パリピ赤ずきんちゃんと陰キャ狼くん
あるところに、それはそれはかわいい女の子がいました。
その女の子は赤ずきんちゃんと呼ばれる、艶やかな赤髪の女子高生です。
そんな赤ずきんちゃんには、臆病でクソ真面目な陰キャの友達がいました。
名前は狼くん。
もちろん本名ではありません。そんな名前を付ける親がいたら、たぶんその子は人生で一度は親と真剣な話し合いをすることになります。
彼は狼の獣人でした。頭の上にはふさふさとした狼耳が生えていて、感情が動くたびにぴくぴくと揺れるのですが、本人はそれを気にしているらしく、人前ではなるべく目立たないようにしていました。
もっとも、身長は高いし顔も悪くないし、耳も尻尾も目立つので、目立たないようにしている努力はだいたい失敗しているのですが。
ただし本人は気付いていません。なぜなら陰キャだからです。
陰キャは自分の顔面偏差値に鈍感で、悲観的な生き物なのです。
「また変なこと考えてるでしょ」
昼休みの教室で、赤ずきんちゃん――赤城あかねは机に頬杖をつきながら言いました。
窓際の席で本を読んでいた狼くんこと大神介は、びくりと肩を震わせます。
「べ、別に」
「絶対考えてた」
「考えてない」
「耳が動いてる」
「……」
「ふふん、ほらねー」
狼くんは黙りました。反論できないからです。
狼耳は正直でした。
対する赤ずきんちゃんは楽しそうに笑います。
彼女は誰とでも仲良くなれるタイプでした。
クラスの中心にいて、友達が多くて、放課後になればカラオケだのショッピングだのと予定が埋まり、SNSには常に誰かとの写真が載っている。
いわゆる陽キャ。
ギャル。
コミュ力の化け物。
それが赤城あかねです。
そして大神介は正反対でした。
人と話すのが苦手で、昼休みは読書。
休日は家、SNSの更新は三か月に一回。
クラスメイトの半分以上とまともに話したことがない。
見事な陰キャでした。
そんな二人がなぜ友達なのか。
それはクラスメイト全員が不思議に思っていることでしたし、実を言うと本人たちもよく分かっていませんでした。
きっかけは一年生の頃だった気がします。
たぶん席が近かった。
たぶん何かを拾った。
たぶん話しかけた。
その程度で、劇的な出会いなどありません。
運命的な出来事もありません。
ただ気付けば話すようになっていて、気付けば一緒に帰ることが増えていて、気付けば友達になっていました。
人間関係なんて案外そんなものです。
「狼くん、今日帰りヒマ?」
昼休みの終わりが近付いて、教室のざわめきが少しずつ午後の授業へ向かうだるさを帯び始めたころ、赤ずきんちゃん――赤城あかねは、何の前触れもなくそんなことを言いました。
頬杖をついたまま、きらきらした目で狼くんを見つめています。
ちなみに本人に見つめている自覚はありません。ただ話しかけているだけです。
ただし赤ずきんちゃんは顔がいいので、ただ話しかけているだけでも見つめているように見えるし、ただ笑っているだけでも相手の心臓に悪いのです。
こういう人間は本当に罪深いですね。
「……特に予定はないけど」
「じゃあ決まりね」
「何が?」
「駅前にさ、新しいクレープ屋できたじゃん?ウチ、今日そこ行きたいんだよね。で、ひとりで行くのもなんか寂しいじゃん? だから狼くん付き合って」
「え、いや、僕じゃなくても赤城さんなら一緒に行く人いくらでもいるでしょ」
「いるけど、今日は狼くんがいいの。てか狼くんってさ、なんで毎回そうやって『僕じゃなくても』みたいなこと言うわけ?ウチが狼くん誘ってんだから、狼くんがいいに決まってんじゃん。そこ疑うの、普通にウチに失礼じゃない?」
赤ずきんちゃんはさらっと言いました。
狼くんは黙りました。正論だったからです。
それに赤ずきんちゃんはこういうところがあります。軽そうに見えて、言葉の芯は意外とまっすぐなのです。
誰とでも笑って話すし、テンションは高いし、教室の中心で騒いでいることも多いのですが、誰かを雑に扱うことはしません。
だからこそ、彼女の周りには自然と人が集まるのでしょう。
「……分かった。行く」
「よっしゃ。じゃ、放課後ね。逃げたら泣くから」
「逃げないよ」
「ほんと? 狼くん、すぐ群れから離れようとするじゃん」
「僕は野生動物じゃない」
「でも狼じゃん」
「狼の獣人なだけ」
「ほぼ狼じゃん」
「違う」
「耳かわいいし」
「関係ない」
狼くんの耳がぴくりと揺れました。
赤ずきんちゃんはそれを見逃しません。
「照れた」
「照れてない」
「照れたね」
「照れてない」
「耳が言ってる」
「耳を証人にしないで」
そんな会話をしている二人を、周囲のクラスメイトたちはいつものことのように見ていました。
最初のころは「あの赤城さんが大神と?」「なんで?」「どんな関係?」と興味津々だったのですが、一年以上もこんな調子なので、今ではだいたいの人間が「ああ、またやってる」と流すようになっています。
もっとも、流しているだけで、気になっていないわけではありません。
特に恋愛方面に敏感な女子たちは二人を見るたびに内心でじたばたしていました。どう見ても仲がいいからです。
それも、ただの友達というには少し距離が近い。
けれど付き合っているというには本人たちの空気があまりにも無自覚。
正確に言えば無自覚なのは赤ずきんちゃんだけで、狼くんはだいぶ前から自覚していました。
彼は赤城あかねが好きでした。
いつからか、と聞かれると困ります。
初めて話した日ではありません。たぶん、席が近くて、彼女が落とした消しゴムを拾ったときでもありません。その翌日に、昨日のお礼だと言ってコンビニのチョコを机に置かれたときでもありません。昼休みに一人で本を読んでいたら、急に前の席に座って「それ何読んでんの?」と聞かれたときでもありません。
