殺し屋の私が、暗殺対象を愛してしまいました!
***
心地よいオーケストラの音色が広間を包み込む。中央ではこの国で一番大きい、まさに権力を象徴するかのようなシャンデリアが輝く中、貴族達は舞踏会につくや否やこのパーティーの主役達に挨拶をしに行った。
「オースティン殿下!お誕生日おめでとうございます!王国の神童と呼ばれていた貴方がもう成人なさるとは…感無量でございます!」
「ありがとう。カールズ伯爵。祝いの品も昨日届いた。まさか悪徳商人達の密輸経路情報とは。またこの世界の悪を一つ消せそうだ」
空を切り開くような透き通る声と共に人当たりの良い爽やかな笑顔を浮かべたのは、この国の第一王子、オースティン・ヴァレンティア。眉目秀麗、文武両道、それでいて品行方正な、まさに完璧な‘主人公’。
「エリオット殿下ぁ!ほんっとうにお誕生日、おめでとうございますぅ!ささやかではありますが、誕生日プレゼントでございますぅ」
「おぉ!この…平民が食べるパンよりも小さい箱に一体何が入って……ん?なんだ。ただの青い宝石か」
「い、いえ殿下、こちら希少なブルーダイアモンドをふんだんに使ったブレスレットでございますぅ。アクセサリーですが、シンプルなデザインですしぃ…正直、真っ黒な黒髪の第一殿下より、エリオット殿下の素晴らしい黄金の髪によく合うと思いまして」
「ふーん。まさに僕にぴったりの宝石ってわけだ。」
そう言ってまんざらでもない顔をしている第二王子、エリオット・ヴァレンティアは、そんな完璧な兄とは正反対で、無知蒙昧、浅学非才、一生黒星、赤点常連。顔こそ王家の血筋らしい金髪碧眼の整った顔をしているが、それ以外の全てにおいて彼は双子の兄オースティンに完全敗北していた。
「…モブリーノ・マベンダ侯爵令嬢!およタダーノ・パンピール侯爵令息!」
まだ舞踏会は始まったばかり。フットマンによって粛々と貴族達の名前が呼ばれ、王宮の広間へと足を踏み入れていき、時間が経つにつれ会場のざわめきは大きくなっていった。
しかし。
「…り、リゼリア・フロイス伯爵令嬢!」
その名前を呼ぶ声が会場に響いた途端、そのざわめきが一瞬にして消える。
王家を滅亡寸前まで追い詰めた稀代の悪女リゼリアの名を口に出すことはタブーであった。ましてや人の名前につけるなど。
冷たい汗をたらりと流して、全員がドアのある方に目を向けた。
ギィィィィ
コツ コツ コツン…
静寂の中、軽やかな足音が近づくと同時に現れたのはまさに女神であった。
皆、リゼリアがどんな女を意味するのかも忘れて、ただ彼女をじっと見つめる。所々から、ワイングラスの割れる音までした。
光に照らされてより輝く銀髪も、新雪よりも白い肌によく合った真っ赤なドレスも、全てが、神秘的だった。
彼女は、サファイアを溶かしたような瞳で辺りを見回して小さな口をゆっくり開く。
「…あら。とても静かですね。ちょうどいいですし、ご挨拶させていただきます。この度、フロイス伯爵家の養子となりました、リゼリア・フロイスでございます。オースティン・ヴァレンティア第一王子殿下、エリオット・ヴァレンティア第二王子殿下、お誕生日おめでとうございます」
そう言って細い体をしなやかに傾け美しいカーテシーを魅せる。
ゆっくりと上げられた、言葉では形容し難いその異次元の美しさにその場にいる全員が息を忘れた。
挨拶を終えた後、彼女は迷いなく壁の隅に佇み、ただ微笑んでいた。誰もがその視線が自分のために向けられているように感じるようなそんな眼差しだった。
我に返った指揮者がまた指揮棒を降り始める。それと同時に会場のざわめきも徐々に元に戻っていった。
しかし、二人の男が彼女の元へと歩み寄る。
「リゼリア・フロイス嬢。良ければ俺と、一緒に踊らないか?」
オースティンが完璧な身のこなしで、膝をつき、手を差し出す。まるで恋愛小説のヒーローのように。
「おいおい、待ってくれよオースティン。…ゴホン!リゼリア、僕も、まるで蚕のように白い君と、一曲踊りたい!」
エリオットは緊張しているのか、差し出す腕も、床につける膝も、令嬢にかける言葉も全てを間違えている。恋愛小説のヒーローは愚か、序盤で消える当て馬でも、もう少し上手なダンスの誘い方だ。
誰もがリゼリアが選ぶのはオースティンだと考えていた。エリオットさえも、心の裏側にどこか諦めている感情があった。
けれど、前述した通りこの物語の主人公は、オースティンではない。
「ダンスのお誘いありがとうございます」
彼女、リゼリア・フロイスが手を取ったのは、
「エリオット殿下」
他でもない、ポンコツ王子、エリオット・ヴァレンティアであった。
横目でその現場を見ていた貴族達も、オースティンも、そしてエリオット当の本人もまさか自分が選ばれるとは夢にも思っていなかったもので、間抜けな顔をより間抜けにして、言葉を詰まらせる。
「え…?あ、ぼ、僕?僕でいいのか?」
「はい。エリオット殿下」
そう言って、女神の微笑を浮かべる彼女、リゼリア・フロイス。
(まずはターゲットとの接触クリア。この様子なら記念すべき100回目の暗殺も…ちょろいわね)
どんなターゲットも女の武器とその脅威的な暗殺技術をもって確実に殺す。
そしてこれが彼女の100回目の暗殺にして、最大の仕事。暗殺対象はこの国の第2王子、
エリオット・ヴァレンティアであった。
***
「ほら、エル?あーん♡」
「ははは!リゼは本当に僕のことが好きだなぁ♡」
王宮の一室。王国1のバカ夫婦と呼ばれる二人が仲睦まじく、ティータイムを行っている。
