朧~おぼろ~
一
炎が闇空を焦がす。
漆黒の中に爆ぜる、赤の飛沫。そこここに降り注ぎ、燻っては手を伸ばす。
火影に惑う、人の足音。
柱が焼ける。視界を遮る、煙と砂の風。熱風に肌が焦げる。
大路には、家財道具を運び出す人の群れが行列を作っていた。誰も彼も顔中を煤だらけにし、着物を乱し逃げ惑う。口をつくのは怒声と悲鳴だけ。われ先に恐怖から逃れようと、前を行く者を押し退ける。
その真ん中で、泣き崩れる少年が居た。
親とはぐれたのだろう。寝巻きのまま、独り立ち尽くしている。右にも左にも、大人はたくさん居るのに、手を引いてやる者は居ない。裂けんばかりに開かれた口に灰が舞い込む。それも気に留めず、涙は止めどなく溢れる。
やがて、泣くことにも疲れてしまったのか。
少年がその場に座り込む。流す傍から乾いた涙の跡に、嗚咽だけが漏れる。
このまま火に巻かれるか、或いは荷車の車輪に巻き込まれるか、どちらにしろ、命が尽きんとした時、
ーー少年が顔を上げた。
赤く、眩しい光の中。何かの影が火の粉を遮った。
背に光を負っている。見上げるも、その姿は影でしか見えない。腰を屈め、すらりと伸びるのは人の手だ。
指先に、少年は恐る恐る自身の指を重ねた。
その指は、微かに冷たかった。
二
焼け跡を目の前にして、香上隲十郎は不機嫌な顔をますます歪める。焼け落ちた壁や柱がそこにあった店の大きさを示すばかりで、広がるのは黒い墨と燻る煙のみだった。焦げた臭いに眉根を寄せる。
溜め息と共に見上げた曇空に、再び溜め息を漏らした。
「香上の旦那」
手下の与一が駆け寄る。見向いた香上の顔を見て、一瞬、身を竦めた。
「旦那、いつにも増して人相が……」
とても、善良な定廻り同心とは思えない。上役の与力からは、どこぞのならず者かとブツクサ言われる程だ。
つい最近手下にしたばかりの与一は、元は小金井町一帯を仕切っていた岡引の下で働いていた。若いが、持ち前のはしこさで、何かと重宝している。
そんな男が言うに曰く、
「本当に恐ろしい奴ってえのは、たいてい無害って顔してるもんです」
香上の仏頂面も、慣れてしまえばどうということはない。普段から人相悪い男だから、今更相手の反応を気にするような香上でもない。
与一の無駄口を聞き流し、腕を組んだ。
「なんだ、与一?」
「あ、ええと。やっぱり付け火らしいです。裏手に油の臭いがプンプンする、布っきれが落ちてたそうで」
「この燃え方は、そうだろうさ」
とっくに見当がついていたことだ。
このふた月、三月の間に、同様の付け火が続いていた。
最初は小火騒ぎだった。異変に気付いた家主に消し止められ、事なきを得た。それがいつしか大火に変わり、火消しでも手に負えない程の勢いと化した。
火付盗賊改方も動いている。しかし、今だ下手人の手掛かりさえ掴んではいない。
「しっかし、昨日は日が悪いや。あんな風じゃあ、まるで火付け日和ってえもんですよ」
「与一」
低く呼ばう。それだけで、相手の軽口を封じる威圧感がある。
冗談で口にするには、あまりに火が大きすぎた。火を付けられた店はもちろん、その背後にあった長屋まで消失してしまったのだ。何十人という者が家を失っている。死者が出ていないのが奇跡としか言いようがない。
――それも時間の問題だろうが。
火盗改が焼け野の探索を始める。不愉快な視線を感じて、香上は踵を返した。その後を与一が駆けて追う。
――一介の同心は手を出すな、か。こんな場所で、喧嘩もねえよなあ。
黒羽織が風にはためいた。
懐手に大股で向かったのは、焼き出された者達に炊き出しを施している寺だった。家を失くした者は、一時、この寺に身を寄せているらしい。本堂にひしめきあった人々は、境内にまで溢れ出ていた。
香上が門に軽く寄りかかる。疲れきった人々の様子に目を細めた。
「お前が沢山居るだろう、隲」
後ろから呼び掛けられ、静かに振り向いた。頭をつるりと剃った老人が、香上を見上げている。
「喜柘和尚」
寺の主である。歳はもう七十近い筈だが、気丈にも腕まくりをし、手に杓子を持っている。炊き出しの汁を盛っていたものらしい。昔から若僧に負けじと気負っていた男だ。こういう場では、むしろ生き生きとさえしている。
「元気そうで何よりじゃ」
香上の口元に苦笑が浮かぶ。
「和尚もお元気そうで」
「まだ逝かぬかと思うておるのじゃろう?」
「滅相も無い。ぜひ長生きしていただいて、私の出世を見守っていただかなくては」