たぶん、その全部です。
小さな出来事が積み重なって、気付けばどうしようもなくなっていました。
明るくて、うるさくて、距離が近くて、少し強引で、でも妙なところで優しくて、誰かの孤独を見つけるのが上手い女の子。
狼くんはそんな赤ずきんちゃんが好きでした。
けれど、告白する勇気はありませんでした。
だって陰キャだからです。
陰キャにとって告白とはラスボス戦でもあり、公開処刑でもあり、全校集会で作文を読まされるようなものでもあります。
成功すれば天国、失敗すれば地獄。
しかも相手は赤城あかね。
クラスの中心にいるギャルで、かわいくて、友達が多くて、誰からも好かれていて、狼くんとは住む世界が違うように見える女の子です。
だから狼くんは思っていました。
友達でいられるなら、それでいい。
隣を歩けるだけで十分だ。
笑いかけてもらえるだけで幸せだ。
そんなふうに、自分に言い聞かせていました。
ただし、それは狼くんが勝手に決めた我慢であって、赤ずきんちゃんが知っているわけではありません。
赤ずきんちゃんは今日も今日とて無防備でした。
「狼くん、授業終わったら教室出る前に声かけてね。ウチたぶん友達に捕まるから。捕まってたら救出して」
「救出って何」
「いや、今日カラオケ誘われそうなんだよね。でもウチはクレープの口になってるわけ。だから狼くんが『赤城さん、行くよ』って言ってくれたら、ウチは『ごめーん、今日は狼くんと約束あるから』って言って抜ける」
「それ、僕が悪者にならない?」
「ならないって。むしろ『大神くん、あかね連れてくんだ』ってなるだけ」
「それが嫌なんだけど」
「なんで?ウチと約束あるの恥ずい?」
「恥ずかしいとかじゃなくて……」
「じゃあいいじゃん」
よくありません。
よくありませんが、赤ずきんちゃんはもう決定事項の顔をしています。こうなった彼女は強いです。強いというか、押し切ります。
陽キャの行動力をなめてはいけません。
そして放課後。 予想通り、赤ずきんちゃんは友達に捕まりました。
「あかねー、今日カラオケ行こ!」
「行きたいけど、今日ちょい予定あるんだよねー」
「えー、誰と?」
「狼くん」
教室の空気が一瞬止まりました。
狼くんはまだ席に座っていました。帰り支度をしているふりをして、実は声をかけるタイミングを完全に逃していたのです。
そんな彼の耳が、名前を出された瞬間にぴんと立ちました。
「狼くんとクレープ食べに行く約束してるから、今日はパスで」
「え、大神くんと?」
「そうそう。ね、狼くん?」
赤ずきんちゃんが振り返ります。
逃げ場はありません。クラスメイトの視線が集まります。
狼くんはこの瞬間、地面に穴が開いてほしいと本気で思いました。
できればその穴の底には静かな図書館があって、誰も自分のことを知らず、耳も尻尾も見られず、穏やかに本を読める空間であってほしいとすら思いました。
しかし現実にそんな都合の良い穴は開きません。
「……うん。約束してる」
狼くんは小さく答えました。
それだけなのに、教室の一部から「おー」とか「へー」とか、妙に含みのある声が上がります。赤ずきんちゃんはまったく気にしていません。
「じゃ、そういうことで! また明日ねー」
彼女はひらひらと手を振って狼くんのところまでやって来ると、当然のように彼の袖をつかみました。
「行こ、狼くん」
「袖をつかまなくても歩ける」
「いいじゃん、迷子防止」
「迷子になるのはたぶん僕じゃなくて赤城さんのほうだと思う」
「ウチ、駅前なら庭だから」
「庭で迷子になる人もいるみたいだけど?」
「狼くん、たまに辛辣だよね」
そう言いながら、赤ずきんちゃんは楽しそうに笑いました。
放課後の廊下は人でいっぱいでした。
部活へ向かう生徒、友達と遊びに行く生徒、まっすぐ帰る生徒。
そんな中で、赤髪のギャルと狼耳の陰キャ男子はやはり目立ちます。
特に赤ずきんちゃんはどこにいても目立つ人間です。太陽みたいな明るさがあって、本人が黙っていても周囲の視線を引き寄せてしまう。
狼くんはその隣で、なるべく小さくなろうとしていました。
でも無理です。身長が高いからです。ついでに狼耳と尻尾があるからです。
本人は目立ちたくないのに、素材が目立つようにできているのです。世の中は残酷ですね。
「狼くんさ」
「なに」
「今、絶対『早く帰りたい』って思ってるでしょ」
「思ってない」
「ほんと?」
「……人が多いなとは思ってる」
「それは分かる。放課後の廊下、人口密度えぐいよね。てか狼くん、人混み苦手だもんね。耳いいからうるさい?」
「少し」
「じゃ、こっち行こ」
赤ずきんちゃんは迷いなく人の少ない階段のほうへ向かいました。
狼くんは少し驚きました。
彼女はいつもにぎやかな場所にいるから静かな場所を選ぶのが苦手だと思われがちですが、実際はそうではありません。相手が疲れているとき、相手が無理をしているとき、相手が本当はどうしたいのか、そういう細かいことに意外と気付きます。
そして気付いたからといって大げさに気遣うわけではなく、今みたいに自然に道を変えるのです。
そういうところが好きでした。好きすぎて、困ります。
「赤城さんって、そういうところあるよね」
「そういうところって?」
「いや……周りをよく見てるなって」
「え、急に褒めるじゃん。なに、ウチのこと好き?」
赤ずきんちゃんは軽い調子で言いました。
狼くんは足を止めかけました。心臓に悪い冗談です。
「……そういうの、誰にでも言うの?」
「んー、言わないかも」
「言わないんだ」
