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墓守り

作者: 雨垂 穿

スタジオ夜空団長兼小説部門統括者の雨垂穿です。

スタジオ夜空?何それ美味しいの?という方もほとんどだと思いますが、何でもサークルだと思って頂ければいいかと思います。


それで、小説のことです。


今作はある賞に応募しようと書き上げた作品でした。しかし、応募するか否かが不透明になってしまったので、投稿させていただいた次第です。


あまり面白くないことは自負しています。それでも、私が今書ける最高のものだとも思っています。


是非、ご一読ください。


そして、よろしければ感想など、ご一報頂ければ幸いです。


雨垂 穿


(なお、言い訳がましくはありますが、補足させていただきますと、今作は原稿用紙三十枚分の規定の中で書き上げています。若干、尻切れトンボな感じはございますが、平にご容赦を)


 その少女の瞳は、綺麗な鳶色をしていた。


 母方の祖母の実家に帰省していた時のことだった。そこは私が普段暮らしている都市部とは打って変わって静かなところで、あるものと言えば森と山と川くらいのものだった。

 私はよくそこに連れてこられた。私の「病気」―――少なくとも母はそう思っている―――に少なからず効用があることを願っての、母の厚意だった。ともすれば私は何かを、例えば拒否するなど、することはなかった。

 星が美しい夜だった。私は祖母の家の裏にある小高い岩山の天辺に寝転び、星を数えていた。夏の熱気に当てられた背中の岩は、ほどよく私を温めてくれた。峰を吹き渡る風が髪を嬲る。聞こえてくるのは虫の声だけ。

 私はいつの間にか寝てしまったようだった。三日月の位置がだいぶ変わっている。母が言っていた門限のことを思い出し、ゆっくりと腰を折り、上半身を起こす。

 その時だった。

 彼女は目の前にいた。くりくりとしたアーモンド型の瞳が、私の目と鼻の先にあった。彼女はしゃがんで私を見ていたようだった。

 彼女は少し驚いた顔をしていた。私はいつものように無表情だった。あるいは驚いていたのかもしれないが、数年間働いたことのない表情筋はピクリともしなかった。

 中途半端に起き上がった体勢では口をきくこともかなわず、私と彼女はちょっとの間無言で見つめ合っていた。

 根負けしたのは彼女だった。クス、という可愛らしい笑い声とともに、鳶色の目が細められる。瞳の色を薄くしたような、彼女の長い髪がサラサラと溢れる。

「ねぇ、あなた、何していたの?」

 ふいに、彼女が尋ねる。私は起き上がることを諦め、再び岩に体を委ねた。

「寝ていた」

 彼女が私の隣に移動し、腰を下ろす。

「その前は?」

「星を見ていた」

 彼女の手が髪を梳く。白い肌が闇の中でぼんやりと光っているようだった。

「随分無愛想なのね」

 彼女の声に刺は無かった。むしろ何かを面白がっているかのようだった。

「よく言われる」

 私の声は相変わらず抑揚に乏しく、一切の感情が無かった。

「少しお話に付き合ってくれない?」

 私を見下ろす彼女の瞳が、鳶色の瞳が、いたずらっぽく遊んでいた。私の喉は枯れたように沈黙していた。何故かは分からなかった。

 それを肯定の意ととったのか、あるいは端から私の意思など聞く気がないのか。とにかく彼女の話が始まった。


 彼女が何か特別なことを言ったわけではないし、私が特段素晴らしいことを語ったわけではなかった。彼女との話はありふれたものだったし、だとするなら彼女が私に呆れ、怒り、詰ることは予定調和ののように思われた。

 だが、私の予想は外れ、彼女は始終笑顔を絶やさず、しかもその笑みはどうやら、本物のようだった。

 長い問題文のような彼女の問に、私が一問一答の答えのような返事を返す。悠久の時を経た歯車のように、その会話は紡がれていく。月は傾き、風は凪ぎ、虫が鳴き、風が歌い、森は黙り、川は静かに流れていた。すべての物事が静止しながら、同時にある種の活気をもって蠢いていた。

 彼女との話は多岐に渡った。好きな音楽、好きなテレビ、好きな役者。最近話題になったニュースや、彼女が昔から疑問に思っていたことなど。私は暇つぶしに読書を用いることが多く、知識だけは無駄に豊富だった。