「みなしごのお前が、もう充分に出世しておろう。これ以上の高見を目指しておるのか」
「身の丈に合わぬ……そう思いますか?」
「否。お前ならやれるだろうさ」
眩しそうな喜柘の目が皺と同化した。
二親を亡くし親類もなかった隲少年は、一時、この寺で過ごした。そして十の時、跡取りのいなかった香上家の養子となったのである。これは南町奉行所内でも有名な話であり、今更感傷に浸ることでもない。ただ、香上の飽くなき出世欲はこの辺りに起因しているといっていい。
「ところで、あれはなんです」
ぐいと顎で示す先に、簡素な掘っ立て小屋が立っている。開いた障子から窺えるのは、一間の広い部屋だった。畳も敷かれている。しかも、まだ青々と新しい。子供らが縁側に足を投げ出して座っていた。
「まあ、仏様のお導き、とでも言っておこうかの」
喜柘は穏やかに笑い、炊き出しの輪に戻って行った。
三
三月前の大火で焼け野になった岡崎町辺りは、おおかた平穏を取り戻している。大路には暖簾が並び、通行人の量も多い。
「一度何もなくなって……でも、皆、頑張らなきゃって思ったんでしょうねえ。すげえ力ですよ」
与一は関心しきりだ。
「そうだなあ」
ぶらりと歩きながら、香上は気の無い返事をする。
「なんだってそんな、気の抜けた様なんですかい」
「あ?」
と、今度は欠伸を噛み殺す。やる気ない態度に、与一は深い溜め息を漏らした。
「旦那は、下手人を捕まえたくないんですか?」
「それは火盗改の仕事だろう」
「でも――」
「手え出したら、こっちの手が後ろに回っちまう」
「旦那ぁ」
こちらはいつもの見回りをするだけと言う。若い与一はそれが気に入らない。
「まあ、そう不貞腐れるんじゃねえよ。派手に立ち回るのが火盗なら、俺ら定廻りはそれと悟られないように動くだけさ」
後ろをつく与一には分からなかったのだ。香上の目が、鋭く左右の様子を窺っていることに。
ふと、足が止まった。
無言で道を外れ、入り口の半分を簾に隠した小店に足を踏み入れる。菓子屋だ。店先に、箱に入ってとりどりの菓子が並んでいる。花の形をしたもの、一口大の饅頭。香上が買い求めるには、どれも不似合いなものばかり。
店の奥に、狭いながら座敷が設けられていた。買った菓子をその場で食べられるようになっているようだ。店とは衝立ひとつで仕切られている。
香上の足は、真っ直ぐそちらへ向いていた。
衝立に肘を掛け、そこに座す面子を見下ろす。
「よお、師範代」
総髪の黒髪を揺らして、呼ばれた後ろ頭が振り仰いだ。
「旦那」
瞳がみるみる大きくなる。そうすると一層幼い印象が強くなった。
三峰さくらという、顔見知りの娘である。向かいには、琴の演者で総という男が座っている。こちらは微笑で小さく会釈をした。
「外から姿が見えたんでな。まったく、優雅なことだ」
いつもの厭味に、さくらはムッとした顔をする。
「ここは私の友人の店です。だいたい、こっちがどこで何をしようと、旦那に咎め立てされる覚えはありません」
「別に咎めちゃいねえよ。こっちはそんな暇じゃねえからな」
「付け火、ですね」
総がやんわりと問うた。一瞥し、香上は口の端を上げる。
「するどいな」
「微かに煙の臭いがしますから」
「なるほど」
加えて、ここが以前の現場だとすれば、簡単な算盤である。
衝立を脇へ寄せる。その場にどかりと腰を下ろした。手下はというと、物珍しそうに菓子箱を眺めている。
さくらが、あからさまに眉根を寄せた。
「昨晩も半鐘が鳴っていましたね。一体、いつまで続くのか……」
「そいつはこっちも知りたいね。まあ、下手人を上げちまえば済む話だろうが」
「それまで、いつ襲ってくるか分からない恐怖に、耐えなければならないという訳ですか」
「お前も言うねえ」
「言いたくて言ってるんじゃないですよ。焼き出された人の苦労を思えばこそ、言ってるんです。この店のお千代ちゃんだって――」
「お千代?」
ちょうど、奥から茶を運んできた娘が足を止めた。
「……何か?」
恐る恐る、黒羽織の背に問いかける。この娘が千代らしい。さくらと同年齢だろうか。小柄な体に袖を襷がけにしている。細い腕が露わになっていた。
目を合わすと、怯える色が濃くなる。
元々、人相が良いとはとても言い難い。お世辞を大盤振る舞いしたところで、初対面の女・子供に懐かれた記憶もない。
バツの悪い咳払いをして、