「だって狼くん、反応おもろいし。耳ぴこぴこするし、すぐ顔赤くなるし、でも怒んないし」
「それは……怒るほどのことじゃないから」
「優しいじゃんね」
「普通だよ」
「普通じゃないって。狼くんってさ、自分のこと地味でつまんないみたいに思ってるっぽいけど、ウチは全然そう思わないよ。むしろ一緒にいて楽だし、話ちゃんと聞いてくれるし、変に盛り上げようとしないから落ち着くし、たまにぼそっと言うツッコミがおもろいし、あと耳かわいいし」
「最後いらない」
「いる。大事」
「大事じゃない」
「大事だって。狼くんの耳、国宝にしたほうがいい」
「やめて」
赤ずきんちゃんはけらけら笑います。
狼くんは顔を背けます。でも嫌ではありませんでした。むしろ、こういう会話をしている時間が一番好きでした。
駅前のクレープ屋は開店したばかりということもあって少し並んでいました。
白い外壁に木目調の看板、店先には甘い匂いが漂っていて、女子高生やカップルが楽しそうにメニューを眺めています。
赤ずきんちゃんは列に並ぶなり、スマホでメニュー表を撮って、真剣な顔で悩み始めました。
「やばい。全部おいしそう。ウチ、今人生の岐路に立ってる」
「クレープで?」
「クレープをなめないで。こういうのは一期一会だから。今日選ばなかった味とは、一生分かり合えないかもしれないんだよ」
「また来ればいいんじゃない?」
「……天才?」
「普通だよ」
「狼くん、たまに人生二周目みたいなこと言うよね」
「クレープ屋にまた来ればいいって言っただけで?」
赤ずきんちゃんは真剣に悩んだ末、いちごチョコ生クリームを選びました。王道です。ギャルは流行に敏感ですが、王道を外さない強さも持っています。
狼くんは抹茶あずきにしました。渋いですね。陰キャは抹茶を選びがちです。偏見ですが。
二人はクレープを受け取ると、駅前の広場から少し離れた川沿いの道を歩きました。
夕方の空は薄いオレンジ色に染まり、川面には光が揺れていました。学校帰りの生徒たちの声は遠く、車の音も少しだけ丸く聞こえます。
人の多い駅前から数分歩いただけなのに、そこは不思議と静かでした。
「うま」
赤ずきんちゃんはクレープをひと口食べるなり、幸せそうに目を細めました。
「狼くんのもおいしい?」
「うん。おいしい」
「ひと口ちょうだい」
「え」
「え、だめ?」
「いや、だめじゃないけど……」
「じゃ、ちょうだい」
赤ずきんちゃんは当然のように顔を近付けました。
狼くんは固まりました。
ひと口ちょうだい。
ただそれだけです。友達同士なら別に珍しいことではありません。女子同士なら特に普通です。男子と女子でも、仲が良ければないことはないでしょう。
赤ずきんちゃんにとっては、その程度の行為でした。
でも狼くんにとっては違います。
好きな女の子が、自分の食べているクレープに顔を近付けている。
近い、近すぎる。
甘い匂いがする。
赤い髪が揺れる。
まつげが長い、かわいい。
……無理。
「……狼くん?」
「え、あ、うん」
狼くんはぎこちなくクレープを差し出しました。
赤ずきんちゃんはぱくりと食べます。
「ん、抹茶うま。大人の味じゃん」
「赤城さんのも……」
「食べる?」
「いや、僕は」
「遠慮しないの。はい」
今度は赤ずきんちゃんが自分のクレープを差し出してきました。
狼くんはさらに固まります。
これを食べたら、さっき赤ずきんちゃんが食べたクレープを自分も食べることになります。
いや、クレープです。
ただのクレープです。
間接的にどうとか、そういうことを考えるほうが意識しすぎです。
でも、意識するなというほうが無理でした。
だって好きだから。
狼くんは内心で自分を殴りながら、ほんの少しだけクレープを食べました。
「……おいしい」
「でしょ? ウチの選択天才すぎー」
「うん」
「てか狼くん、顔赤くない?」
「夕日だから」
「夕日のせいにするには耳まで赤いけど」
「夕日」
「耳、夕日に弱いんだ?」
「そう」
「なにそれ、かわい」
赤ずきんちゃんは笑います。
狼くんは笑えません。彼は限界に近付いていました。
ただし赤ずきんちゃんは気付きません。
気付かないまま、彼の隣を歩き、袖をつかみ、笑いかけ、当然のように距離を詰めるのです。彼女にとって狼くんは特別に気を許している友達でした。
だから遠慮しません。だから無防備です。だから狼くんはいつも心の中で大変なことになっています。
河川敷のベンチに座るころには、夕日はさらに傾いていました。
赤ずきんちゃんはクレープを食べ終えると、満足そうに息を吐きます。
「いやー、よかった。これはリピあり。次はバナナチョコいくか、期間限定のキャラメルナッツいくか迷うね」
「また来るんだ」
「来るでしょ。狼くんも来るよね?」
「……僕も?」
「当たり前じゃん。今日一緒に来たんだから、次も一緒に来たほうがよくない? ほら、狼くん、甘いもの嫌いじゃないし。あとウチ、狼くんといると食べるペース合わせなくていいから楽なんだよね。友達と行くと写真撮ったり動画撮ったりで忙しいけど、狼くんはそういうの急かさないし」
「赤城さんは、そういうの好きなんじゃないの?」
「好きだよ。でも、ずっとそれだけだと疲れるじゃん。ウチだって毎秒パリピしてるわけじゃないし。たまには静かにクレープ食べたい日もあるわけ」
「……そうなんだ」
「そうそう。だから狼くんは貴重なんだよ。ウチの静かにクレープ食べたい日に付き合ってくれる係」
「係にされた」
「名誉職だよ?」
「給料は?」
「ウチの笑顔」
「高いのか安いのか分からない」
「高いでしょ。ウチかわいいし」
赤ずきんちゃんは胸を張りました。
狼くんは否定できませんでした。実際かわいいからです。