不意に、リゼリアは旦那にクッキーを渡す腕を止めた。
「ねぇ、エル。本当に王族会議に参加しなくていいの?」
「いいさ。どうせオースティンがどうにかしてくれるし…まあ、僕は、ほら…知ってるだろう?優秀だから実績だけで物を言わせるのさ」
「ふふっ。それもそうね」
そう言って、触れれば壊れてしまいそうな可憐な手で口を覆ってリゼリアは微笑む。
(本当に頭が回らないのね。1年に1回、王族全員が出席する会議に参加しなければ、元々無い信用が地に落ちるに決まっているのに)
ただし、隠された口は決して曲線になってはいなかった。
舞踏会の後、リゼリアの熟練の恋愛テクによってエリオットは見事に骨抜きにされ、3年の交際を経て見事に結婚へとゴールインした。普通、王族の結婚相手は王家によって選ばれた幼い頃から教育されてきた由緒正しい令嬢になるはずだが、エリオットがリゼと結婚しなかったら王宮に火を放つ、と本当にしでかしそうな雰囲気で宣言し、そもそもあのポンコツ王子をここまで大人しくさせて置ける令嬢が非常に貴重だったこともあり、2人の結婚が正式に認められた。
(そもそも、あの完璧王子がいる限り、このポンコツ王子に重要な仕事が回ってくるはずもないし、それは妃も然りでしょうからね)
心のうちに秘めた乙女の想いは、決して口に出すことはせずリゼリアはひたすらにエリオットとのお茶会を遂行する。
「わぁ〜!見て!可愛いいちごの乗ったマカロンよ!さぁ、エル、食べてみて!」
「1つしかないんだから、君が食べてくれよ。僕はこのブラッッックなコーフィーを飲んで…ぐ、ゴホッゴホッ」
(甘い物に目がないくせに、何言っているんだか。私はこんなあっっまいマカロンじゃなくて、今あなたが苦行のように飲んでるコーヒーが飲みたいって言うのに)
コン コン コン コ
エリオットに好きではないマカロンをどうにかして押し付けようとしていた時、部屋のドアから3回半のノックの音がした。
小さな4つ目の音を聞き逃さず、リゼリアは立ち上がる。
「あら。誰か来たようね。私、見にいってくるわ」
「え〜!どうせ使用人さ!部屋に入らせればいいじゃないか!」
そうやって口を尖らせるエリオットに、ここぞとばかりにマカロンを押し込む。
「使用人さんも疲れてるでしょうから、たまには私から会いにいってあげなきゃ…ね?いいでしょう?」
「ふぁ、ふぁあ…(あ、あぁ…)」
リゼリアの上目遣いにマカロンの甘さも相まってどこか夢見心地になっているエリオットをおいて、リゼリアは素早くドアの向こうに待つ使用人から封筒を受け取る。
「王族会議がもうすぐ終了します。今回、第一王子が使用人のための労働環境改善策を提出し、賞賛の声が上がっているそうです」
「まぁ。わざわざそれを伝えにきてくださったの?ありがとう」
王子に怪しまれないようにするため体面上の報告をした後、使用人は部屋を後にした。
(6歳で新しい天体を見つけ、8歳で未解決の数学の難問を証明し…最近では反乱軍の討伐までやってのけたのよね。第一王子の功績をエリオットが聞いたらまた拗ねてしまうわ…。…で、この封筒は…)
封筒の中身は、リゼリアの育て親にして、彼女の仕事の斡旋を行うボスからの手紙だった。エリオットとの接触命令以来、3年ぶりのボスからの手紙。大体の予想はついていた。
『時は来た。暗殺を遂行せよ』
(ようやく、きたのね)
この暗殺の依頼者は、第一王子派閥の筆頭、レブリン・カールズ。彼は愚かな王子を王座に座らせ政治の傀儡にしようと企む第二王子派閥を警戒し、もはや愚かでお荷物な第二王子など必要ない、そう判断した。
しかし、いくらポンコツであろうと相手は王族。警備は厳重でそう簡単に暗殺は不可能だ。そこで私が3年と言う長い月日をかけて彼に接近し、周りが油断をし切ったところで彼を、
殺す。
3年の時を経てやっと降りた暗殺命令。
丸く小さな頭で周囲を見渡す。リゼリア達の頻繁なイチャコラに呆れたのか、本来部屋の前に常駐しているはずの騎士達の姿は見えなかった。それに、長い廊下にも誰もいない。
(王族会議に人員が割かれた、今がチャンス…と言うわけね)
常日頃から携帯していた、太もものナイフの位置を確認した後、リゼリアは何事もなかったように笑顔でエリオットの所へと戻った。
「エル〜!お待たせ!さぁ、早くティータイムの続きをしましょう?」
「はは。リゼはせっかちだなぁ…ところで、さっきの使用人は何しにここへ?」
「そうね…今晩のデザートは、赤い…ベリーのタルトだそうよ」
***
(おかしい…おかしい…!)
今まで一度も任務に失敗したことなどないリゼリアは、生まれて初めてのことに頭が混乱していた。いつも通り2人仲良く同じベッドで寝る。エリオットが眠っている間に、彼の心臓を一突きする…はずがどうしても、心臓の真上にピタリとつけたナイフを動かすことができないでいた。時計は十二の針を指している。かれこれ20分この調子だ。
(落ち着いて。リゼリア。まさか3年の間にこの男に絆されたというの?そんなまさか。この私にかかれば、こんなポンコツ男の心臓の一つや二つ…やっぱりできない!)
王族会議の時、あのお茶会の時間も絶好のチャンスだったと言うのに、あれだけ殺る雰囲気を醸し出してたのに、未だリゼリアはエリオットに傷をつけることができないでいた。(※結局普通にベリーのタルトを呑気に2人で食べていた。)
(だ、だって、流石に3年も一緒にいたんだから、手紙来てすぐに、はいグサー、ってできるほど私は非情じゃないわよ!)