 彼女が不意に言葉を止めた。

「ねぇ、一つ聞いてもいいかな?」

 それまでの話が余興だったのかのように、その言葉には言い知れない重みがあった。それまでの質問とは一線を画した何かのようだった。虫の鳴き声が、川のせせらぎが、酷く耳障りに思えた。彼女は私と目を合わせた。鳶色のそれは、不思議な光を湛えていた。

「人は、死んだら、どこへ行くのかな?」

 一陣の風が舞った。


 しばらく無言の時間が流れた。彼女は前を向いた。私は白み始めた空を仰いでいた。まばゆい光に包まれて消えていく星々。死を待つような三日月。

「俺には、分からない。死んだことが、ないから」

 それだけ言ってから、でも、と繋げた。

「死んだ人が、ここにいる、そう思ったら、そこにいる。誰も思わなかったら、そっと消えていく。きっと、そう。そうだと思う」

 随分と長く喋った。久方ぶりのことだ。

 彼女はどう思ったのだろうか。華奢な肩は長くは語らない。

「そうだといいね」

 彼女が呟くように、言い聞かせるように言った。

 空がさらに白くなり、木々に遮られた光が私を撫でる。不意に、彼女が立ち上がった。私を見下ろすその顔は影になって見えない。

「ねぇ」

 彼女が楽しそうに声を上げる。

「死んだら。もし死んじゃったら、あなたはどんなお墓に入りたい?」

 答える間もなく、彼女が口を開く。

「私はね―――」

 森がざわめき、旋風が巻き起こる。太陽に隠れた言葉は、ついに聞こえなかった。

 かろうじて、彼女が、バイバイ、と叫ぶのだけが聞こえた。ふっ、と彼女の影が消える。

 固まっていた背中の筋肉を無理に使って跳ね起きると、岩山を下っていく彼女がいた。

「なあ!」

 疾呼。彼女が振り返る。

「君の名は?」

 逃げ遅れた闇の中に佇む彼女の表情は分からない。見下ろす私はやはり無表情。

 それでも、彼女の声は笑っていた。

「ユエ。月って書いて、ユエ!」

 そうして、それが私が彼女の姿を見た最後になった。


 私が目覚めたのは、それから二日後のことだった。彼女がいなくなったあと、私は重い体を引きずって山を降り、母の詰問に適当に答えて、そうして眠りに落ちた。母は随分心配したようだった。

 起きた時、彼女の鳶色の瞳が見えないことを随分不思議に思った。そしてどうしてそんな風に思ったのか、不思議だった。

 その日は朝から騒がしかった。いつもはおっとりとしている祖母が色々な人と会ったり、生家にいる間はのんびりとしている母が、あちこちへ出かけたりしていた。

 そのうち、祖母の話している内容が聞こえてきた。

「………まったく、びっくりしましたよ」

「本当にご不幸なことで………」

「まさかあんな可愛らしいくて良い子がねぇ………」

 不思議と、死んだのがユエだと分かった。後で母に聞いた話だと、事故で亡くなったらしい。なんでも彼女は、私と同じように帰省してきていたそうだ。私が寝ているあいだに、彼女は逝ってしまった。それは酷く悲しいことだとは思ったが、涙は出なかった。

 ああ、死んだか。彼女の鳶色の瞳が帯びていたあの光は、死だったのだ、そう思った。

 母が、葬式に行くと私を呼びに来た。あなたには関係ない人だけれども、と申し訳なさそうに言う母の言葉が耳についた。理由は分からなかった。


 彼女の家―――と言っても彼女自身の家ではないだろうが―――は大きな平屋建てで、葬式もそこで行われていた。大きな門をくぐって母屋へと向かう。途中、玄関の前を横切る時に視線を感じた。振り返るが、誰もいない。

 広間には多種多様な人が集まり、ごった返していた。一番奥に、彼女の柩が申し訳なさそうに置かれている。参列者たちは、まるで彼らが主役であるかのように喚いたり、叫んだりしていた。