自信満々に自分をかわいいと言えるところも、たぶん彼女の魅力でした。
嫌味にならないのは彼女が他人のかわいさも同じくらい素直に認めるからです。
自分もかわいい。友達もかわいい。街で見かけた知らない子の髪型もかわいい。コンビニの新作スイーツもかわいい。狼くんの耳もかわいい。彼女の世界にはかわいいものが多いのです。
「狼くんもさ、もっと自分のことイケてるって思えばいいのに」
「無理」
「なんで即答?」
「事実じゃないから」
「いや、事実だし。身長高いし、顔いいし、真面目だし、優しいし、耳かわいいし、尻尾もふわふわだし、あと声低めなのも普通にいいと思うけど」
「……やめて」
「なんで?」
「恥ずかしい」
「褒めてんのに」
「褒められ慣れてない」
「じゃあ慣れよ。ウチが褒めるから」
「それは困る」
「なんでよ」
赤ずきんちゃんは不満そうに頬を膨らませました。その仕草がまたかわいい。
狼くんは目を逸らします。
すると赤ずきんちゃんは、少しだけ首を傾げました。
「狼くんってさ、ウチに褒められるの嫌なの?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、なんで困るの?」
「……」
「ねえ」
「……近いから」
「え?」
「赤城さんは、距離が近いから」
それは狼くんにしては珍しく、少しだけ踏み込んだ言葉でした。
赤ずきんちゃんは瞬きをしました。
「距離って、物理?」
「物理も、そうじゃないのも」
「そうじゃないのって?」
「……」
狼くんは答えませんでした。答えられませんでした。
これ以上言えば、何かが変わってしまう気がしたからです。
いえ、本当は変えたいのかもしれません。でも、変えてしまうのが怖いのです。
今の関係は心地いい。友達として隣にいられる。赤ずきんちゃんは笑ってくれる。もし告白して、失敗したら、その全部を失うかもしれない。そう考えると、喉の奥が詰まって言葉が出なくなります。
赤ずきんちゃんはしばらく狼くんを見ていましたが、やがてふっと笑いました。
「そっか。じゃあ、気をつける」
「……え?」
「ウチ、たぶん距離感バグってるとこあるし。狼くんが嫌なら、ちゃんと言って。ウチ、嫌がってるのにぐいぐい行くのは違うと思うし」
狼くんは言葉に詰まりました。
嫌なわけではありません。むしろ逆です。嫌ではないから困っているのです。
近付かれると嬉しい。
でも苦しい、期待してしまう。
でも期待してはいけないと思う。
そんな自分勝手な感情を、どう説明すればいいのでしょうか。
「嫌じゃない」
狼くんは小さく言いました。
「嫌じゃ、ないんだ」
赤ずきんちゃんは目を丸くしました。
それから、少しだけ笑います。
「じゃあ、いいじゃん」
「よくない」
「難しいなあ、狼くんは」
「ごめん」
「謝んなくていいって。ウチが勝手に近いだけだし。でもさ、狼くんが嫌じゃないなら、ウチはたぶん今まで通りにしちゃうよ。だって、狼くんといるの楽だし、楽しいし、気を抜けるし。ウチ、狼くんの前だとあんま頑張らなくていいんだよね」
その言葉は、狼くんの胸に深く刺さりました。
嬉しい、苦しい。
どうしようもなく嬉しくて、同じくらい苦しい。
赤ずきんちゃんにとって自分は特別なのかもしれないと、そう思ってしまう。
けれどその特別が恋愛かどうかは分からない。
友達として大切なのかもしれない。安心できる相手なだけかもしれない。そこに踏み込む勇気が狼くんにはありませんでした。
その後も二人は、何でもない話をしました。
次のテストが面倒だとか、体育の持久走が嫌だとか、クラスの男子がまた変な動画を撮って先生に怒られていたとか、赤ずきんちゃんの友達が文化祭の打ち上げを企画しているとか、狼くんが最近読んでいる小説が意外と面白いとか、そんな本当にどうでもいい話です。
けれど、どうでもいい話を続けられる相手というのは、案外貴重です。
特別な話題がなくても一緒にいられる。
沈黙しても気まずくない。
隣にいるだけで落ち着く。
赤ずきんちゃんはその心地よさに名前を付けていませんでした。
狼くんはもう名前を知っていました。
それだけの違いでした。
それから数日後。
事件というほどではありませんが、二人の関係に少しだけ波が立つ出来事がありました。赤ずきんちゃんが告白されたのです。
相手は同じ学年の男子でした。
サッカー部で、明るくて、背が高くて、爽やかで、友達も多い。
つまり、赤ずきんちゃんと同じ世界の人間に見える男子です。
教室でもその噂はすぐに広まりました。 そして狼くんの耳にも届きました。
「赤城ちゃん、告白されたらしいよ」
「相手、三組の人でしょ?普通にイケメンじゃん」
「付き合うのかな」
「似合いそうだよね」
そんな声を聞いた瞬間、狼くんの胸は冷たくなりました。
「似合いそう」その言葉が、ひどく正しいもののように聞こえたのです。
赤ずきんちゃんには、明るくて、友達が多くて、彼女を人前で堂々と隣に立たせられる人が似合う。
放課後に人の視線を気にせず歩ける人。
カラオケにも行ける人。
イベントにも乗れる人。
写真を撮られても笑える人。
彼女の世界に自然に入っていける人。
それは自分ではないと、そう思いました。
その日の放課後、狼くんは赤ずきんちゃんを避けようとしました。
避けようとした、というより、声をかけられる前に帰ろうとしました。卑怯ですね。でも陰キャは追い詰められると逃げるのです。逃げ足は早いですよ。狼ですから。
しかし、赤ずきんちゃんはもっと早かった。
「狼くん、待って」
昇降口で呼び止められて、狼くんは足を止めました。
「……なに?」
「なに、じゃないし。今日、なんか避けてない?」