「別に、何もありゃしねえよ」
香上が茶を受け取った。
千代がそっと友人の顔を窺う。さくらは少し肩を竦めるも、苦笑で頷いた。安堵した様子で千代は与一へと残った茶を運ぶ。不揃いな下駄の音がする。
「火から逃げる途中で、足を痛めたんです。ご不快に思われたのでしたら、申し訳ありません」
香上の視線に気付き、千代は自らそう言った。
「お千代ちゃんが謝ることないよ。悪いのはこの目付き悪い狸」
「さくらさんっ」
さすがに、総が慌ててそれ以上の暴言を止めた。
ただの戯言だ。香上はまともに取り合う気もない。ぬっと手を伸ばし、さくらの皿から団子を一本失敬した。
「あ、泥棒」
ほんのり焦げ目が付いた餅に、上品な餡が絡んでいる。甘過ぎず、辛党の口にも美味いと思う。
言うと、さくらは当然とばかり、
「だってこの辺りじゃ名の知れた菓子屋だもの。前のお店は火事で全焼しちゃったけど、由緒あるお店なんです」
「だったら儲けてんだろ。いっそ通りに面して、店を出せば良かったじゃねえか」
「それが、そうもいかないんですよ」
友人の境遇を思い、さくらが溜め息混じりに言う。
「こんな時だから仕方がないのかもしれないけど、木材の値が上がっているんです。付け火騒ぎの前と比べても三倍近くの値がついているんですって」
「どの問屋も品不足なんだろう」
「本当にそればかりでしょうか」
総が、沈鬱な表情で顔を上げた。
「今ならどんなに値を上げても買い手はつきます。それを良いことに、売り手はどんどん値を吊り上げる。また火事が起きて、買い手は更に増える」
「悪循環ってわけかい」
「……お千代ちゃんだって、火で大半の財を失った。――この店が、ありったけなんだ」
「お前が、そんなおっかねえ顔するんじゃねえよ」
さくらの頭に大きな掌を乗せる。ぽんと軽く叩いた。
「子供扱いしないで下さいっ」
とは言われても、香上から見ればまだまだ子供だ。彼らに背を向け、店を出た。
四
朝から、しとしとと雨が降っていた。付け火が横行してからこっち、こういう天気は実に有り難い。皆、今夜は安堵して眠りにつける。
見回りをしていれば、自然と活気がある店とそうでない店が分かる。木材を扱う店で最も活気に溢れているのは、江戸の材木を一手に扱う吉岡町の来須屋だった。来須屋は、既に広大な土地の森林を買い占めているという噂まである。
藍染の暖簾はひっきりなしで、人と物の出入りを繰り返す。木材を積んだ荷車が到着し、更に大勢の手代がそれを囲んだ。まるで砂糖にむらがる蟻である。
紛れもなく恵みの雨の中、香上はひとり、来須屋の暖簾を潜っていた。朝の忙しい時である。それでなくても、材木問屋は暇がないと言われていた。番頭に話をつけ、奥の部屋へと通されるも、主はなかなか現れない。
「失礼いたします」
暫くして姿を見せたのは、主ではなく、徳十という番頭だった。柔和な顔つきの男で、歳は四十を回ったかと見える。働き盛り。それでいて腰が低い。
「お待たせしております。主は只今参りますので、もう少しお待ちいただけますでしょうか」
「ああ、忙しい時に来たのはこちらだ。気にせず、商いを大事にしてくれ」
「ありがとうございます。何かございましたら、どうぞお呼びくださいませ」
深々とお辞儀をして、その場を後にする。障子は開けたままだ。
さすが大店の番頭である。気遣いにも抜かりない。面した庭に白い大輪の花が咲いているのが見えた。なんと言う名か香上には分からない。ただ、待つ時を短いと感じさせるには充分な美しさだった。
「失礼いたします。来須屋主、俐平でございます」
現れた主は、思っていたよりも若い男だ。三十の手前だろう。その歳でこの大店の主を務めているのか。だとしたら、相当のやり手であるか、もしくは――。
面に出ていたのだろう。俐平が唇の端を上げた。
「主にしては若い。そう思われますか」
「まあ、なあ」
「わたくしは父が歳を重ねてからの子ですから、父が隠居してこの店を継いだのが二十五の時でした。未だにわたくしを、番頭か若旦那と間違われる方もいらっしゃいます」
「気分が悪いだろうねえ」
「もう慣れました。それに、相手に若造と思われる方が、何かと利がありますので」
「来須屋といえば大店だ。その主が未熟さを武器にしているってのかい」
俐平の眉がぴくりと動いた。
だが、すぐに薄い笑みを浮かべる。
「商いで儲けが出るのであれば。――今日はどういったご用件でしょうか。わたくし共の商いに、何かございましたか」