 私は母の後ろについて、焼香を済ませた。広間から出る。結局、ユエと名乗った少女の顔を見ることは無かった。

 知人と話をしてくるという母と別れて中庭に入った。頭の中はひとつのことで満たされていた。彼女はどんな墓に入れられるのだろうか。あるいは、遺言か何かで、彼女が願っていた墓に入れるのだろうか。私はその墓がどんなものかはついぞ分からなかったけれども、知りたいと思った。

 中庭には小さな池があったが、何もいないようだった。緑色に濁ったそれは、百年も昔から一切変わらないかのように、ただそこにあった。見下ろす私の顔は、やはり無表情だった。

 不意に大きな音がして、私のそばの茂みが揺れ、中から小さな男の子が出てきた。その瞳は、彼女の鳶色と同じだった。

「おい、お前」

 彼女の優しげな声とは違い、その声には雄々しさがあった。

「聞こえてるんだろ、お前だよ」

 返事がないことに苛立ったのか、少年の声が険しくなる。

「何だ?」

 首だけそちらを向けて返すと、少年は僅かにひるんだようだが、ぐっと噛み締めるようにして、キッと睨んだ。

「お前、この前ネーチャンと会ってただろ。お前に聞きたいことがあるんだ」

 どうやらこの少年は、彼女の、ユエの弟のようだ。瞳だけでなく、面影もあるような気がする。

 首肯すると少年は私の前へと進み出た。体格からして、歳は二桁になるか否かというところだろうか。

 この少年が何を知りたいのか。興味があるような気がした。

 少年は少しの間もごもごと口を動かして、視線をあちらこちらへ動かしていたが、やがて腹をくくったらしく、ぐっと私を見上げて言った。

「ネーチャンの墓を作りたいんだ………。お前、ネーチャンから何か聞いてるんだろ? それを知りたいんだ」


 ユエの弟を名乗る少年に連れられて、私は中庭を後にした。少年は迷いなく裏口を出て、田が広がるあぜ道を行く。

 私は歩幅を合わせて隣に並びながら、この少年を観察していた。

 瞳の色は彼女と同じ鳶色。髪は短く刈り上げていて、小柄な体躯は小麦色に焼けている。儚げな印象の強かったユエとは瞳の色しか共通点が無いが、それでもやはり、彼女の弟であるということは疑いようのない事実のように思えた。

 気付くと、少年が横目に私を睨んでいた。

「名前」

 私が言うと、少年は虚をつかれたのか、へ、という間の抜けた声を出し、慌てて両手で口を覆った。

「君の、名は?」

 それは奇しくも、ユエにした最初で最後の質問と同じだった。

「………ヒノワ」

 しばらく私を睨んでいた少年が、ぼそっと、吐き捨てるように言った。そのまま鼻を鳴らしてそっぽを向く。

「オレはお前と馴れ合う気なんかないんだからな! 勘違いするんじゃねえぞ!?」

 随分乱暴なことを言う。名前を聞いただけなのに。

「………どうせお前も、変な名前だって思ったんだろ………」

 そっぽを向いたまま、ヒノワがつぶやく。それを気にしていたのだろうか。

「ヒカリ」

 それだけ言うと、怪訝な顔をしてヒノワが振り返る。

「俺の名前は、ヒカリ」

 ユエに言うことは無かった、私の名。人間の形をした何かに付けられた名。昔、ある人間のモノだった名。今は何の意味も持たない名。

 名乗ったのは、いつぶりだろうか。


 しばらくきょとんとしていたヒノワだったが、突然腹を抱えて笑いだした。

「アハハハ、ヒカリって、男なのに、ヒカリって、アハハハ!」

 随分お気に召したようだが、あいにく私の本名は確かにヒカリだった。

 昔はよくそれでからかわれたものだった。今ではそういうことも一切なくなってしまったが。当然のことだ。もうそんなことを言い合って、笑い合う友達はいないのだから。

 まだ笑い転げているヒノワを見ていると、勝手に手が動きだした。

 ツンツンと尖っている髪を乱暴に掻き撫でる私の手。

「うわぁー、何すんだよ!」

 騒ぐヒノワに乱暴に腕をはがされる。突然動き出した自分の腕を、私は見つめることしかできなかった。

 