「避けてない」
「避けてるし。ウチ、そういうの分かるよ」
「……」
「なんかした?距離近すぎた?それともこの前のクレープひと口ちょうだいがダメだった?あれ嫌だったならごめん。ウチ普通にやっちゃったけど、よく考えたら人によっては嫌かもって後から思って――」
「違う!」
狼くんは思わず遮りました。
赤ずきんちゃんが目を見開きます。
狼くんは自分の声が少し強くなったことに気付いて、すぐに視線を落としました。
「違う。赤城さんは悪くない」
「じゃあ、なに?」
「……告白されたって聞いた」
「あー」
赤ずきんちゃんは納得したような声を出しました。
それがまた、狼くんには少し痛かった。
「聞いたんだ」
「うん」
「断ったよ」
「……え?」
「だから、断ったって。ウチ、付き合う気ないし」
あまりにもあっさり言うので、狼くんは一瞬理解できませんでした。
「なんで?」
「なんでって、好きじゃないから」
「でも、かっこいいって」
「かっこいいとは思うよ。普通にいい人だし。でも、かっこいいから付き合うってわけじゃなくない? ウチ、別に恋人をアクセ感覚で選びたいわけじゃないし」
「……そう」
「なに、その反応。もしかして狼くん、ウチのことめちゃくちゃ軽い女だと思ってた?」
「思ってない」
「ほんと?」
「思ってないよ。赤城さんは、そういうことを雑にする人じゃない」
赤ずきんちゃんはきょとんとして、それから少し照れたように笑いました。
「……そっか。狼くん、そういうとこちゃんと分かってくれてるんだ」
「分かってるつもり」
「じゃあさ、なんで避けたの?」
狼くんは答えられませんでした。
自分の醜さを知られたくなかったのです。
嫉妬した、なんて言えません。
告白されたと聞いて勝手に落ち込んだ、なんて言えません。
似合いそうだと思って、自分が惨めになった、なんて言えるわけがありません。
赤ずきんちゃんはそんな狼くんをじっと見ました。
「狼くんってさ、たまに勝手に遠く行こうとするよね」
「……」
「ウチが何も言ってないのに、勝手に『自分じゃない』みたいな顔する。そういうのちょっとムカつく」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない。ウチ、狼くんに勝手にいなくなられるの嫌なんだけど」
赤ずきんちゃんの声は、いつもより少しだけ真面目でした。
「狼くんと一緒にいるの好きだよ。カラオケで騒ぐのも楽しいけど、狼くんと帰り道にどうでもいい話するのも好き。クレープ食べるのも、本の話聞くのも、狼くんがたまに変なタイミングで真面目なこと言うのも、全部好き。だから、勝手に『ウチには他の人が似合う』みたいな顔して離れようとしないで。ウチが誰と一緒にいたいかは、ウチが決めるから」
狼くんは何も言えませんでした。
言われたことが、全部当たっていたからです。
赤ずきんちゃんは強い。
明るくて、少し騒がしくて、言葉は軽いのに、こういうときだけまっすぐ核心を突いてきます。
「……ごめん」
「だから謝んなくていいって。次やったら耳もふるけど」
「それはやめて」
「じゃあ、やめないで」
「何を?」
「ウチと友達でいること」
赤ずきんちゃんはそう言って、いつものように笑いました。
狼くんはまぶしいその笑顔を見て、胸が苦しくなりました。
「友達」
その言葉が嬉しくて、つらかった。
けれど、その日はまだ、何も言えませんでした。
季節は少しずつ冬へ向かいました。
朝の空気が冷たくなり、校舎の窓に白い息が映るようになり、赤ずきんちゃんの制服にもふわふわした白いマフラーが加わりました。
綺麗な赤い髪に白いマフラー。
まるで本当に童話の主人公みたいだと、狼くんは密かに思いました。
本人に言ったら「え、やっぱウチかわいい?」と返されるに決まっているので言いませんでしたが。
そのころには、二人の関係は以前より少しだけ近くなっていました。
赤ずきんちゃんは、狼くんが勝手に遠ざかろうとするとすぐに捕まえるようになりました。
狼くんは、以前より少しだけ自分の気持ちを隠すのが下手になりました。
周囲のクラスメイトたちは、もうほとんど諦めていました。
「早く付き合え」と、誰もが思っていました。
本人たち以外は。
いえ、正確には狼くんは分かっていました。問題は赤ずきんちゃんです。
彼女は狼くんのことが好きでした。
ただし、その好きが恋なのか友達としての好きなのか、自分でもよく分かっていませんでした。なぜなら赤ずきんちゃんにとって、狼くんといる時間はあまりにも自然だったからです。
好きな人の前で緊張する、胸が高鳴る、目が合うだけでどうしようもなくなる。
そういう分かりやすい恋のイメージとは少し違いました。
狼くんといると、落ち着く。
無理に明るくしなくていい。
黙っていても平気。
でも、いないと寂しい。
他の女の子と話していると少し気になる。
自分以外が狼くんの耳をかわいいと言っていたら、なんとなく面白くない。
その感情に、赤ずきんちゃんはまだ名前を付けていませんでした。
そして十二月の放課後の教室。
文化祭も体育祭も終わり、テスト前の空気が少しずつ学校全体に漂い始めていたころ、赤ずきんちゃんは狼くんの席の前に座っていました。
教室にはまだ何人か生徒が残っていましたが、部活や塾へ向かう人が多く、少しずつ静かになっていきます。
「狼くん、今日さ、勉強教えて」
「赤城さん、別に成績悪くないでしょ」
「悪くはないけど、数学が普通にだるい。あと狼くんに教えてもらうと分かりやすい」
「先生に聞いたほうがいいと思う」
「先生に聞くと緊張するじゃん」
「赤城さんが?」
「するよ。ウチだって先生の前では猫かぶるし」