内心で、香上は舌打ちする。商売人は感情を抑制するのが上手い。武士の方が、力を持っていると錯覚している分、感情的になりやすいものだ。しかし、香上もそこらの武士よりは面の皮が厚い。
「今や飛ぶ鳥も落とす勢いの来須屋の商いに、何かあるわけがない。俺はそう思っているが……あんたはどうだい」
わざと問いを重ねる。
「もちろん、やましいことなどあろう筈ありません」
「そういえば、この火事騒ぎで店は大繁盛だそうだな。付け火様々か」
「いくらお役人様でも、言って良いことと悪いことがあるのではないですか」
やんわりと笑って、来須屋が応じた。大っぴらには言えないものの、そうであることは店をみれば明らかだ。
香上が来須屋に目をつけた理由は、いくつかある。
今まで付け火によって消失した店の中に、必ずといっていいほど、材木問屋が含まれていた。そして、最初に火を付けられたと思しき場所は、火の手が回り易い条件が揃った場所なのだ。風向きはもちろん、火種に使われたのが木屑と油だということも知れた。木屑が大量に出るのは、大工か桶屋か、材木屋か。
付け火が一度きりなら、疑いのかかる者は多い。しかし、度重なるとなんらかの利害が関係しているとしか思えない。
材木問屋が最初に疑われて当然だった。火盗改も馬鹿ではない。既に幾つかの材木問屋には目を付けている。
香上が来須屋を疑う理由――それは、ここが大店だからである。
火付けからこっち、儲けている云々は別にして、来須屋はそれ以前から大店と呼ばれていた。今更、火付け騒ぎを起こして儲けを上げるなんて危険は冒すまい。
――だから、だ。
「だいたい――」
俐平が口を開いた。
「火が付けられるのは木戸が閉まった後でしょう。木戸番に聞けば、わたくしがその刻限に出入りしていたかどうか、分かるのじゃないでしょうか」
――狸が。
暗に疑われていると分かっていながら、敢えて、それを口にするふてぶてしさに、香上はすうと瞼を細める。
「例えばだが」
ゆるりと腕を組んだ。
「木戸が閉まる前に入り、火事騒ぎでごった返している中、逃げる者に混じって木戸を抜ければ、誰にも見咎められずに行き来できる。お前、それに考えが及ばない馬鹿でもあるまい」
「買い被りでございます。わたくしには思いもつかないこと。――申し訳ございません。もうすぐ荷が届きますので、これで失礼いたします」
一礼して、さっさと部屋を出て行った。
香上が横目でその影を睨みつける。不快な色を目元に滲ませていた。
来須屋の入り口を見渡せる路の隅で、与一が腕組みをしている。店から長身の影が出てくるのを認めて、すぐに駆け寄った。傘を差し掛ける。
「旦那、どうでした」
首を二、三回鳴らすと、香上は大きな息をついた。懐に入れていた右手を差し出す。
「やる」
手下の掌に小さな包みを落とした。紙を小さく折りたたんだものだ。注意深く開く。
中に銀色の粒が入っていた。
「うわぁ、良いんですか、旦那っ」
「最近走り回って貰ったからな。これで、美味いもんでも食べな」
出掛けに番頭が袖にすり入れたものだ。こんな金を受け取ったからといって、手心を加えるつもりは当然ない。
「ありがとうございますっ」
大事大事に懐に収めて、来須屋の暖簾を振り返った。
「それにしても儲かってんですねえ。巷には、火で焼け出された人がたくさんいるってえいうのに」
「まるで、こうなることが分かっていたようじゃないか」
隣で与一も頷いた。
「こんなに儲けて。許せねえ」
「……ん?」
的外れな応えに、呆れた顔を見せる。二人はゆるりと歩き出した。
「単純に、そういうことじゃねえよ。火盗がどうして来須屋を探索から外しにかかっているか、分かるか」
「そりゃあ、裏にずうっと偉いお人がいるからじゃないんですかい」
「それも、一理ある」
あれだけの店となれば、上との繋がりも抜かりない。まして古くからの店ならば、先々代以上前からの付き合いもあろう。
「だが、それだけなら火盗は手を引くまい。お前も見ただろう。喜柘和尚の所で、妙な小屋を。あそこで、焼け出された者が寝起きしているらしい。救済小屋というんだそうだ。あれを建てたのが、来須屋だ」
それも喜柘の寺だけではない。付け火があったほとんどの所に、あれと同じものが建っているという。
なんと慈悲深い。寺社奉行所からも目をかけられ、結局、火盗改の探索からも外された。