 真夏の炎天下の中、二つの影法師があぜ道を行く。汗が肌を伝い、乾いた地面に吸い込まれては小さなシミを作る。

 蝉は鳴き止むことを知らず、小川のせせらぎすら聞こえなかった。

「なぁ、ヒカリ」

 警戒したように黙りこくっていた少年、ヒノワが唐突に口を開いた。

「お前、なんでそんなに、ムヒョージョーなんだ?」

 どう答えるべきか迷っているあいだに、二の句が継がれる。

「ネーチャンはもっと笑ってたし、よく泣いてたし、しょっちゅう怒ってたぞ。ヒカリはオレが何か言っても、ネーチャンの葬式の時も、全然表情が変わんねえよ」

 それは責めるような色を含んでいるように私には思えた。ユエの死を悲しまない私は、年端もいかない少年には奇異に映るのかも知れない。

 私は言葉をゆっくりと整理しながら紡いでいく。

「俺はどうやら、病気、らしい。

 昔は普通だった。だんだん、何かを感じることが、無くなってきた。嬉しい、楽しい、悲しい、悔しい、怒り、そんなのがどんどん無くなってった。

 そして表情も無くなった。涙も出なくなった」

 人間が人間たる所以は、どこにあるのだろうか。

 人間を人間たらしめている何かは、一体どこにあるのだろうか。

 少なくとも言えることは、私という「個」はとっくに崩壊して、残ったのは外側だけの欠陥品だったということだ。

 僅かに残った感情の残滓や、感情の「記憶」とともに無気力に過ごす日々。それを憂いることすらできなくて。

 結局のところ、私は、この道端に転がっている砂礫となんら変わりがないということだ。

 ヒノワはどういう反応を示すだろうか。この話を聞いた人の反応は二つに分かれる。

 ひとつは、私に一種の哀れみの視線とともに、慰めの言葉を投げかける者たち。

 ひとつは、私からできるだけ離れ、距離を取ろうとする者たち。

 前者も後者も、私にとってはただの風景でしかない。風景に風景以上の意味がないように、私はそこに何の感慨をも見出すことはなかった。

 ところが。

 ヒノワは不意に私に近寄ると、その小さな両手をグイと伸ばして、私の両頬を掴む。そのまま横に引っ張る。餅のように伸びる私の頬。そのまま色々な方向に私の頬を弄っていたヒノワが、唐突に笑いだす。

