はじまり
自分が読んでみたかった世界観です。
序章 はじまり
―――マーヴが、門を開いたのだろうか。
青年は、静かに降り続ける雨を縫って、頬にあたるやわらかな光を感じ、まぶたの落ちてくる目をなんとか顔ごと上に向けた。
光り輝く天の門。
光の神々のおわす天に通じる門が、地上に横たわる哀れな死者たちを迎え入れるため、門番マーヴによって開かれたのだ。―――降り注ぐ光がその証。
ここに横たわる幾人が、光の門をくぐり、光の神ユーグに会うことが叶うのだろう。そして幾人が、地の門をくぐり、闇の神アラルドの前に引き出されるのだろうか。
そして、彼自身は―――。
***************
鼻をつく鉄分を含んだ不快な臭い。あちこちから聞こえてくるうめき声は、味方のものだろうか、それとも敵のものだろうか。
激しく上下する胸を押さえ、おおきく息を吐きだした。
―――分からない。
どちらが勝ったのか。それとも、どちらも勝てなかったのか。
青年には、どちらでも良かった。
後に、アルデバラン戦禍と呼ばれる、大陸すべてを巻き込んだ戦いのなかの、ほんの小競り合い。歴史に埋もれ、名も与えられない小さな争いで、青年は命を落とそうとしていた。
家族を失い、国を失い、傭兵として戦う青年には、愛国心というものはもはやなく、ただその日を生きるためだけに戦っている。
だから、どちらが勝っても負けても青年には関係なかった。―――ただ、自分が生き残れさえすれば。
四大大国の一つ、ユーシス出身の青年は、隣国アウトゥーリアにより、国と家族を失った。
戦乱の世にあって、あぶりだされた者には、生きていくための選択肢がすこししか用意されていない。女であるのなら、もっと厳しい。
限りなく、狭められた人生。逃げのびた先で幼馴染の娘を養っていくには、傭兵として戦いに出るしかすべはなかった。
アウトゥーリア自治領システィナの首都、クロノスの手前にある町、アーケノス。
豊かな緑と石畳が有名なこの美しい町が、今は屍と血溜まりであふれている。
始まりは、大国アウトゥーリアの王子アルデバランの、のちに狂王と恐れられる男の、父王に対する反逆からだった。クーデターを成功させた王子は、アウトゥーリアの王になると、狂王と恐れられる勢いで他国に侵略を開始した。
四つの大国のなかにあっては、一番の弱小国であったアウトゥーリアだが、良質な馬の生産地であり、また、新たな戦術を取り入れたアルデバランの才覚により、あっという間に他の大国を滅ぼし、戦火は大陸全土に及んだ。
アルデバランが父王を弑逆してから、七年。いつしか戦いは、アウトゥーリア対他国ではなく、アウトゥーリアに与する国対アウトゥーリアに反発する国の争いに変わっていった。
アウトゥーリア自治領システィナに、ティターニア王国が攻め入ったのは、三ヶ月前のこと。自国を失っていた青年は、傭兵としてアーケノスの守備についた。
美しい石畳は赤黒い染みをつくり、剣を手にたたずむ石像だけが、兵士を励ます英雄のように毅然とたたずんでいる。
彫りの深い横顔に、虚空の瞳。エタルーシア大陸に生まれた子供なら、だれもが一度はあこがれ、石像の人物の話を聞かされただろう。
軍神マー。
神話の時代、大挙して襲ってきた闇の神の軍勢を、たった一人で退けた天空の騎士。光の神ユーグの末息子。天の軍神マーの石像は、どの国の町にもシンボルとして飾られている。
石像の頬を、木々の葉を、そして青年の身体を、葡萄月(9月)にしては冷たい雨が、ひとつ、ひとつ、ゆっくりと、それでいて強く叩き始める。
音を弾ませて、空からメーネの涙が降り注ぐ。空の女王は、愛しい石像の勇者が人間の汚辱にまみれるのを嘆いているのだろうか。
それとも、人の哀れな本性に、嘆いてくれているのだろうか・・・。
見上げる瞳は濁ったように、もう余り、なにも映してはくれなくなっていた。
女神に愛され、誰よりも勇ましい天上の軍神は、どんな顔をして青年たちを見下ろしているのだろう。
―――分からない。ただ、分かっているのは、もうすぐ青年の命が消えてしまうことだけだった。
後悔?もちろんある。
今となっては、星の数ほどに。
夢だってあった。二十歳をやっと過ぎたばかりだったというのに。あの娘を好きだと、やっと気がついたばかりだったのに。
「・・・死にたくない」
焼けたのどが、かろうじて声らしきものを発した。口をついて出た言葉に、青年は目を見開いた。
ああ、そうか。自分は死にたくはなかったのだな・・・。
傭兵となって、死にたくないと感じていたのは最初の一年のみだった。常に死と隣り合わせの状況が、単純な欲望さえも麻痺させていた。
それはまるで呪文のよう。
一度唱えれば、逃れられず、繰り返し唱えれば、叶うかもしれない幻。
死にたくない。
死にたくない。死にたくない。・・・死んでしまいたくない。
濁った目が、じわりと滲んでくる。
投げ出された足の下に、止まることのない血が、石畳の隙間を埋めていく。色を失った唇は、言葉をつむぐことも出来ず、流れる雨で潤すことも叶わない。
死が、すぐそばまで近づいていることを、青年は実感した。
失ったものは、なんて多いのだろう。夢見たものは、なんて遠いのだろう。
国を失い、町を追われた子供たちだけで、隠れ家のように過ごした。年長であった青年が、傭兵として過ごした時間は短くない。
十四の時より、七年間。共に暮らす、血のつながらない家族のために戦ってきた。生きていくのに精一杯だったが、それでも、生きているだけで楽しかったと、今は思う。
―――死にたくない。
ゆっくりと、雨に混ざって頬を伝う。
その時―――。
感覚のない指先が、青年に応えるかのように微かに動いた。すこしの変化は、指先から腕につながり、救いを求めるように石像を見上げた。
――― 一瞬の夢の、奇跡のような出来事。
生きることが叶わないのなら、この世になにかを残したい。
自分が、この世界に生きていた証を。残される子供たちとあの娘に、自分の死が優しく伝わるように、ただ、一言、言葉を。
見上げる神の力が、青年の願いを叶えられるものではないことは知っている。―――しかし、願わずにはいられない。
「神よ・・・。同じく戦場に立ち、戦った者として、わたしの最後の言葉をあの子たちに伝えてください」
はたして声になったかどうか。だが、意外なことに、返事が降ってきた。
「―――お前は死ぬのか?」
淡々とした、心底凍りつくような美声。青年が願った答えとは違う、無慈悲な言葉。
うっすらと霞む、見えない瞳は、一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、金茶色の髪に、紅玉の瞳の青年を捕らえることができた。
目に焼きついたその姿は、見慣れた容貌。けれど、見知らぬ色彩。どんな、名工でも真似の出来ない至極の美しさ。そして腕には、彼に似つかわしくないものを抱えていた。
青年は、死の淵にあって、あっけにとられる。神の姿を捕らえられたことよりも、なぜ、神がそれを抱えて青年の前に姿を現したのか―――。
「お前は生きたいのか?」
そう聞いたのは、気まぐれだろうか。それとも、神が見せた、慈悲という名の幻だろうか。
幻でも、一瞬の慈悲でもいい。―――生きたい。
青年のつぶやきは、届いたかどうか。
しかし、止まりかけていた歯車が、再び動き出したのは事実だった。
序章 了