木材の値が張るこの時期に、幾ら端材だからといって、あれだけの数の救済小屋を建てる余力がある。香上には、それが気に入らない。
元々、流れには逆らってみたくなる性質である。皆が白をというものを、黒にして見せ付ける瞬間が堪らない。しかも、来須屋に限っていえば、白よりも灰色に近い。容易に黒へと変貌を遂げそうだ。
「全くの善意ってやつが、この世にあるもんか。何を考えてるか知らねえが、思惑があるなら白日の下に晒してやるまでよ」
雨粒が勢いを増した。
このままずっと、この天気が続けば良いのに。与一が呟く。そうすれば、火事など恐れることはない。夜、眠ることが怖いこともない。
しかし、香上は渋面を造った。
「それじゃあ、何も終わらねえよ。一時の安らぎを求めて大罪を犯した奴を取り逃がしたんじゃ、後々同じことが繰り返されるとも限らない。そうだろう」
「……まったくで」
「犯したことの大きさを、知らしめなきゃいけねえよ」
それが同心としてーー十手を預かる者の役目と、義父から教えられた。
左の肩だけを雨に深く濡らして、二人は喜柘和尚の寺へと向かう。庭先にはまだあの小屋がある。庇の下で水溜りを覗いている子供が二人。それを微笑ましく見遣るのは、子供の母親だろう。焼け出され、家を失くした者たちとは思えない。穏やかな空気が流れる。
玄関先で傘の雨粒を払う。手拭いで足を拭いていると、
「おお、これはこれは。このような雨の中、どうされたのじゃな」
若僧に呼ばれて出てきた和尚は、香上の姿を認めてニコニコと表情を崩した。和尚の年齢からすれば孫のような存在なのだ。しかも、香上は小さい頃からやんちゃ坊主だった。手がかかる子ほど可愛い、そういう心境なのかもしれない。
まあ、今は可愛いというには程遠い顔をしているのだが。
「さあさ、暖まりなさい」
奥の部屋に通され、熱い茶を振舞われた。与一はひとり水屋の方へ行ったはずだが、火鉢にでも齧りついていることだろう。まだ若い、少年のような小坊主が、香上から羽織を受け取っていく。濡れた所を乾かしてくれるらしい。
「人手が足りているようで、安心しました」
「あの小屋で寝起きしているおかみさん連中が、よくやってくれているだけのことさ。お陰でこちらは、至れり尽くせりの極楽気分だ」
言葉が罰当たりに聞こえてしまうのは、何故なのか。香上が苦笑した。
「あの小屋の件ですが。あれは来須屋が建てたものなのでしょう」
「それは、お役目で聞いておるのか」
「ええ」
「そうか」
他の寺社では、管轄外の同心が探索を行うことは難しい。しかし、ここは以前香上が世話になった場所である。多少の無理は聞いて貰える。
和尚が湯呑みを手にした。一口、二口と啜って、目を細める。
「そう。材木の一切を提供して下さった。有難いことよ」
「何が目的なのでしょう」
単刀直入に問うていた。相手に後ろ暗いことがなければ、こちらが手心を加えることも必要ない。喜柘和尚が来須屋と手を組み、何かするとは考えられなかった。
和尚の目が、真っ直ぐに香上を注視する。受け止める目は、真摯そのものだ。
やがて、和尚の目元が和らぐ。
「曲がったことが嫌いな性格は、変わっていないようじゃの」
「いえ、他人のことはとやかく言えるのですが、自分のことには甘いですよ」
「いいや。お前は小さい頃から自分にも厳しい奴だった。立派な同心になったな」
香上は小さく微笑した。
そんなに綺麗な生き方はしていない。本当は、和尚の顔を真っ向から見ることも、憚られるようなこともしてきた。
和尚が、庭の小屋を見遣った。
「あの小屋を建てる時、寺社奉行様からお話があった。どうやら奉行へ、来須屋から直々に申し出をしたらしい」
「そうやって、取り入ったわけですか」
「儂らにとっては、嬉しいことじゃ。――例え、どんな思惑があっても、あれのお陰で生きられる人がいる。仏は、その行いを見ているものだ」
「極楽に行ってもらっちゃあ、困るなあ」
「隲っ」
さすがに、喜柘は渋面を作る。
若僧が羽織を持ってきた。すっかり乾いた黒羽織は、しなやかに体に馴染む。
「では、失礼します」
「気をつけるのじゃよ。敵を作るのも、お前の得意だったことだから」
「今更、生き方を変えることはできません。そう生きるのは俺の本望です」
軽く一礼し、部屋を出た。
五
それから十日が経った。
暫くは愚図ついた日が続き、湿った風に皆、安堵の息を漏らしていた。この日も朝からすっきりとしない。
