上司にセクハラしちゃいました
平凡で平穏な昼休みの給湯室でポッドのお湯が沸くのを待っている私は、この世界で最も地味で普通なOLなのではないかと錯覚を起こしている。
しかしここはAV制作会社の給湯室。
そして私、山門千鶴はここの専属脚本家であり、その時点で「普通」は覆されるのだから不思議だ。
大体、ポッドの中身がなくなったら空にした人が水を補充してスイッチでも押しておくべきではなかろうか。
おかげで私の昼休みは数分のロスをくらっている。
と言っても分刻みのスケジュールで動いているわけでもないので、支障が出るわけでもないのだが。
給湯室備え付けのインスタントコーヒーをカップに準備して、お湯が出来上がるのを待つ。
この間にストーリーの構想を練ってしまおう。
そう考えた矢先、まるで邪魔するかのように給湯室の扉がバァンッと勢いよく開いた。
ストレス耐久が高くあまり動揺しない私でも、さすがにびくっとなった。
こんなことをするのは興奮状態の和歌子さんか、もしくはその同期の。
「た、鷹藤さん…?」
私が驚いたのは、そこに鷹藤さんがいたからではない。
鷹藤さんが鬼の形相でこちらを見ていたからである。
いまこのタイミングで言うのもなんだが、鷹藤さんは割とキレイな顔をしている。(割と、というのは世の基準があまり分からない故なので決してけなしている訳ではない。)
元々キレイな顔だからこそ、怒ったときに凄みが増すというか、とにかく怖い。
彼の怒った顔は久しぶりに見た。
約半年ぶりである。
ちなみに半年前に何が起こったのかというと、私がひとりで後学のためにハプニングバーに取材に行こうとしたのだが、未だになぜあんなに怒られたのか分からない。(結局、鷹藤さんに言われて和歌子さんと一緒に行った。)
とどのつまり、現在の問題点は。
彼がものすごく怒っているということと、ここにはストッパーになってくれる人が誰もいないことである。
ほぼ無意識に一歩後ろへ下がると、それに気づいた鷹藤さんが扉を閉めた。
次いでカチャリという音が聞こえる。
え?鷹藤さんいま鍵閉めた?なんで?ねぇなんで?
嫌な予感しかしないが、もう逃げ場がなくなってしまったので後ろに下がりたい気持ちを抑えて踏みとどまった。
「…山門、俺が何言いたいか分かるか?」
「い、いえ、さっぱり」
「そうか、なら教えてやる。…お前、次の作品あの来栖湊に逆指名されたらしいな」
「あぁ、そのことなら私も今朝監督に聞いて、少し脚本の内容を修正しようと」
「どうやって取り入った?」
「…はい?」
確かに、来栖湊から直々に私の書いた脚本を演じたいと連絡がきた。
朝一番に宝条監督に呼び出されて、それを聞いたのだ。
なんでそんなことになっているのか、私が聞きたいくらいだ。
「取り入った、とは?私は特に何もしていないのですが…、そもそもこの間の撮影見学の日に来栖さんに初めてお会いしましたし」
「嘘をつけ。あの西村の作品への出演だって、ようやくこぎ着けたんだぞ。オファーが殺到しているのに、それを押しやってまでお前の作品に出ると奴は言っている」
鷹藤さんの言い回しに、私は何で彼が怒っているのか分かった気がした。
地味で取り柄のない私が、人気男優の指名なんぞを易々と受けてしまったからではないだろうか。
あの営業部一の成績を誇る鷹藤さんでさえ苦労したものを、私が何の気無しに受けてしまったから。
つまり、悔しいんじゃないの?
なるほど。
鷹藤さんに嫉妬されていると思えば、この鬼の形相も悪くない。
そう優越感に浸れたのは一瞬だった。
「お前、あいつに枕営業したんじゃないだろうな?」
まくらえいぎょう。
それは、アレだ。
良くないキャバ嬢が、お客さんとえっちなことをする代わりに「次も私を指名してね♪」というアレのことか。
私が来栖さんに?
枕営業を?
いやそんなことは絶対に…ありえないって?