「……猫」
「狼の前で猫かぶる赤ずきんちゃん、普通に情報量多くない?」
「自分で言うんだ」
結局、二人は教室に残って勉強することになりました。
赤ずきんちゃんは見た目に反して勉強をまったくしないタイプではありません。むしろ要領は良いほうです。
ただ、分からない問題に当たるとすぐに飽きます。
狼くんはその逆で、一度分からないところがあると納得するまで考えるタイプでした。だから相性は悪くありませんでした。
「ここは、先に式を整理してから代入したほうがいい」
「待って、狼くん、今の説明もう一回。ウチの脳が一瞬コンビニ行った」
「脳はコンビニに行かない」
「行くよ。今たぶん肉まん買ってる」
「帰ってきてもらって」
「はーい」
狼くんは丁寧に説明しました。
赤ずきんちゃんは真剣に聞きました。
外は少しずつ暗くなっていきました。教室の窓には二人の姿が映っています。
赤髪のギャルと、狼耳の陰キャ男子。並んで机に向かうその姿は、やはり妙にしっくりきていました。
やがて最後の問題を解き終えた赤ずきんちゃんは机に突っ伏しました。
「終わったー。ウチえらい、世界一えらい!」
「お疲れさま」
「狼くんもえらい、教え方うますぎ。将来先生になれるよ」
「人前で話すの苦手だから無理」
「じゃあウチ専属の先生で」
「それ、職業として成立する?」
「するする。給料はウチの笑顔」
「またそれ?」
「高級報酬じゃん」
赤ずきんちゃんは笑いながら顔を上げました。
そのとき、教室にはもう二人しか残っていませんでした。
静かな放課後。
廊下の遠くから、誰かの笑い声が少しだけ聞こえます。窓の外は薄暗く、教室の蛍光灯だけが白く光っていました。
赤ずきんちゃんは、ふと狼くんの横顔を見ました。
真面目な顔、伏せたまつげ。
少し長めの前髪に、ぴんと立った狼耳。
いつもと同じはずなのに、なぜかその日は妙に意識してしまいました。
「……狼くんってさ」
「なに?」
「ウチといて、楽しい?」
自分でも変な質問だと思いました。
狼くんも少し驚いたように目を上げます。
「……楽しいよ」
「ほんと?」
「うん」
「ウチ、うるさくない?」
「うるさいときはある」
「そこはうるさくないって言ってよ」
「でも、嫌じゃない」
狼くんは静かに言いました。
「赤城さんが話してると、周りが明るくなるから」
赤ずきんちゃんは黙りました。
今度は彼女が顔を赤くする番でした。
「……狼くん、そういうの急に言うのずるくない?」
「え?」
「いや、なんでもない」
赤ずきんちゃんは視線を逸らしました。
心臓が少し変な動きをしていました。
おかしい。狼くんはいつも通りです。
いつも通り真面目で、いつも通り静かで、いつも通り優しいだけ。
なのに、なぜか顔が熱い。
赤ずきんちゃんは誤魔化すように笑いました。
「てかさ、狼くん、好きな人とかいないの?」
言ってから、なぜそんなことを聞いたのか自分でも分かりませんでした。
狼くんは固まりました。
耳がぴんと立ちます。
尻尾も少しだけ動きました。
「……急に何?」
「いや、なんとなく。狼くんってそういう話全然しないじゃん。クラスの女子とか、誰か気になる子いないのかなーって」
「いない」
「即答じゃん」
「いないよ」
「ほんとに?」
「……いる」
赤ずきんちゃんの胸が、なぜかきゅっとしました。
「いるんだ」
「……うん」
「へえ。どんな子?」
聞きたくないような、聞きたいような。そんな変な気持ちでした。
狼くんはしばらく黙っていました。
そして、小さな声で答えます。
「明るくて」
「うん」
「友達が多くて」
「うん」
「少し強引で」
「うん」
「人との距離が近くて」
「うん?」
「赤い髪で」
「……うん?」
「クレープが好きで」
「……」
「僕の耳をすぐかわいいって言う人」
赤ずきんちゃんは固まってしまいました。
教室が静かになり、遠くの廊下の声も聞こえなくなったような気がしました。
狼くんは言ってから、自分が何を言ったのか理解したように顔を青くしました。
「あ、いや、今のは」
「待って」
赤ずきんちゃんは手を上げました。
「待って。ウチの脳、今度はコンビニどころか旅行行った。え、待って。今の、もしかしてウチ?」
「……」
「狼くんの好きな人って、ウチ?」
「……」
「沈黙ってことは肯定?」
「……」
「え、マジ?」
狼くんは逃げようとしました。
しかし赤ずきんちゃんは机越しに彼の袖をつかみました。
「待って。逃げないで。ウチ、今めっちゃ大事な話してる気がする」
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
「困らせたから」
「まだ困るとこまで行ってない。びっくりしてるだけ。てか、なんで今まで言わなかったの?」
「言えるわけない」
「なんで?」
「……赤城さんは、僕のこと友達だと思ってるから」
「それはそうだけど、」
赤ずきんちゃんはそこで言葉に詰まりました。
「友達」
確かにそうです。狼くんは大事な友達です。
でも、ただの友達なのかと聞かれると、急に分からなくなるのです。
だって、他の友達とは違います。カラオケで騒ぐ友達とも、放課後に買い物へ行く友達とも、毎日SNSでやり取りする友達とも違います。
狼くんといる時間は、もっと静かで、もっと安心できて、もっと自分の奥に近いところにあるような気がしました。
赤ずきんちゃんは、狼くんの袖をつかんだまま黙りました。
狼くんも動きませんでした。やがて彼は、観念したように息を吐きました。
「……ずっと好きだった」
その声は震えていました。でも、逃げませんでした。