甘味所の奥に座し、ひとり甘酒を啜っていた香上が、気配に顔を上げる。
来須屋が佇んでいた。傍らで、番頭が傘を畳んでいる。
「まあ、座りな」
隣を示す。
若い主が腰を下ろすと、番頭は少し離れた場所に腰掛けた。
「すまねえな。忙しいのに、呼び出しちまって」
「いえ。わたくしひとり居ないだけで立ち行かなくなるような、柔な店ではありませんので。…… それで、御用の向きは」
「お前さんに、聞きたいことがあってな」
「お応えできる範囲でしたら」
「なあに、簡単なことさ。お前さん、火事見舞いと称して、あちこちの寺社に救済小屋を建ててるそうじゃないか。感心なことだねえ」
「使っているのはどうせ捨てるだけの木っ端です。金の問題ではありませんので」
「育ての親には、何かしてやったのかい」
ふと降りた沈黙に、外を行く荷車の軋みが響く。すぐ裏の河原では、小さな子供がこの天気の中、釣りをしている。きゃっきゃと声を上げて笑っていた。
俐平が笑む。だが、何を言うこともなかった。
香上は構わず言葉を次ぐ。
「上手く隠していたが、こっちは色んな所に顔が利く。――お前が来須屋の主の元に来る前のことだ」
後半部はやや低い声音だった。二人以外、内容が聞き取れないほどである。
「火事ってやつは、怖いもんだな」
上目で俐平を見遣る。
微かに色を失った顔が見えた。
「――前島町の材木問屋の噂、聞いてるかい」
唐突に、香上は話題を変えた。妙に声高な調子に、番頭もこちらを振り見る。甘酒を酒のように飲み干した。その様は豪快なのだが、なにぶん、甘酒なだけに妙な感じだ。
「この木材不足の中、万一の時の為に材木の取り置きを始めたらしい」
「……存じております。もしも火で家が焼けた時、優先的に使える木材を確保しておくとか。まったく、妙な考えを持つものだと……」
「だが、取り置いた分の置き代はかなりのもんだっていうぜ。それだけ皆、切羽詰ってる証だろうさ」
「早く、下手人が捕まってほしいものです」
「そうだねえ」
「でなければ……、また、親を失う子が増える」
俐平が呟く。ゆるりと瞼を閉じ、一瞬後、顔を上げた。眼元にわずかな力を込める。
「お話が済んだようですので、わたくしは失礼いたします」
「ああ、悪かったな」
俐平の背を見送るその唇が、にやりと歪んだ。
六
月が出た。
雲陰を透いて月光が降り注ぐ。往来に人はなく、皆、寝床に潜り込んで早数刻が過ぎていた。どこの屋からも物音ひとつ聞こえない。木戸もとうに閉めている。時折、小石が転がり、その後に猫が駆け去る。犬の遠吠えも消えた、その夜に、
――天水桶の陰から滑り出るものがひとつ。
身を低くし、家々の壁を沿うように走る。滑らかな動作に、足音さえ消える。
やがて、影が足を止めた。
そこは人ひとりが通るのが精一杯の、狭い路地裏だった。背後には長屋との仕切り塀が迫る。月の明かりも遮られ、やはり闇が落ちている。
ふと、影がしゃがみ込んだ。慣れた動作で腰の袋から何かを取り出す。チッチッと鳴る度、闇の中に赤いものが飛沫する。
「何、してやがんだ」
影の動きが止まった。否、胸の鼓動も止まったようだ。背後からかけられたその声に、恐る恐る振り返る。
月光の中、痩せた足を露にして、与一が立っていた。手にはしっかり棒切れを握っている。実はまだ、十手を任されていないのだ。これを持って行けと渡されたのが、この棍棒だった。
そりゃないぜ、旦那――。
正直、足が震えていた。
影が立ち上がる。明るい中に居る与一の様子が、はっきりと見て取れた。へっぴり腰に構える棒の先は微かに震えている。しかも、彼以外、応援の気配はなかった。おおかた、見回っていて、姿を見られたのだろう。
――勝てる。
影が笑んだことも、与一には見えない。
「おおお大人しく、縛につきやがれいっ」
言う台詞は威勢が良い。しかし、声が上擦っていては迫力は微塵もない。
影が懐から匕首を取り出す。煌くその刃に、与一は明らかに身を竦めた。
影が土を蹴る。真っ直ぐに繰り出された手は、不運な若き正義者の顔を狙っていた。
「ううわっ」
与一は間一髪で躱したが、勢いで尻餅をついた。すぐ脇を影が走り去る。
「ま、まて――」
といって、待つ馬鹿者も居ない……と思われたが。
意に反して、影は立ち止まっていた。
路地から大路に出た辺り。その姿を月光に晒して、わずかに後退りをする。
――まさか、まさか、旦那っ?