心の中を整理して、意を決して腕に力を込めようとしても、筋肉に力が入らない。目を閉じて、集中しようとしても頭の中に浮かんでくるのは、エリオットとの思い出ばかり。
――――――2年前――――――――
「おーい!リゼー!見えるかーー??」
「はーい!よく見えますよー!」
訓練場のエリオットから30メートルは離れた場所で、エリオットの剣術訓練を応援していた時のこと。(※訓練場の近くは危ないし、臭いから遠くにいて欲しいと言われたため)
愛しの婚約者に見守られ、いつもの空を眺めながら適当に棒を振り回している王子とは別人ではないかというほどの勢いで素振りをしまくるエリオット。その太刀筋は定まっておらず、力任せに刀を振っているだけではあるが、恋人にいいところを見せると息巻く王族に、『その素振りくっそ下手っすねw』と言えるような勇気を持ったものは、騎士団にはいなかった。
(何よ。あのふにゃふにゃの太刀筋。絶対普段真面目に練習してないわね)
リゼリアは気づいていたが。
「さすが、オースティン殿下!」
訓練場のもう一方で騎士達の感嘆の声が上がった。
視線を向けると、第一王子オースティンが、騎士団の数人に囲まれている。ふいに目があって、軽く会釈をする。
(……さすが、としか言いようがないわね)
彼が軽く剣を振るだけで、騎士達が感嘆の声を上げていた。王国の神童、文武両道の完璧王子といわれるだけあって剣術にも粗がない。
流れるように美しい剣筋。力任せではない、無駄のない動き。
(だけど、)
「おーい!リゼーー!!聞いてるかーー?」
エリオットの叫び声に、リゼリアは視線を戻した。
「はーい!聞いてますよー!!」
「よーし!じゃあここで僕の特別スペシャルな技をリゼリアに見せてあげよう!」
「本当ですかー?嬉しいですー!」
エリオットは一つの藁人形の前に立って、深く息を吸って吐くその姿だけは、仙人のそれである。
頭の位置を低くしてへっぴり腰のその準備体勢を見て、騎士団一同は揃って嫌な予感を察知し素早く端の壁に張り付く。
「いくぞー!ロイヤル・セイント…アルティメット・スラーーーッシュ!」
(こっちの方が断然面白いわ)
なぜか下から上に剣を振り上げ見事に剣は宙を舞う。そして、離れて見ていたリゼリアのいる方向へと剣が飛んでいく。
「リ、リゼ!リゼリアーーー!」
それに気づいたエリオットはすぐにリゼリアの方へと向かうが…遅かった。
剣が飛んだ瞬間、訓練場の端にいたオースティンの視線が鋭くなって、反射的に数歩踏み出す。
ポト。
しかし剣は放射線を描き、リゼリアからは程遠い地面に突き刺さるのを確認してその足を止めた。
そもそも、いつもまともに訓練もしない軟弱者が30メートルも剣を飛ばせる訳がない。リゼリアも含めて、エリオット以外のほぼ全員が、リゼリアの安否の心配ではなく、この国の行く末の心配をしていた。
(仮にもこの国の王子があの藁人形一つ切るどころかかすりもしないなんて…逆にすごいわ)
しかし、エリオットは剣がリゼリアから10メートルは離れていようと、駆け寄って涙ぐみながら傷はないかと確認する。泥まみれの手袋を脱ぐのも忘れて、けれどリゼリアの白い肌に触れる時はガラス細工を触るかのように優しく確認した。
「リゼ…!大丈夫か?ごめん…!本当にごめん…君を危ない目に遭わせてしまった…」
「え、えぇ。大丈夫よ?本当に。剣はここまで届いてないし…」
(というか、顔に泥塗りたくられたことの方が大丈夫じゃないんだけど…)
「そうだけど、僕は君に何かあったら生きていけない。…絶対に君を守るから」
鼻を啜りながら、ついには一滴の涙まで流すエリオットに、リゼリアは困惑で口を開くこともできなかった。
暗殺用の人間として育てられてきた彼女には、自分のために泣くことのできる人間がいることなど知らなかったのだ。
リゼリアは今まで数えきれないほどの人数を暗殺してきた。自分は汚れた人間で、たとえ死んでも社会のゴミが一つ消えて逆に喜ばれる存在だと理解はしていたが、自分の死を悲しむ人がいないと言う事実に孤独を感じていた。
リゼリアは、自分の肌に触れるエリオットの手が泥に塗れていることも気にせず、エリオットを抱きしめる。
「リ、リゼ?!やっぱりどこか怪我したのか?!早く医者に行こう!」
「違うわ…ふふ」
「…ん?」
「ねぇ。エル?私が死んだらお葬式で泣いてくれる?」
(もうすぐ、私が彼を殺すのに、私ったら何を言っているのよ)
自分の暗殺対象に向かって矛盾した質問だと分かってはいたものの、なぜか聞かずにはいられなかった。
するとエリオットは、やっと治ってきた涙をまた流し始めて、まるで捨てられる恋人のように縋りつき、叫んだ。
「…嘘でもそんなこと言わないでくれよ…!それに、泣いてなんかやらないからな!?君が死のうとしても、絶対に死なせないから!死ぬ時も一緒だから!」
「死のうとしても死なせてくれないの?ふふっ。それは面倒な男に捕まってしまったわね」
「え?!わ、別れないからな?絶対に!」
「えぇ。別れないわよ」
(あなたを殺す、その日まで)
そんな後付けは、この時リゼリアの頭に入ってもいなかった。彼女の頭の中で、エリオットという男がただのチョロい暗殺対象から変わった瞬間だ。
――――――――――――
この時から、リゼリアには前兆があったのだ。彼女が暗殺のことを忘れ、挙句恋愛に走ってしまうという彼女のボスにとって最悪のシナリオが。一つボスにとって幸運だったのは、リゼリアは、エリオットへの恋愛感情を今のところ理解できておらず、任務を遂行しようとはしているということ。
殺せはしないが。
(き、今日はおいしくもないお菓子をたくさん食べさせられたせいで頭が正常に働いていないのよ!そうに違いないわ!別に暗殺の期限は書かれていなかったし、殺すのは明日でも、大丈夫でしょう…)
―明日やろう…明日やろう…そんな日々が続いた。
そして、とうとうボスがそれを勘づいた。
