かれぬよう──変化していった。


 というのも、いつからなのかは分からないが、私の歩くのに合わせて何者達かが──ずるずると引きずるような、時にはぴょんぴょんと可愛らしく飛び跳ねるような音をたてながら──付いてきているようなのである。


 何より、そいつらは自分の足音を──歩いたことにより生じた音であるかは謎だが──隠そうともせず、私に気取られまいとする配慮が一切感じられないという事実が、私の中で(くすぶ)っていた恐怖をよりいっそう掻き立てた。


 “奴ら”の姿をこの目で捉えようと辺りを見渡したが、不気味なほど明るい森であるのにも関わらず、妖しく立ち並ぶ大木達以外は見受けられなかった。


 私は“奴ら”のたてる音を聞き逃さないよう自分の足音を細心の注意により抑え、なおかつできる限り“奴ら”との距離をはなそうと歩く速度を速めた。


 無論、この細心の注意を払うという行為は、薬に溺れたために健全で頑強な精神を持たぬ私にとっては耐え難いものであり、事実、幾ばくもしない内に私は無様にも大声で泣き叫びながら全速力で駆け出していた。


 この不気味で(けが)らわしい不浄な森の中に行くあてなど当然あるわけもなく、ただ我武者羅(がむしゃら)に走り続けた。



 私の声が枯れるまでの無限とも思える時間が過ぎ去った後、──私の声が枯れるのに無限の時間を要するはずもなく、恐らく実際には半刻ほどであろうが──前方からサラサラと水の流れる音が(かす)かに聞こえて来た。


 恐らくは川のせせらぎであろうそれは、人が一生のうちに経験しえないような恐怖によって打ち砕かれてしまった私の心を、理由(わけ)もなく救ってくれるように思えた。あの川に辿り着く事ができれば私はきっと助かる! 無邪気にも私はそう思ったのだ。



 川までの距離は随分短く、時間が私の思考を正常に戻し川がなんの救いにもならないという現実を認めさせるより先に私はそこへ辿り着いた。


 木々が途切れ森の中よりさらに明るく開けたそこで、私は始めて私以外の生き物を見た。


 幅6~7メートル程の小川の中腹に、人がこちらに背を向け立っていたのである。私は彼に向かって必死に走りながら大声で助けを求めた。


 だがしかし、ああ、神よ。何故私にひとしずくの慈悲すら与えなかったのか!



 私はそいつの顔と異様に折れ曲がった腰を見て悲鳴をあげた。頭の形は幅が狭く、異様に盛り上がった眼に平べったい鼻、唇は横に長くぶ厚かった。そしてその顔の表面には皮膚病によるものだとは説明しがたいほどのヒビのような切れ目が無数に刻み込まれており、妙に調和が取れていなかった。その切れ目は、垂れ下がりダブついた首周りの皮膚で顕著に現れており、まるで魚のエラのように細く長く伸びていた。


 その魚にも似た男が私を見て、その分厚い唇の端を吊り上げながらケロケロ、ペチャペチャという両生類の声帯から発せられるような笑い声をあげると、それに呼応するかのように私の()()背後から“奴ら”のケロケロ、ウォーウォーと吼える声が聞こえて来た。度重なる絶望により満身創痍となった私の精神が、その恐怖を前に平然としていられるはずもなく、失神という発作によりその恐ろしい光景の全てがぼやけていった。




 ()くして気がついた時に私は、石に掘られた穴に鉄格子をはめただけのこの粗末でかび臭い牢に閉じ込められていたのである。言うまでもないことだが、さんざん私を追い回したあの恐ろしい容貌の“奴ら”が、気を失った私をここまで運んだのだろう。


 幸いにも“奴ら”の知能の低さかはたまた私程度の反抗など歯牙にもかけないのか、この見知らぬ土地に来た時に持ち合わせていた荷物──ペンと手帳とそれに挟まっていた数枚の紙幣以外は特に何も身に付けていなかったが──を私から取り上げてはいなかった。


 ああ、やはりこれは遺書にしよう。遠くから微かに聞こえてくる“奴ら”のこの世のものとは思えぬ不気味で不快な話し声が下す、私への処遇をこれ以上待つのは耐えられない。



 やはり荷物を取り上げられなかったのは幸運だった。この長年愛用してきた万年筆は私を女手一つで育ててくれた母を除けば、今まで会ってきた誰よりも私との付き合いは長いものになるだろう。先が鋭利に尖ったこのペンがあれば多少の苦痛はあれど、“奴ら”が私への処刑を施す前に、この恐怖から私の魂を解放してくれるであろう。今や私を見放した神よりも、このペンの方が私にとってはよっぽど救世主に思える。


 私は別に死を恐れぬ勇敢な男というわけではない。

 しかし、今まで私を苦しめてきた混沌とした不浄で呪われた恐怖や、“奴ら”が私に与えるであろうおぞましく冒涜的(ぼうとくてき)な絶望に比べれば、死が与えるであろう安らかな眠りの方が、穏やかで幸福であろう。



 奴らのひそひそとした囁き声(会議)が止んだ。私への処遇が決まったのであろう。既に、私は震えながらも必死に動かしているペンを、いつでも喉元に突き立ててもいいようにと覚悟は決めてある。




 足音が近付いてくる! 待て。あれはなんだ? ああ、そんな、 あれは、

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 最後の文は黒ずんだ血の跡が大きくこびりついており、解読不能である。また、一切の復旧作業も停止命令が出されている。

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