ひとりで行けと言っておいて、やはり来てくれた。やはり俺の目に狂いはなかったんだ――与一の目が喜々と輝き、彼は急いでそちらへと走り寄った。
「旦那っ」
草鞋が滑る。砂埃を上げて影の後ろへ出ると、与一はそこに華奢な人物を認めた。
相対する、小さな立ち姿。肩は細く、首も下手したら折れてしまうのじゃないかと思う。だが、侮るなかれ。与一も知っているその人物は、女だてらに剣術の師範代を務める剣客である。
さくらは、腰にした脇差に手も触れず、ただそこに立っているだけに見えた。自然に、なんの力みもなく。
風に、総髪の髪が靡く。その糸のごとき美しさは、与一に天女を思わせた。
女だと、影にも分かったのだろう。口元が歪む。匕首を構え直した。
「……家でネンネしてたほうが良かったなんて、後悔するんじゃねえよ」
嘲笑にも、さくらは眉ひとつ動かさなかった。
影が足を踏み出す。両の手でしっかり握った匕首は、確実にさくらの喉元を狙っていた。
「三峰さん――っ」
与一の声が絶叫に変わった。
あと、数寸。否、紙一枚の差まで、さくらは微動だにしなかった。
雲が流れる。猫がどこかで鳴いていた。
喉元に迫る殺気。確かに感じるそれを、さくらは軽く腕を動かしただけで難なく退けた。
彼女の細腕のどこに、そんな力があるのか。手を払われ均衡を崩した影は、無様に土の上に滑り倒れた。
土埃が舞う。袖に掛かった埃を無造作に払い、少女は影を一瞥した。
「――私はあの狸の手下じゃないけど、あんたのやってきたことは、赦せないんだ」
その目元には確かな怒気が滲んでいた。ゆっくりとした動作で脇差を、鞘ごと抜く。
「み、三峰さんっ。斬っちゃ駄目だああ」
与一が駆け寄るのと、さくらが脇差を振り下ろすのは同じだった。
硬い音がしじまに響き渡る。
鞘の先が、影の鼻先を掠めて、土に突き刺さっている。影は口から泡を吹いて失神していた。
与一が安堵の溜め息をつく。
「……本気かと思ったよ」
「本気だった。こんなもんじゃ赦せない……なんで私が、旦那の手下みたいな真似を――っ」
どうやらその怒りの矛先が違うと察して、与一はどこに行ったとも知れない香上の心中を思った。
七
庭先でひとり佇む男に、俐平が声をかける。
「こちらに、御酒の用意ができております」
自ら手にした盆を縁側に置く。それを認めて、香上が首を傾げた。
「御手ずから、用意してくれたのか」
「皆、寝ておりますので」
「すまないな。夜分遅くに」
「いいえ。――今宵、いらっしゃるだろうと」
「覚悟はできていたってえのかい」
云とは言わず、微苦笑を見せた。
香上が来た訳を、この男は分かっている。ならば焦る必要もあるまい。誘われるまま、酒が満たされる杯を口に運んだ。皿には煮物と開きの炙りと、塩が盛られている。摘まんだ塩をちろりと舐めて、杯を傾けた。
月を見上げる。静かな夜だった。
「番頭は、捕まったのですね」
天気の話をするような、なんでもない口調で言う。空になった香上の杯を、絶妙の間で満たした。
「番頭は前島町辺りに行くのだろうと、そう思いました。旦那の誘いに乗るとは、浅はかな男です」
「番頭の徳十は、この屋に来てまだ五年だそうだな」
「はい。ちょうど、父が病で臥せた時でございました。まだ若い番頭しかなく、わたくしも急なことでどうしたらよいのかと、途方に暮れておりました。徳十は大阪の商家の奉公人であったのですが、前の店が取り潰しになり、江戸に出て来たと」
「それも、あの男が店の金を使い込み、あまつさえ有り金掻っ攫ってきたからだ。あいつに、人の情なんてもんはないんだよ」
「――例え、そうだとしても、徳十が采配を振るえば、店が立ち行きました。傾きかけた店はあっという間に元通りになり、以前を凌ぐ賑わいとなりました。父も徳十に任せれば安心と、安らかに亡くなりました。せめてもの恩返しができたと、思っております」
「本当に、それが恩返しなのか」
鋭い視線が突き刺さる。俐平は唇を引き結んだ。
「詭弁だよ。お前は利用されていると判っていて、そう思い込もうとしていただけだ。お前は徳十が火付けしていたことを、知っていたな」
はい、と首を折った。
火付けをし、他の材木問屋が巻き込まれれば、必然、来須屋に落ちる金の額が跳ね上がる。徳十はその金を狙っていた。
「主が怪しまれようと、あの男には関係がなかった。いや、むしろそう仕向けていた節がある。危なくなりゃ、己ひとり、溜め込んだ金を持ってさっさとトンズラしていただろうさ。自分は良い顔をして主を売るなんざ、奉公人の風上にも置けねえ野郎だ」