「…リゼリアが戻ってきません。もう1ヶ月経ったのですが」
「はい。ボス」
トン トン トン トン
一見穏やかな老紳士に見えるボスと呼ばれる男は、不機嫌そうに指を動かしていた。
孤児たちを暗殺者にしたてて金を稼いでいたボスにとって、リゼリアは一番の稼ぎ頭だった。それが今になっての唐突な裏切りとも思える行為。彼の脳裏に浮かんだのは、この3年の間に、リゼリアが暗殺以外のことを考えるようになってしまったのではないかということ。ただでさえ裏社会でターゲットを必ず仕留めることで、技術に定評のあるリゼリア。彼女の暗殺が女の武器を使ったものだから、稼げる時間には限りがある。第二王子の暗殺には膨大な時間が必要だったが、その見返りが相当なものだったから引き受けた。しかし、それでも3年という期間は決して短くなく、この仕事を終えた後、ボスはなるたけ早くリゼリアを次の仕事へと向かわせたかった。
すでに催促の手紙は送っている。にも関わらず、王子が殺されたというニュースが耳に入らないということは、暗殺が失敗したか、そもそも暗殺をしていないか。
もし、後者だったならば、暗殺者としては役に立たない。回収した後の行方は――
「美少女の解剖実験をしたがる悪趣味な貴族を見つけておいてください」
「かしこまりました」
「まぁ、王子への警備が厳重で暗殺を仕掛けられてないだけかもしれません。一度私が見に行ってきましょう」
「了解いたしました」
ボスの隣に表情ひとつ変えず直立不動の使用人は、まだリゼリアと同じくらいの年だろう。そして、ボスは彼のことを‘欠陥品’と呼ぶ。暗殺教育に耐えきれず心を壊した、欠陥品。
「いやぁ、しかし。残念です。リゼリアも、欠陥品だったんでしょうかね」
ボスの表情は、変わらず穏やかな紳士の表情そのもの。
カツーン… カツーン… カツーン…
不穏な靴音を鳴らしながら、リゼリア達の元へと向かった。
***
王子暗殺命令の手紙が来て、1ヶ月。リゼリアはこの1ヶ月中毎日欠かさずエリオットの胸にナイフを当てた。けれども、一度もそのナイフに力を乗せた事はなかった。
(今日も、殺せない…)
半ば日課のようにもなっていたため、初めのようにエリオットを暗殺できないことへの困惑より先に来たのは眠気だった。今夜は満月。窓から差し込む月光が照らすエリオットの寝顔になぜか彼女の胸は締め付けられていた。明日は殺そう…いつも通りにそんな言い訳をして、ナイフをしまい、うつらうつベらとべッドにまた潜り込もうとしたその瞬間、背筋が凍った。
耳元で聞き慣れた声が囁く。
「なぜ、殺さないのですか?」
昔の記憶が呼び起こされて、すぐにベッドから立ち上がってその大きな影の前に屈む。その体は小さく震えているように見えた。
「ボ、ボス…どうして、ここに…?」
王宮の警備は堅固でリゼリアであっても隠密に侵入する事はできなかった。そして、厳重だからこそ、リゼリアにそれを提案したはずのボスが今、ここに立っている。リゼリアは混乱を隠しきれない様子だったが、ボスはそのような事取り留めもしない。
「そうですね…積もる話もたくさんありますがまずは…」
いつの間にかリゼリアの太ももに隠してあったナイフが消えていた。そしてそれはボスの手に…もっと細かく言えばエリオットの胸の上に触れている。
(いつの間にエリオットの方で移動したの?)
「ターゲットは、殺しておかなければ。」
「待っ…」
心地よさそうに眠っているエリオットを横目にナイフを振り下ろそうとするが、リゼリアが思わず声を上げようとしたその瞬間、ボスの腕が止まった。まるでリゼリアを粗大ゴミか、まだ使えるのか、見極めるように瞬き一つせず不穏な目つきで凝視する。
そして、すぐにまた、目を弧にして笑っていった。
「あぁ!すみません。リゼリアの獲物でしたね。さぁ、どうぞ」
不気味なほど笑顔で渡されたナイフ。いつもなら、訓練なら何の躊躇いもなく振り下ろせたはずのナイフがやはり、動かない。
(やっぱり私は、エリオットに情がある…。彼を殺せない…)
リゼリアは腕に入れていた力を全て無くした。殺せなかったことへの違和感と、ボスの圧からか、どんどん呼吸が荒くなっていく。彼女は王宮に行くまでの16年間、自分を育ててきてくれたボスに一途の希望を抱いて口を開く。
「これから…もっと、殺しますから、このターゲットだけは、見逃せ、ませんか…?」
的確な状況判断も売りであった暗殺姫リゼリアにしては悪手であった。
そもそも、自分の育て親に自分に対して愛情などあるわけがない。ボスにとって、育ててきた子供達は金を作る機械であるか、欠陥品であるか。その2択だけであった。
「面白いことを言いますね。なぜですか?」
「なぜ…?なぜ、って言われても…私には、彼を殺せないから…」
「だからそれはなぜ?」
「あ、え…なぜ…?」
「はぁ…」
ボスは深くため息をつき、嘆いた。リゼリアは自分で理解はしていないものの、もうすでにエリオットに堕ちている。無自覚に、エリオットを隠すように振る舞い、エリオットに剣の一つも振り下ろせない。欠陥品になってしまっていた。
「向こう6年、仕事を入れていたのに…全てキャンセルですか。これはお客様に叱られてしまいます」
「ぼ、ボス…?」
エリオットを見逃してくれるはず、そう純粋に思うリゼリアは、ボスの目には既に人間として映らなくなっていた。彼にとってリゼリアは欠陥品。
「処分、ですね」
リゼリアの持っていたはずのナイフはいつの間にかボスの元へと戻っていた。
その刃は、躊躇なくリゼリアへと向かっていった。
***
「ふわぁ〜。リゼぇ?こんな夜中にどぉした?虫でもいたのかぁ?」
リゼリアに剣が、今まさに届きそうだったその時、間抜けな声の、間抜けな王子がゆっくりと体を起こした。目の前で自分を殺そうとしている暗殺者達が仲間割れして、戦っていることなどつゆ知らず、大きく伸びをした。
(今しかない!逃げなきゃ!)