「アハハ、こうすりゃあ、ヒカリだって笑ってるぞ?」

 されるがままの私。きっと顔は酷いことになっているのだろう。ニヤニヤと笑っていたヒノワが手を離すころには、私の頬は真っ赤になっていた。

 私を見上げるヒノワは笑って言った。

「ヒカリの話はよく分かんねーけどさ。要するに気持ちが分かんねーんだろ?」

 再び伸びる手。不意に鼻をつままれる。

「オレだって自分の気持ちが分かんねー時くらいあるぞ? それくらいで勝った気になるんじゃねー」

「勝ったとか………、負けたとか………。そういう話じゃない」

 鼻をつままれたまま言い返すと、ヒノワは少し寂しそうに笑って、私を解放した。

「不思議っていうか、変っていうか、良くないよな[#「良くないよな」に傍点]。伝えたくても伝えられないってのは」

 そう呟いてみせた彼の横顔は、年には不釣合なほど大人びて見えた。


 田を吹き抜ける風が、より濃密なものになったのを感じてあたりを見回すと、鬱蒼と生い茂った竹林の中に入っていた。

 先を行くヒノワの足元ばかりを追いかけていたせいでどこまで来たのか分からない。

 振り返ると、茂る青竹が門のように私たちの通って来た畦道を切り取っていて、そこだけが白く輝いていた。

「ヒカリ、そろそろ教えてくれよ」

 視線を前に戻すと、意外なほど近くにヒノワが立っていた。

「ネーチャンに会ったとき、ヒカリは何かを聞いたんじゃないか? 墓のカタチとか、お供え物についてとか」

 問うてくるその瞳は真剣で、鳶色は鮮烈だった。

「俺は彼女と話をして、最後に彼女が墓について何かを言っていたような気もするんだが………。よく聞き取れなかったんだ」

 真実をありのままに伝える。

 私が彼女の墓について知らないのは、ヒノワが私に質問をしてきた時から分かっていたことだ。

 では何故ヒノワについてきたのか。

 分からない。

 彼女に会ってから、分からないことは増えた。ヒノワにあってから、それはさらに顕著になった。

 もう少しで何かが掴めるかもしれない。そう思った。

「え、知らないの?」

 ヒノワが唖然とする。

「そんなわけないだろ、だって………。ほ、ほらしっかり思い出してくれよ、ヒカリ!」

 必死な様子で私の腕を掴むヒノワだが、生憎揺さぶって出てくるような脳みそはしてない。第一、知らないものは知らない。

「大体、知らないのになんでオレについてきたんだよ! てっきりオレはヒカリが知ってるからついてきてるんだと………」

 がっかりした様子のヒノワだったが、ぐっと拳を握りこんでかぶりを振ると、決然として言った。

「知らないんじゃしょうがない。ネーチャンには悪いけど、オレの好きにさせてもらおう………。ヒカリ、手伝ってくれるか?」

 私は鳶色と向き合った。真っ直ぐな視線が私を射抜いて、不思議な温かみを持って私を蝕んだ。

 知らず知らずに、頷いていた。


 竹林の先にあったのは、この田舎にあってなお、稀に見るほどの清流だった。

 両岸は丈の高い青草に覆われ、銀の水面が夏の日差しを写している。水は熱気と対照的にどこまでも冷たく、川底をはっきりと透過させるほど透き通っていた。

 しばらくの間川沿いに歩いていたヒノワが、突然止まった。

「このへんでいいかな」

 そう呟くと、運動靴を脱ぎ捨てて袖をまくり、ザブザブと音を立てながら川に脚を踏み入れた。

 そこまで深くないのか、流れの中程まで行ったヒノワの短パンの裾を濡らすほどの水深しかないようだ。

 気付くと、ヒノワが私を振り返っていた。

「ヒカリも入ろうぜ。冷たくて気持ちいいぞ?」

「俺は、いい」

 川とヒノワは、一枚の絵のように完成されているような気がした。私は川辺の草むらに腰を下ろすと、ヒノワを見守ることにした。

「ふーん、涼しいのに」

 言いつつも、ヒノワは両手を水につけて川底をあさりだした。蝉の鳴き声と、ヒノワの手が水を切る音だけが響いていた。


 小一時間程もそうしていただろうか、不意にヒノワが動きを止めた。

「あった………。これなら………」

 真剣な様子でそう呟くと、腰を屈めて川底から岩を拾い上げた。

 彼の身長の半分はあるだろうか。楕円形で扁平な岩だった。ヒノワはそれを重そうに持ち上げると、細腕を震わせながらゆっくりとこちらへ歩いてきた。流れに脚をとられ、何度もふらつく。

 ヒノワの足が川岸の土を踏んだ。

「!」

 川岸を捉えたかのように思えたその足が宙を掻く。

 川へ落ちそうになるヒノワ。

 それでも岩を離そうとしない。

 水を叩く大きな音。

 背に大きな衝撃。

「………え?」

 ヒノワの驚いた声。

 私の体は、彼と石を支えて、川に突っ込んでいた。

「ちょ、何やってんだよヒカリ!」

 何してるのか?