「赤城さんが思ってるより、ずっと前から。でも、友達でいられるだけでいいと思ってた。けど、近くにいると期待する。期待して勝手に苦しくなる。赤城さんが誰かに告白されたって聞いただけで、勝手に落ち込んで、勝手に離れようとした。そういう自分が嫌だった」
「……」
「だから、言うつもりはなかった。困らせるだけだと思ったから」
狼くんは、赤ずきんちゃんを見ました。
いつもはすぐに逸らす目を、そのときだけは逸らしませんでした。
「でも、もう隠すのは無理みたいだから」
赤ずきんちゃんの手から力が抜けました。
狼くんの袖が少しだけ離れます。
狼くんは、それを拒絶だと思ったのかもしれません。耳が力なく下がりました。
その瞬間、赤ずきんちゃんの胸がぎゅっと痛みました。
違う、そうじゃない。離したいわけじゃない。
ただ、びっくりしただけ。自分の中にある気持ちが、急に形を持ち始めて、どうしたらいいのか分からなくなっただけ。
「狼くん」
「……うん」
「ウチ、今まで全然気付いてなかった」
「知ってる」
「たぶん、めっちゃ無神経なことしてた」
「……そんなことは」
「した。クレープひと口とか、袖つかむとか、すぐ近付くとか、耳かわいいって言うとか、狼くんが照れてるの見て面白がるとか。ウチ、狼くんがどんな気持ちだったか知らないで、普通にやってた」
「嫌じゃなかった」
「でも、苦しかったんでしょ」
「……少し」
「ほら」
赤ずきんちゃんは眉を下げました。
「ごめん」
「謝らないで」
「やだ。謝る。ウチが謝りたいから謝る」
赤ずきんちゃんは、まっすぐ狼くんを見ました。
そして、ゆっくり言葉を探します。
「でもね、狼くん。ウチ、たぶん嫌じゃない」
「……え?」
「狼くんに好きって言われて、嫌じゃない。びっくりしたし、正直まだ頭ぐちゃぐちゃだけど、嫌じゃない。むしろ、なんか……ちょっと嬉しい」
狼くんの耳が少しだけ上がりました。
赤ずきんちゃんはそれを見て、思わず笑いそうになりましたが、今笑うのは違う気がして我慢しました。
「ウチ、狼くんのこと好きだよ。これはほんと。狼くんといると楽だし、楽しいし、安心するし、いなくなったら嫌だし、他の子と仲良くしてたらたぶん普通にモヤるし、狼くんがウチ以外に耳かわいいって言われて照れてたら、ちょっとムカつくかも」
「それは……」
「うん。ウチも今言ってて思った。これ、けっこう好きじゃんね」
赤ずきんちゃんは自分で言って、自分で顔を赤くしました。
「やば。ウチ、今さら気付いたかも」
「赤城さん」
「待って。今、ウチの中で会議してる。議題は『狼くんのこと友達として好きなのか、それとも普通に恋愛として好きなのか』です。かなり白熱してます。ちなみに恋愛派が優勢です」
「実況しなくていい」
「しないと恥ずいんだって!」
赤ずきんちゃんは両手で顔を覆いました。耳まで赤くなっています。
いつも狼くんをからかっている彼女が、今度は完全に照れていました。
狼くんはその姿を見て、心臓が変な音を立てるのを感じました。
かわいい、どうしようもなくかわいい。
「……僕だって」
狼くんは小さく言いました。
赤ずきんちゃんが顔を上げます。
「狼なんだぞ」
その声は、いつもより低く、少しだけ真剣でした。
赤ずきんちゃんはぽかんとしました。
「……へ?」
「だから、あまり無防備に近付かれると……困る」
「え、待って。今の、そういう意味?」
「そういう意味」
「マジ?」
「マジ」
「え、うそ、狼くんが急に狼出してきた。待って待って、ウチそういうの耐性ないんだけど。てか、普段あんなにおとなしいのに急にそれはずるくない?ギャップで殴るの禁止じゃない?」
「赤城さんのほうがずっとずるいよ」
「ウチ?」
「うん」
狼くんは、今度こそはっきりと言いました。
「赤城さんは、僕がどれだけ我慢してたか知らない」
赤ずきんちゃんは黙りました。
その言葉の意味を、少し遅れて理解したからです。
顔が熱くなります。
今までのことを思い出してしまいました。
袖をつかんだこと。顔を近付けたこと。クレープを食べ合ったこと。耳をかわいいと言って笑ったこと。帰り道に二人で歩いたこと。何度も「狼くんがいい」と言ったこと。
全部、友達だからだと思っていました。
でも、狼くんはそうではなかった。いや、そうではないと知ってしまった今、赤ずきんちゃん自身も同じようには戻れません。
「……もしかして、けっこうひどいことしてた?」
「ひどくはない」
「でも、狼くんのこと振り回してた?」
「……少し」
「正直に言うと?」
「かなり」
「うわあぁぁ……」
赤ずきんちゃんは机に突っ伏しました。
「ごめん。ほんとごめん。ウチ、距離感バグギャルすぎた。マジでごめん」
「だから、嫌じゃなかったって」
「でも狼くん、いっぱい我慢してたんでしょ」
「それは、僕が勝手に」
「勝手でも、ウチが原因じゃん」
赤ずきんちゃんは顔を上げました。
その目は、いつもの明るい赤ずきんちゃんのものではなく、少しだけ不安そうな女の子の目でした。
「じゃあ、これからは我慢しなくていいよ」
狼くんは息を止めました。
「赤城さん、それは」
「違う違う、変な意味じゃなくて。いや、変な意味って何って話なんだけど。そうじゃなくて、ウチ、ちゃんと考える。狼くんのこと、ちゃんと男の子として見る。友達だからって雑に近付くんじゃなくて、好きな人として、ちゃんと向き合う」
「……好きな人?」
赤ずきんちゃんは一瞬固まりました。
そして、自分が何を言ったのか理解して、顔を真っ赤にしました。
「あ」
「今、好きな人って」
「言った」
「……」
「言いました」
「……」
「もういい、言う!ウチも狼くんのこと好き!たぶんじゃなくて好き!今めっちゃ恥ずいけど、好き!友達としても好きだし、それ以上に好き!これでいい!?」