エリオットに気を取られたボスの刃が一瞬止まる。その隙にリゼリアは、エリオットを抱えてすぐさま寝室の窓から飛び出した。
先ほどまで目をシパシパさせていたエリオットも流石に風圧の強さで気づいたらしい。自分の置かれている状況がさっぱりわかっていないようだった。
「んぇ?!なんで、リゼが僕を抱えれてるんだ?!というか、部屋から落ちてるのか?僕たち」
「えぇ。そうよ」
「リゼ…?僕の部屋は3階だったような気がするんだけど」
「あそこの木に突っ込むわよ!頭を守って!」
「え、えぇ〜〜〜!」
さすがは一流暗殺者。たとえ3階から落下しようとも、これまでに培ってきた技術を以てすれば、たとえ180センチのうるさい成人男性を腕で抱えていようと着地などおちゃのこさいさいだ。いったいあの細い腕にどれだけの筋肉が詰まっているというのだろうか。
枝の間にうまく挟まっていたエリオットは、自分より20センチは小さいか弱い妻が自分を抱えて、3階から飛び降りて無傷である世界が現実とは思えないようで、思わず足の裏をつねる。
「いったぁぁ!」
痛みのあまり枝から落ちた。残念ながら夢ではなかったようだ。
「エル!今はバカな真似はやめて!早く逃げるわよ!」
いつもの甘い声とは違う、鋭い声色に若干戸惑いと、新鮮さに伴う興奮を感じつつも、走り出すリゼリアに懸命についていく。
しかし、エリオットが木のそばから離れると同時にボスも3階から勢いよく飛び降りてきた。そしてリゼリアと同じように、いやそれ以上にスムーズに着地をこなし、リゼリア達を追ってくる。ただ、よほど余裕があるのだろうか。走ることなく、優雅に歩きながらこちらに向かってきた。
(ボスは圧倒的な勝利しか望まない…!私たちを追うより、完全に打つ手無しにしてから処理しようとしてる…!)
リゼリアはエリオットの手を繋ぎ、全速力で足を動かす。しかし、どうもエリオットがぎこちない走り方をしていた。まるで、右足を庇っているようだ。エリオットは息を荒げて、掠れるような声で言った。
「リ、リゼ…あ、後で追いつくから…先に行っててくれ…」
(まさか…ボスに怪我をさせられたの…⁈)
「エル!諦めないで!あと…あと少しだから!」
「む、無理だ!だって今、僕の足裏には…魚の目があるんだよ?!」
「…ん?」
リゼリアは聞き間違いかと思い、一瞬思わず動きが止まる。エリオットも息を整えて、もう一度、至って真剣に言った。右足の親指の下部分。そこが地面につくたびに皮膚の中にある芯のようなものが刺さるように痛い。走ることは愚か、まともに歩くのも多少の我慢が必要で、その我慢はこのバカ王子として有名なエリオットには耐えられないものだったのだ。
「だから、足に魚の目ができてしまったんだよ!そこを庇いながら小走りするのでやっとなのに、走れるわけなんてない!」
「…いうてる場合かぁ!!」
まあそりゃそうなる。
リゼリアは遅れた分を取り戻すかのように先ほどより速く走っていく。
「えぇ?!リ、リゼ?!」
「早く走らんかい!あと少しで…私の武器を隠しているところがあるから」
「ぶ、武器…?」
戸惑いがらも、魚の目の痛みを我慢して走るエリオット達は、訓練場へとたどり着いた。
昔、エリオットがリゼリアに剣術を見せたときと違って人っこ1人おらず、月明かりに照らされた藁人形が一つ寂しく佇んでいる。そこから20mほど離れた場所。リゼリアは一つの迷いもなく、その周辺の土を掘り返す。
「お、おい!リゼ!そんなことをしたら手が汚れてしまう!」
「黙って!…あなた、殺されるかもしれないのよ…?ちょっとは空気読みなさいよ!」
「あ、もしかしてあの髭の生えた洒落た男が…?」
「そうよ!」
(私も、あなたを殺すために送り込まれたんだけど…)
エリオットもワタワタとしながら、リゼリアの横で並んで土を掘り返す。段々、地面の表面に土ではない何かが見えてきた。掘り返すと細長く、薄い剣に銃、爆弾といった武器の入った箱が一式出てきた。
(王宮内でパクってきた武器や今まで使ってきた馴染み深い武器達を少しずつここに貯めてきた…まさか、ボスに使うことになるなんて)
「エル!ボ…奴と戦うわ!あなたは…この剣なら薄くて振り回しやすいはずよ!」
「あ、あぁ。分かった。君を守るよ!」
「私のことはいいから!あなたの体のことだけを考えなさい!」
「それは無理だ!僕は君を守るって約束し…」
「あなたより!私の方が強いのよ!」
武器の装填する腕を止めてリゼリアはエリオットの言葉をさえぎった。彼女は全てに苛立っていた。
ターゲットを殺さずに助けて、育ての親から逃げ回って、自分でも何をしているのかさっぱりわからない。ターゲット本人はあろうことか、とっくの昔の口約束を律儀に守り、リゼリアを助けようとしている。守ろうとしている相手こそが、自分の命を奪いにきた死神だということも知らずに。
そして、それと同時に彼の言葉一つ一つに心が揺らされていた。
(‘君を守るって約束した‘って…2年前のことをなんで覚えてるのよ)
「あなたはおかしくないと思わないの?!3年前に都合よく派閥勢力に影響を与えない貴族の娘があなたのことを好きになって、結婚して!」
「リ、リゼリア…?」
「そして、今は王宮のこんな場所に武器をたくさん隠していた!」
「…そ、それは君が護身用に隠していたのかと…」
「だから!私を怪しめっていってるのよ!!」
2人にとって初めての夫婦喧嘩。しかし、そこに一つの不穏な足音が聞こえてきた。
カツーン… カツーン… カツーン…
***
「夫婦喧嘩ですか?どうせなら…死んだ後にごゆっくりどうでしょうか?」
素晴らしいアイデアだとばかりに、キラキラした表情でこちらを銃の標準越しに見つめるボスに、2人とも背筋に悪寒が走った。けれど決して武器を持つ手を緩めようとはせず、ゆっくりとエリオットを隠すようにリゼリアは前に出て、ボスの方をじっと睨みつけていた。
「エル。私が囮になるから、合図をしたらその隙に逃げて」
「は?!な、何を言っているんだ!」
「大丈夫よ。私強いから」
ボスは不気味な笑みを浮かべるだけ浮かべて、弾を打ってこなかった。銃は決して下ろさないけれど、近づいてくることもなかった。まるで、死刑囚の最後に与えられる懺悔の時間のような気がして、嫌な予感しかしなかった。
(早く…彼を逃がさなきゃ)
「だからと言って、お前をここに残して逃げるほど弱い人間じゃ…」
「私、貴方のこと、殺しにきたの」
困惑と焦りの滲むエリオットの言葉を遮って、リゼリアは、告白した。
自分が暗殺者で、今まで何度も汚い仕事をやってきたこと。キスも、それ以上のことだって暗殺のためにしてきたこと。
「私は汚い人間なの。貴方の愛するリゼは偶像に過ぎないのよ…!分かったら早く私のことなんて置いて逃げ…」
「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
エリオットの青色の瞳から大粒の涙がポロポロと溢れる。彼女の腕をしっかりと掴み、決して離そうとしない。涙を拭うことも瞬きもせず、ただリゼリアを見つめ続けた。鼻水まで垂らして、端正な顔立ちが台無しになってしまっている。
「……なんで即答するのよ!少しは困惑なさいよ!貴方を殺そうとしてたのよ?!」
「君が好きだから!」
「だから、貴方を殺そうとしてたんだってば!そんな女を手元に置くほどバカじゃないでしょう?!いいから早く逃げて!」
「君になら僕は殺されてもいい!でも…絶対に君と離れたくないんだ!」
バァン!
