小雨の春
少し、歩きたい。そう思い、薄手な生成りのコートを羽織る。窓からは艶やかな黄緑色の新芽の葉が目立って見える。近くで見て欲しそうにするそれに急かされるが、ゆっくりと顔周りの髪を集めシルバーの髪留めを手に取った。流れる曲を消し、続きを鼻で唄いながら、今日は何だか良い気分だと思いながらレインブーツを履きドアを開けた。
濡れた階段を滑らないようゆっくり降り、歩道へ出る為足を進めた。私のアパートは少し奥まった位置にある。通りに出るには緩やかに弧を描く20メートル程の通路を歩く。両手には草木が生い茂っており所々に花の蕾がみえる。 花が満開になると花でうめつくされ、その花の数、綺麗さに圧巻される。通路に伸びた枝に傘が当たり、成長に気付く。次の休みは整えてあげなければ。
通りに出ると左へ曲がり道なりに進む。そして、坂を登っていると先に青緑のシェードが少しずつ見えてくる。少し口角が上がり、また、鼓動が速くなり、今日は何にしようかと考え始めたが、すぐに決まるはずもなく、傘を畳み、店へ入った。鈴が鳴ると店員がこちらを向き、挨拶をした。
「いらっしゃーい。埜々(のの)ちゃーん。」
「こんにちは。」
笑顔での挨拶に、私も笑顔で返した。裸電球が照らす店内はパンの香りや、野菜の香り、甘い香り、玉子の香り、沢山の良い香りがする。
「今日は雨だね。朝、曇ってるから怪しいと思ってたんだよ。」
「私も思ってました。まだ小雨だから良いですけど。梅雨まで雨は我慢してほしいなー。せっかく桜が咲いてるのに花びらが落ちちゃいますもん。」
「そうよね。お花見まだ行ってないし。あ、桜あんぱんあるわよ。お待ちどうさまね。」
「あー。ほんとだ。1つ下さい。まだかなって思ってたんですよ。これが出ないと春って感じがしないです。」
4月になると桜あんぱんが期間限定でお店に並ぶ。学生になった春、初めてここを訪れた時、この桜あんぱんを買った。桜の塩漬けがポツンとあるパンの表面は茶色く光り、中身は桜餡になっている。甘すぎないこの餡はとても下あたりが良く美味しい。
「もうとっくの前に春よ。そうそう、塩漬けは来週になる予定よ。明後日に届くみたいだから。もうすこしまってね。」
乾燥した桜の花を仕入れ、ジャムや塩漬けも作ってしまう薫さん。時々、夕飯に誘ってくれる。その料理がいつも美味しくて頬が落ちる感覚になる。レシピを貰い真似て作ってみたが、残念ながら私が思うようには作れなかった。
「分かりました。後、この、お魚フライと玉子のサンドと、ミルクティーをお願いします。」
「はーい。今日はドライトマトと檸檬のソースを入れてるのよ。」
そう言って薫さんは、ミルクティーを作りに奥へ入っていった。ガラスのショーケースには4種のパンと2種のサンドイッチ、4種の洋菓子が並べられている。見るだけで美味しさが伝わる。会計を済ませ、ドアを出る。
「足下気をつけてね」
顔の横で手を振り、見送ってくれる彼女に挨拶をし、また坂を登り始めた。
雨は好きではないが、この土の匂いも、また落ち着く。