教室に赤ずきんちゃんの声が響きました。
幸い、教室には二人しかいません。もし誰かがいたら、翌日には学年中に広まっていたことでしょう。
危ないところでした。
狼くんはしばらく固まっていました。
やがて、ゆっくり顔を伏せます。耳が真っ赤で、尻尾が小さく揺れています。
「……よくない」
「えっ」
「よすぎて、どうしたらいいか分からない」
赤ずきんちゃんは一拍置いて、吹き出しました。
「なにそれ」
「本当に分からない」
「狼くん、かわいすぎ」
「かわいくない」
「かわいい。あと、かっこよかった。さっきの『狼なんだぞ』ってやつ、普通にやばかった。ウチ、ちょっと心臓止まるかと思った」
「忘れて……」
「無理。一生覚えてる」
「やめて」
「やめない」
二人は顔を赤くしたまま、しばらく笑いました。
それは付き合い始めた瞬間にしては、あまりにもいつも通りでした。
劇的な抱擁もありません。
雪も降っていません。
花火も上がっていません。
運命の鐘も鳴りません。
ただ放課後の教室で、赤髪のギャルと狼耳の陰キャ男子が照れながら、笑いながら、自分たちの気持ちにやっと名前を付けただけです。
でも、それで十分でした。
「じゃあさ」
赤ずきんちゃんは、少し落ち着いてから言いました。
「ウチら、付き合うってことでいい?」
狼くんはまた固まりました。
「……いいの?」
「なんでそこで聞くの。ウチが聞いてんだけど」
「だって」
「だってじゃない。狼くんはウチのこと好き。ウチも狼くんのこと好き。なら付き合う。シンプルじゃん」
「シンプル」
「そう。恋愛ってたぶん、変にこねくり回すとバグるんだよ。ウチら、もう十分バグってたし。だからここからはシンプルにいこ」
「……うん」
「じゃあ、今日から彼氏ね」
「彼氏」
「そう。ウチの彼氏」
赤ずきんちゃんはそう言って、少しだけ照れたように笑いました。
狼くんは顔を覆いました。
「狼くん?」
「無理」
「何が?」
「嬉しすぎる」
赤ずきんちゃんは目を丸くしました。
それから、口元をゆるめます。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、ウチも言っとく」
「何を?」
「狼くんが彼氏なの、めっちゃ嬉しい」
狼くんは机に突っ伏しました。
赤ずきんちゃんは笑いました。
その笑い声は、いつもより少しだけ甘く、少しだけ照れくさそうでした。
翌日。二人が付き合い始めたことは、なぜかクラスの半分以上に知られていました。なぜか、ではありません。赤ずきんちゃんが普通に言ったからです。
「え、隠す必要ある?」
朝の教室でそう言い放った赤ずきんちゃんに、狼くんは魂が抜けたような顔をしました。
「赤城さん」
「なに、狼くん」
「もう少し段階というものが」
「でも付き合ってるの事実じゃん」
「事実だけど」
「じゃあいいじゃん。ウチ、狼くんの彼女だし」
教室の空気が沸きました。
女子たちは「やっと!?」と叫び、男子たちは「マジかよ」と言いながらもどこか納得した顔をし、担任は教室に入ってきた瞬間に妙な熱気を感じて「何があった」と困惑しました。
狼くんは机に伏せました。赤ずきんちゃんはその隣でにこにこしています。
「狼くん、耳真っ赤」
「誰のせいだと」
「ウチ?」
「分かってるなら」
「でも嬉しいでしょ?」
「……嬉しいけど」
「じゃあいいじゃん」
よくはありません。でも、悪くもありません。
狼くんは顔を上げて、赤ずきんちゃんを見ました。
赤ずきんちゃんは今日もかわいいです。
赤い髪が朝の光に透けて、笑顔が相変わらずまぶしい。そしてその笑顔が、自分に向けられている。
友達としてではなく、恋人として。
それがまだ信じられなくて、でも確かに嬉しくて、狼くんの耳はまた正直に揺れました。
「狼くん」
「なに」
「今日の帰りもクレープ行こ」
「また?」
「だって、彼氏と放課後デートしたいじゃん」
「……」
「狼くん?」
「行く」
「即答じゃん」
「行く」
「二回言った」
「行くよ」
赤ずきんちゃんは笑いました。
狼くんも、少しだけ笑いました。
こうして、パリピ赤ずきんちゃんと陰キャ狼くんは付き合い始めました。
それは童話のような大冒険ではありません。森もありません。猟師も出ません。 おばあさんの家にも行きません。
あるのは、放課後の教室と、駅前のクレープ屋と、夕暮れの河川敷と、少し不器用な二人の距離だけです。
けれど、赤ずきんちゃんは思いました。
たぶんウチにとっての物語はこれでいい。派手で、楽しくて、でも本当は少し静かで、隣にいる狼くんがたまに照れて、たまに真面目な顔でずるいことを言って、ウチがそれに振り回されて、でも最後には二人で笑える。そういう毎日がいい。
そして狼くんも思いました。
赤ずきんちゃんは今日も無防備で、明るくて、距離が近くて、どうしようもなくかわいい。けれど、もうただ我慢するだけではありません。なぜなら彼は彼女の友達ではなく、彼氏になったからです。臆病でクソ真面目な陰キャの狼くんは、相変わらず人混みが苦手で、褒められると耳を赤くして、告白ひとつに一年以上かかったような男の子でした。
でも、赤ずきんちゃんがあまりにも無防備に笑うときだけは、少しだけ低い声で言うのです。
「赤城さん、近い」
「えー、彼女だしよくない?」
「よくない」
「なんで?」
「……僕だって、狼だから」
すると赤ずきんちゃんは決まって顔を赤くして、けれど逃げずに笑います。
「知ってるし」
そう言って、彼の隣に並ぶのです。
めでたし、めでたし。
恋愛ものが書いてみたかったので書いてみました。