懺悔の時間の終了を告げるように、 2人のすぐ隣を一つの銃声が駆け抜けていった。
「もういいでしょう。私にも次の仕事がありますから、そろそろ処分したい」
ボスは新しい弾を装填し、その標準を、リゼリアの後ろに見えるエリオットの頭に合わせた。その瞬間、エリオットの前にいたリゼリアが姿を消した。ボスから習った暗殺技術だ。敵の焦点を見極め、自分がその焦点から外れた瞬間を狙うことが暗殺の極意だと。
リゼリアは銃を構えるボスの右腕にナイフを当てた。
「動かないでください。動いた瞬間ボスの右腕を、切ります」
ボスはきょとんとして、自分の右腕と、目の前でたった一本の薄っぺらい剣を持って立ちすくんでいるエリオットを交互に見つめる。エリオットは大声でリゼに逃げるよう声がかれるほど叫んでいた。
「…いや。大丈夫そうですね」
瞬きひとつせず、銃の引き金にかけていた指を引いた。それと同時にエリオットは倒れた。リゼリアは、動いたら腕を切り落とすという宣言も忘れてエリオットのところに駆け寄った。
「エル!!!」
左腕に銃弾が掠ったようだが、そこまでの傷では無かった。ただ問題なのは、王子の精神力が、そこらの赤ん坊よりよわっちいことで、血がほんの少し滲んでいる程度で、辞世の句(だいたい字余り)を読み始めるレベルであることだ。
立ち上がるよう急かすリゼリアに体を容赦なく叩かれながら、エリオットは左腕から搾り取ってようやく出てくるような血液を示して、弱々しく言った。
「あぁ…リゼ。ごめんな…僕はもうだめだ…こんなに血が出てきてしまっている…」
「貧弱すぎる!!!殿下…?今私たちは命の危機に迫っているのよ?!そんなこと言ってる暇じゃ…」
「で、でも怖いんだ!あの男、圧がすごいし…それに、いつになったら衛兵達がくるんだ…この銃声で気づか、な…」
エリオットがリゼリアの膝枕から起き上がろうと、目を開いた時、上から大量の血が落ちてきた。リゼリアが血を吐いていた。そしてその後ろには髭の生えた男が足音も聴かせずいつの間にかすぐ後ろに立って、白かったハンカチで彼女の口を押さえていた。
「毒か…」
「おや…ポンコツ王子と聞いていましたが、これが何かはわかるんですね。えぇ。ハンカチに毒液を染み込ませました。銃や剣で殺せれば手っ取り早かったんですが、彼女は物好きに引き渡す予定なので、綺麗な状態にしておかないと…」
男は眉を下げ、少し名残惜しそうな表情で、血のついたハンカチをひらひらと広げる。リゼリアの体は、エリオットの方にゆっくりと倒れた。
支えようと触れた肌がいつもの彼女ではなかった。
「リ、リゼ?リゼリア…?」
返事はない。周りは暗闇に包まれ、その中で彼女の真っ白な肌はよく見えた。口周りに彼女の肌の色では決してない色がついているのを見て、エリオットの息は荒くなっていく。
(死んだ…?リゼが…?そんなはずはない!リゼは僕より長生きするって約束したから…)
「っ、え、衛兵ーー!衛兵!どこだ!助けろーー!」
大きな王宮にはもちろん、一定間隔で衛兵が複数人配置されている。練習場におらずとも、この近くにいるようならば、先ほどの銃声や、声でこちらに集まるはずだが…、いくら呼びかけても衛兵どころか人1人来ない。目の前では鼻歌まじりに銃の手入れをしながら、こちらに銃口を向け続けている男。エリオットは、冷たくなってきたリゼリアの体を抱きしめながら、自身の死の覚悟をした。
「リゼ…リゼ…僕のリゼリア…」
「かわいそうに。返事もしない死人に話しかけてしまって…」
「っこのっ!」
さすがはポンコツ王子と言ったところか、明らかな挑発にもすぐに反応してしまう。しかし、リゼリアを決して離死はしないからボスに飛び掛かることはできない。どうするべきかとたじろぐ表情が顔全体に出ているエリオットを鼻で笑うようにしてゆっくりと銃口がエリオットの頭部に近づいていく。
「最期に言っておきたいことはありますか?」
‘すぐに忘れるでしょうけど’という言葉も付け加え、ボスはいつもの質問をした。
世界で一番愛してる妻が血を吐き、今まさに自分も殺されようとしているその瞬間、エリオットの頭の中にあったのはやはりリゼリアのことだった。
息をしているかも分からないリゼリアの体に顔を近づけ優しく頬を撫でながら、彼女の閉じた瞳をじっと見つめて言った。
「愛してるよ」
声を裏返しながら大の男とは思えないように惨めに涙を落とすエリオット。体全体がカタカタ震え、ボスへのせめてもの抵抗のように、決してリゼリアから目を離そうとはしない。並大抵の人間であったら、少しは愛する人との別れの時間を与えてやってしまいそうなほどのワンシーン。不幸だったのは、相手が10年以上育てた子供達を使えなければ、すぐに処分してしまう男であるということだった。慈悲という言葉など、彼の世界には存在しない。エリオットの惨めな姿にひとつも心が揺れることはなく、ボスはエリオットの頭部に焦点を当て、まさに指をかけようとしたその瞬間。
「止め!」
空を切り開くような声が、夜の暗闇に響いた。
***
暗闇の中に、一本の松明が浮かぶ。その光に浮かび上がるのは黒髪に燃えるように赤い瞳。この国の主人公、オースティン・バレンティアであった。息を荒げながらエリオット達のいるところへとものすごい勢いで走ってきた。その勢いに押されたのか、ボスもエリオットからスッと離れ、オースティンに道を譲った。
