呼ばれなかった恋の話
人の人生とは、儚いものだ。
明日も会えると思っていた人が、ある日突然叶わなくなる。それは誰にも止められない、突然の別れ。頭ではわかっている。でも、心はまだ追いついていかない。
彼と暮らし始めて、二ヶ月になろうとしていた。
引っ越しの日、ダンボール箱を抱えながら彼が笑った。
「狭いけど、よろしく」
その言葉がおかしくて、私も笑った。六畳一間、小さなキッチン。それでも二人でいれば、どこだって十分だと思っていた。
一緒に暮らし始めてすぐ、彼は言った。
「苗字じゃなくて、名前で呼んでよ」
当たり前のお願いのように、さらりと。でも私には、それがどうしてもできなかった。名前を呼ぶという行為が、胸の奥をくすぐって、恥ずかしくて、声に出すたびに喉が詰まった。
「……ねえ」とか、「あの」とか、そんな言葉でごまかしながら、いつかきっと呼べるようになると思っていた。慣れれば呼べる。もう少し時間が経てば。そう言い聞かせて、その日も次の日も、名前を呼ばないまま過ごした。
その日も、いつも通りの朝だった。
彼は朝、出かける前にいつものようにコーヒーを飲んでいた。私はまだ眠くて、ソファに丸まったまま「いってらっしゃい」だけ言った。彼は「いってきます」と言って、靴を履いて、扉を閉めた。
それが最後だった。
連絡が来たのは確か昼過ぎ。事故、という言葉だけが、耳に張り付いた。病院に着いたとき、もう彼は目を開けなかった。信じられなかった。信じたくなかった。あんなに元気だったのに。今朝、コーヒーを飲んでいたのに。
玄関に、まだ彼の靴がある。部屋の中にも、彼の服が、カバンが、いつも使っていた物たちがある。
捨てられない。動かせない。片付けてしまったら、本当に終わってしまう気がして。
何度も彼の物たちを見ながら思う。あのとき、どうして名前を呼ばなかったのだろう。恥ずかしいなんて、なんて些細な理由だったのだろう。呼べばよかった。朝、見送るとき。夜、隣に座っているとき。何でもない瞬間に、ただ一言。
ーー名前を、呼べばよかった。
そうすることで叶うのであれば。私はただーー
「あなたに側にいてほしかった……」
声に出したら、涙が出た。どうしようもないことだけれど。それはわかっているけれど。それでも頬を伝う水滴を、止めることはできずにいた。
そのとき、どこからか彼の声が聞こえた気がした。
ーーもう泣かないで。
幻聴だとわかっている。でも確かに、私には聞こえた。あの穏やかな声で。私のことを心配するような、やさしい声で。
「ははっ……」
私はひとりで、泣きながら笑った。最後まで、そういう人だった。自分のことより、私のことを気にかけて。
人の人生とは儚いものだ。
だからこそ、最後に君の声で、名前を呼んでほしかった。