 こっちが聞きたい。

 でも、川の水は彼の言うように冷たくて。

 背から伝わる痛みは、確かに生きていた。


「結局ヒカリもずぶ濡れじゃん」

 私に岩を預けて丘を行くヒノワはどことなく嬉しそうだった。

 ポタポタと水滴を撒き散らしながら炎天下の岩がちな丘を登る。

「この岩で、何をするんだ?」

 ここに来るまでに摘んだ色とりどりの花々を抱えたヒノワが振り返る。

「それは、ネーチャンの墓標。刻む言葉、考えといてくれよな」

 墓標。言葉。

「俺が、か?」

 軽く笑うと、ヒノワは花束を抱えたままくるりとひと回りしてみせた。

「そ、ヒカリが。

 それがネーチャンのイシだから」

 申し訳なさそうに付け足し笑い。

「オレじゃ、良い言葉が思いつきそうにないからな」

「だが………」

 私は、感情の無い私は、ユエのために言葉を送れるのだろうか。それがユエの望むことなのだろうか。

「あー、もう。うじうじしてんじゃねー」

 額に浮き出た玉のような汗をシャツの袖で拭いながら、少年は私に先んじて丘を登る。

 私はその後ろ姿に、去っていったユエの黒い影が重なるような気がした。


 しばらくすると丘は草原へと姿を変えた。田舎町を見下ろす高台に位置する、私の膝ほどの背丈の草が繁茂する場所だった。

 ヒノワはその中央を迷いなく進み、私もそれに追随する。しばらくの間、二人とも無言だった。

 やがて、町を見下ろす崖の上に出た。そこからは、ユエの葬儀の場や、私の仮住まい、そして私とユエが出会った岩山が見渡せた。

「ここさ、ネーチャンがよく一人で来てたんだ。ここからは町が全部見渡せるだろ。多分、ヒカリを見つけたのも、ここからだよ」

 ヒノワがユエの一人の時間について何故知っているのか。そもそも、何故ユエと私の関係を知ることができたのか。

 気になったが、問うことはついにできなかった。

 ヒノワはどこからか尖った石を見つけてきて、それを私に手渡す。

「彫ってくれ、ヒカリ。ユエネーチャンへの別れの言葉を」

 鳶色の瞳が、またあの不思議な光を湛えていた。

 私の手は震えていて、それでもヒノワから石を受け取って、岩にそれを打ちつけた。

 激しい音を立てながら、ほんの少しずつ大きな岩が欠けていく。お世辞にも綺麗とは言えない字だったが、その様子を上から見守るヒノワの瞳から溢れ出た、あの、不思議な光がその一文字一文字に溜まっていくようだった。

 元々どんな言葉を送ろうと考えていたかなど、問題では無かった。石を打つ甲高い音とともにそれは脳裏に飛来し、灼熱の印象とともに私の手がそれを表現した。


「これで、いいの?」

 気付くと、私は手を止めていた。上から問うヒノワの声は、僅かに震えているようだった。私は自分の打った文字を改めて見つめ、そして。

「これで、いい」

 言い切った。

『月、ここに落ち、再び輝くその時まで、安らかに眠れ』

 ユエは、ここにいる。そう思った。


 二人で墓標を設置して、周りに小石を積み上げ、花束を置く。

 すべてが終わった時、私はユエとあった時と同じように、地面に寝転んだ。日が暮れかけの丘は、あの時よりも暖かかった。

 しばらく、ヒノワが最後の仕上げをしている音が響いていたが、それもやんで、音がだんだんと無くなっていった。闇に吸い込まれるかのように。

 ふと顔を上げると、ヒノワが私を見つめていた。

 真剣な眼差しのヒノワは、ふっと笑うと、私と夕日のあいだに割って入った。

 私の目に、ヒノワの影が焼き付く。それはさながら、あの、別れ際のユエと同じように。

「ヒノワ?」

 眩しくて目を細める。ヒノワの影の輪郭がぼんやりとしてきて、ゆらゆらと揺らめいていた。

 夕日の日差しが目を焦がす。ヒノワの影が薄くなる。

 もう目を開けていられない。瞳を閉じる瞬間、刹那に残った光は、鳶色だった。

「『ありがとう』」

 その声は、彼女の声と重なって聞こえた。


 夕日が沈むまで、私は身動きがとれなかった。鳶色の光が私を包んでいた。日が暮れた時、そこにヒノワはいなかった。


 後日、母や祖母に聞いた話によると、ユエにヒノワという弟は確かにいた。

 が、ヒノワは幼いころに亡くなっていた。

 あの少年は誰だったのか。分からない。


 彼女の家の、中庭の池を覗いている。前は隠れていたのか、あるいはあの後入れられたのか。二匹の黒メダカが涼しげに泳いでいた。

 今日はあの丘を登って、彼女と、彼と、一晩星を眺めていようか。そんなことを考えながら、二匹のメダカが去った後の、静かな水面を見ていた。

 鏡のような水面には、引きつったような笑顔をしながら、不器用に涙を流す私が、写っていた。


いかがでしたでしょうか。


楽しんでいただけたのであれば、これ以上の至福はございません。


そうでなければ、申し訳ありませんでした。


次回作にも、是非目をかけていただきたく思います。


それでは。


雨垂 穿

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