「リゼリア!エリオット!大丈夫か?!」
「リゼ…リゼ…」
エリオットはオースティンが来たというのに兄の方を見向きもせずリゼリアを抱く力を決して弱めない。リゼリアは抱きしめるエリオットに応えることなく腕が風にまかせて揺れていた。オースティンは、ボスを親の仇とも言わんばかりに睨みつけた後、屍のように動かなくなってしまったリゼリアに恐る恐る触れた。いつも堂々としているオースティンがいつになく戸惑っている。手首に触れ、弱々しくはあるものの確かに繋がっている脈に密かに安堵の息をもらした。
エリオットが、歯をガタガタ振るわせながらオースティンの方に目だけを向けた。
「リゼリアは…生きてるよな?」
オースティンは、大きなため息をついて頭を大きく抱えるそぶりをした。啜る泣く音を出しながらも、隠した口元では密かに弧を描いている。
「ま、まさか…!いやだ!うそだ!リゼリアは死んでない…!」
「落ち着け!エリオット!リゼリア嬢の遺体は私が運ぶ!お前は逃げろ!」
オースティンの主人公らしいセリフが飛んだ時、乱れていたエリオットの心がようやく落ち着いた。先ほどから少し気づいていた違和感。周りを落ち着いて見渡して、そして、一言。
「おい、オースティン…お前か?」
重く低い声が地響きのように練習場に響いた後、リゼリアに触れていたオースティンを勢いよく蹴り飛ばした。
「なぜあの男がお前を殺そうとしない?!」
先ほどまで赤ん坊のようにボロボロと泣き喚いていた男とは別人のように、オースティン達も一瞬気圧されるほどの剣幕でゆっくりと立ち上がった。赤ん坊のように首がすわらないリゼリアの頭を左手で胸にしっかりと抱き寄せ、剣を彼等の方に向けた。
「オースティン!お前!どういうつもりだ!」
その言葉と同時に、オースティンの口端は片方だけ上がっていた。唇を噛みながら小さくくすくすと笑った。ワックスで一本のハネ毛まで固めた髪を無造作に崩して口を開く。
「あー。ばれた?」
「僕だけじゃなく、リゼまで…。僕は皇位継承権なんていらないんだよ!だから王族会議だって欠席した!僕は、リゼと暮らせれば、それだけでよかったのに…!どうし…」
「リゼが選ぶのは僕なんだよ!結婚?!そんなもの!所詮は紙切れ1枚の約束だ!彼女に見合う男は、‘主人公’の僕しかいないんだよ!それしか許されない!」
「何を言ってるんだよ!リゼに振られて、正気を失ったのか?!」
オースティンはまるで、リエリアは自分のもので自分のもとに帰ってきて当然のものとして考えていた。生まれてこの方、出来の悪い双子の弟と比べられ賞賛されてきたが故の、絶対的な勝利への確信。その狂いっぷりに、エリオットも口を開けることしかできない。
「よし!じゃあリゼは私が連れていくから、早くアレを始末しといてくれ!」
「かしこまりました。…追加料金の方をいただきますが」
「仕事に見合った報酬は出す…だが私の命令以外のことはするな!さっきも、リゼに血を吐かせるなんて!減給だぞ!」
「…かしこまりました」
返事と同時に、ボスは素早くリゼを抱えている側の首周りに剣で切り込み、バランスを崩させたうちにオースティンの方へとリゼリアを渡した。
「リゼ!リゼ!」
「ポンコツ王子に彼女は似合わない!諦めてくれ弟よ!リゼリアは私のものだ!おい!殺し屋!お前は始末が終わったらすぐ城から出ろ!」
「…かしこまりました」
ボスの剣が再びエリオットに向けられる。流石熟練の殺し屋というべきか。エリオットはなす術もないまま、ただただ押され続けていき、リゼリアをどこかへと連れ去るオースティンのことも追えず、空に向かって叫んだ。
「リゼーー!」
***
『おい、オースティン…お前か?』
『なぜあの男がお前を殺そうとしない?!』
『オースティン!お前!どういうつもりだ!』
『あー。ばれた?』
『よし!じゃあリゼは私が連れていくから、早くアレを始末しといてくれ!』
――――――――
『リゼーーー!』
リゼリアは、夫の悲痛の叫びを聞いて、鉛よりも重たく感じる瞼を必死に力を入れて開けた。一定のテンポで自分の体がほんの少し揺れている。オースティンがリゼリアを抱えて笑顔で爽やかに走っていたのだ。身体中に鳥肌が立って一瞬息ができなくなった。毒を吸わされてから体はまるでリゼリアのものでないかのように動かなくなり、激しい痛みにも苦しめられたが、かろうじてエリオットたちの会話だけは一部始終聞いていたのだ。
(まさか、黒幕がオースティンだなんて…。)
ボスからは依頼人はあくまで第一王子派の単独行動だと聞いていたため、まさかあの‘国の主人公’と呼ばれる第一王子が暗殺に関わるどころか積極的だとはリゼリアは思いもしなかった。
「起きたか?」
ふとこちらを見たオースティンと目が合うと、彼は走る歩幅を狭くしてリゼリアに優しく問いかけた。
リゼリアは恐怖を携えながらやっとのことで声を出す。
「…お、…おろ…し、なさい…!」
「急に口調が変わったな。それが本物のリゼリアか?いいな。それも興奮する。もう少しで私の部屋に着くから…解毒薬を飲ませるからそれまでの辛抱だ」
「お、お願、い…エリ…オ、ット殿下、を、ころ…さない、で」
「無理だ。邪魔だから」
優しい笑顔を崩さないまま、リゼリアの渾身の頼みを吐き捨てる。そして部屋へ行く足は決して止めなかった。