「黙認していたわたくしも、同罪でしょう」
「なぜ、黙認していた。火付けで落ちる金が目的とは言うまい?」
一瞬、俐平は目線を落とした。膝に据えた手の甲を見つめる。
「……己の心を守りたかったのです」
ぽつりと落ちた声に、香上が目を眇めた。
「こういう晩は、どこかで半鐘が鳴らないかと不安でした。半鐘が鳴れば、親を亡くす子が出る。その子はどこに行きます? 頼る者があれば良いでしょう。しかし、誰もが余裕あるわけではありません。焼き出され、自分の生計もままならない時、どうして他の子の面倒を看られましょう。……せめて、雨風をしのげる場所を与えてやることしか、わたくしにはできませんでした」
それが、あの救済小屋だった。
あれは、俐平が徳十の行為に目を瞑る条件だったのだ。せめて暫くは安眠できる所を――。俐平が心から望んでいたことだ。
「わたくしは幸せ者です。火事で、家と二親を失った日、逃げる力もなく死を覚悟した時でした……差し出された大きな手。義父の手は、微かに冷たかった。火に怯えるわたしを抱き上げ、力強く抱きしめてくれた――。後で知りましたよ。義父の妻と腹の子が、あの年の先年亡くなっていたと」
差し出した手は、俐平にではなく、生まれてくるはずだった我が子へと向けられたものだった。
それでも良い。この人は自分を拾ってくれた。眠る場所と温かい飯と、生きる時を与えてくれた。
「義父が、大好きでした」
哀しい笑みだった。見ている香上のほうが顔を逸らす。
「わたしは幸せ者だ。ですが……大半は家を失い、その人生を負のほうに狂わされる。家というのは、生きるのに必要なのです。眠る、食べる、雨風と寒さをしのげる場所。――温かい家族の場所。そこに居れば、笑顔が浮かぶ。例え微力でも、そういう形で力になりたかった。それが、拾われたわたしの、せめてものことです」
香上はそれを詭弁と言わなかった。俐平が徳十の所業を知りながら黙っていたことは、罪に問われて余りある行為だ。しかし、その根底にある強い想いだけは、誰も侵すことができない。
何が良くて、どこで間違っていたのか。俐平は分かっているのだろうか。その想いに固執しすぎて、大切なものが見えていなかったのではないか。
まるで、朧の月のように。
杯を傾ける。
注されるままに、酒を重ねた。
八
長屋に顔を出す。出掛けのさくらを呼び止めて、この前の礼を言った。
「それが礼を言う態度に見えないのは、不思議ですよねえ」
苦笑する少女に、香上は渋面をつくる。
「人相が悪いんだ。仕様がないだろう」
「眉間に皺がいけないんです。心から笑ったことって、ないんでしょう」
「五月蠅いねえ。じゃあ、これ。飴でも買いな」
さくらの手にわずかな銭を握らせると、さっさと踵を返した。
金の為に、香上の頼みを引き受けたのではない。救済小屋を建てたのが来須屋の本心と知っていたから、真に腹の黒い者が赦せなかったのだ。俐平が時たま寺へ来ては、切なげな、しかし穏やかな顔でそれを見遣っていると、和尚らは言っていた。
ほうと、溜め息をつくさくらの後ろから、
「人相が悪いというよりは、敢えてそう見せているといったほうが良かったのではありませんか」
総が顔を出す。
わずかに見向き、さくらは微笑した。
「そう言ったら、絶対怒ると思うから。矜持を傷付けるのは、本意じゃないよ」
「そう悪い人ではないと思いますが」
「悪い人なもんか。――ただ、厭味がすぎるだけ。それが一番厄介なんだけどね」
胴衣の入った風呂敷を携え、長屋を後にする。
手を懐に仕舞い、総は空を見上げた。香上が真に笑える日がいつか来るのだと。それを初めに見るのは、どんな女だろう。
それを思うと、笑まずにはいられない総だった。
[了]
初めまして、深町蒼と申します。
「朧~おぼろ~」の香上は、眉間に皺を寄せ厭味を言いながらも手柄を挙げる、周囲から煙たがれるタイプの男です。作中ではあまり描けなかったのですが、香上は身長も高く精悍な顔付きの良い男(のつもりで書いているのですが……)。
本来、香上は「さくらヱ草紙シリーズ」の脇役。私的にすごく魅力的だと思っているので、スピンオフを書いてみました。香上と与一のコンビは歳の離れた兄弟のようで、掛け合いを書いていても楽しいです。
派手な立ち回りや派手な事件はありませんが、何かひとつでも心に残ることを願って……
蒼