「…鷹藤さん、つかぬことをお聞きしますが」
「あ゛?」
「壁ドンや顎クイは枕営業に含まれるのでしょうか」
「…は?」
もしあれでさえも枕営業に入っているのだとしたら、相当まずい。
いやでも、普通初対面の人にあんなことしないよね。
「…じゃあお前は、来栖湊に壁ドンや顎クイとやらをしたってことか?」
「は、はい。”男に抱かれて興奮しない”と相談されたので、”じゃあ女の子の気持ちになってみましょう”という流れになりまして」
「ほーう。それはまた親切なことだな」
「それで…これは枕営業になるのでしょうか…」
不安になって鷹藤さんを見上げると、鬼の形相だったキレイな顔が今度は意地悪そうに笑った。
「その程度じゃ枕営業とは言わないな」
「そうですか…よかっ」
「だがそうだな…セクハラにはなるかもしれない」
た、確かに。
あんなことをいきなりやられた日には、セクハラで訴えられてもおかしくはない。
でもあまり嫌がってはなかったような…?
いやいや。
もしかしたら後で急に嫌悪感が出てきたのかも…。
あれ?
でもそれなら何で私の作品に出るなんて言い始めたのだろう。
嫌がらせ?
いや、それは他のスケジュールを押してまですることだろうか。
ぐるぐると考えたものの、答えが出てくる気配はない。
「セクハラは良くないよな、山門?」
「それは、そうですね…。いや、鷹藤さんには言われたくな」
「あ゛?」
「なんでもないです」
「で、だ。来栖湊にやったものと同じのを今俺にもやってみろ。それでセクハラかどうか判断してやる」
「へ…?」
この人に?
壁ドンと顎クイを?
いやいやいや無理でしょう。
「なんだ?処女だからできないとでも言うつもりか?…はっ、本当に来栖湊にそんなことやったのか怪しいもんだな」
かちん。
何でこの人はことあるごとに人のことを「処女」と言ってくるのだろう。
いや、実際そうなんだけどね。
あと一日に一回は「地味」だの「色気がない」だの言ってくるし。
…うん、実際そうなんだけどね!
正論だからこそ頭…というか心にくるというか。
決めた。
この人をぎゃふんと言わせてやる。
やってやりますよ。
ただし。
「できません」
「………」
「来栖さんと同じくらいじゃ、足りない」
「は?…っ」
鷹藤さんが油断した隙をついて、彼をどんっと壁へ押しやると、素早く自分の膝を彼の足の間に割り込ませた。
これが壁ドンの進化形、股ドンである。
しかし鷹藤さんと私では身長差がけっこうあるせいか、あまり私が優勢という感じがしない。
これを解決するために、私は鷹藤さんのネクタイを引っ張ってこちら側に近づけた。
「おわっ…、お、お前なにして…!」
キレイな顔が、私の顔の数センチ先まで迫った。
アラサー男子のくせにここまで近づいても肌までキレイとか、むかつく。
「あまり、私を甘く見ないでください」
そうだなー。
ここでキスのひとつでも出来れば完璧だけど、さすがにこの人にファーストキスを捧げるわけにもいかないので。
私は代わりに、引っ張っていたネクタイにちゅっと口づけを落とした。
すると、鷹藤さんが声にならない呻きをあげてびくりと体を揺らした。
いま、どんな顔をしているんだろう。
ちょっとはあの意地悪で余裕な顔を崩せているだろうか。
そう思ってネクタイから視線を上げようとした、その瞬間。
「ちょっと!なんで鍵がかかってんのよ!」
ガチャガチャと、給湯室の扉のドアノブが空回りする音がした。
それにこの声は和歌子さんだ。
それを皮切りに、私は全身の血がさぁっと引いていくのを感じた。
やばい。
鷹藤さんにこんなことをして、私は今後生きていけるのだろうか。
十倍返しなんて生温いほどの報復が待っているのではないだろうか。
そんな恐怖に駆られた私は、猛スピードで鷹藤さんから離れて扉に駆け寄り、素早く鍵を開けて給湯室から飛び出した。
後ろから「ちょ、千鶴!?」という和歌子さんの叫びが聞こえるが、私はわき目もふらず給湯室から逃亡したのだった。
山門「私、鷹藤さんにセクハラしちゃいました…」
西村「…カチャーン(コップが割れた音」