オースティンの部屋に着いた。大量の本が書棚に並んでいて、これだけ見れば勤勉な王子という印象しか抱かないだろう。ベッドにリゼリアを寝かせ、オースティンもその近くに座る。
「血をたくさん吐いていたよな…?どこから出血してたんだ?治療をするから教えてくれ」
「痛むところはないか?大丈夫か?私がリゼリアを助けよう」
「え、ルを…助け、て…」
「無理だ。嫌いなんだ」
一見相手のことを心配しているようだが、その実、自分が相手を救うという事実を欲しがっているだけでその中に愛情も思いやりも、何も含まれていない。
(この男…狂ってるわ)
オースティンはリゼリアの懇願に聞く耳を持たず、忘れていたとばかりにたくさんの瓶が並べられた棚から一つの小瓶を取り出した。
「ただでさえ白い顔がより一層白くなってしまって。可愛想で見ていられない。ほら、解毒剤だ」
飲むと確かに体の中の赤血球一つ一つについていた重りが全て落ちたかのように体が楽になった。それでもまだ体は思うように動かせず、普通の会話をするので精一杯だった。
(エリオットがボスに勝てるわけないわ…!あと少しすれば体も動き始めそうだし、それまでにできるだけ有利な情報を集めておかないと…)
オースティンの態度を見るにすでに自分の勝利を確信しているようであった。ここでいう勝利とは王座の確約、そしてリゼリアの略奪。エリオットはボスに始末されるだろうし、そうすればリゼリアはオースティンの妻として新しく迎え入れることができる。彼の勝利は目前。だからこそ、本人も気づかないうちに気が緩んでいるようだった。
(ネタバラシ…という体で私に情報を話すかもしれない)
怒りと焦りで乱れる心をどうにか落ち着かせ、オースティンの方を見る。
「なぜ、ボスが王宮に入って来れているんでしょうか?」
オースティンはリゼリアの思惑を見透かしたが、自分の勝利に酔ってつい調子よく話してしまった。
「正義というのは便利だ。悪を懲らしめるためなら、何を得ても、何をしてもいいんだから。」
リゼリアの頭に舞踏会が思い出される。
(舞踏会の中で小耳に挟んだ。第一王子の誕生日プレゼントは悪徳商人の密輸経路を記したものだって…まさか。)
「この王宮の中にある王族でさえ知らないような経路を把握して、そこからボスを忍び込ませたのですか?」
「それだけじゃない。王族会議で、労働環境改善と称して使用人と衛兵の勤務時間と人数を削減させた。そのお試し版で、王族会議中に君がエリオットを殺してくれることも期待してそこら一帯に使用人が来ないように配置したんだけれど…、」
オースティンは眉を下げリゼリアを憐れむような目で見つめる。
「リゼはできなかった」
「…で、ですが、今日の夜、王宮の外であれだけ騒いでも人が来ないというのは、人員配置の不徹底を咎められていたのでは?」
「悪いのは、居眠りをして間抜けに殺されていった衛兵たちさ。私がやったのは、衛兵たちを家に帰らせないほど働かせて、睡眠時間を減らしたくらいだ」
「そ、そんな…王宮の外の衛兵は少なくとも30人は超えるはずです…なんの罪もない人たちを…あなた方のために忠誠を誓って働いている方々をそのように殺したというのですか?!」
「忠誠を誓っているんだったら、私のために喜んで死んでくれるだろう?」
王宮ですれ違った時と同じような人当たりのいい笑みを浮かべながらオースティンは言う。自分が正しいと信じて疑わないそんな表情にリゼリアは不気味さを感じた。しかし、まだ体を動かすことができない。両手の感覚が戻りつつあるがまだ痺れるようで動かすことは難しかった。
不意にオースティンが座っていた椅子を降りて、リゼリアに目を合わせるようにしゃがんだ。
「リゼ」
甘く優しい声をかけて、リゼリアの横たわるベッド、彼女の顔の横にオースティンもコテンと頭を置いた。
「私は君のことを愛しているんだ!」
そして体もベッドの上に乗せる。
「邪魔者はもういない。今こそ契りを交わそう!」
オースティンの手がリゼリアの頬を伝う。リゼリアは必死の思いで唇を逸らす。
(エリオットが悲しむ…でも、ようやく腕が動かせるようになったのに、体を起こすなんてまだできない)
リゼリアは一つの決心とともに、女神のようなやわらかな微笑みを、オースティンに示し口を開いた。
***
「オースティン様。私も愛しています」
そう言って横にいるオースティンの首にふわりと腕を回す。腕だけでなく、体も感覚が戻ってきて、ただ痺れで動けない状態になってきた。あと少しで体全体が動くようになりそうだ。
(痺れがなくなるまではそこまで時間がかからないようね。だったら、それまでオースティンの気を引いて時間を稼がなきゃ。それに…)
リゼリアはドレスの左袖にある細い膨らみを確認する。太ももにつけていたナイフ同様携帯していた針だ。人間の首元にある神経回路を傷つける暗殺器具だが、今は腕の力が戻ったと言ってもまだ神経の位置を把握してさせるほどの感覚は戻ってきていない。失敗すれば終わり。だからこそリゼリアは慎重に事を進めようとした。
「私めにはすでにエリオットへの気持ちなど残っておりません。ですからどうか気をせかさず、ゆっくりと仲を深めていきませんか?」
オースティンと鼻がつくほどの距離で悪魔のような赤い瞳をおびえを見せる事なく、じっと見つめる。
するとオースティンは一瞬固まった後、先ほどより少し落ち着いた声で言った。
「あ、あぁ…!嬉しいよ!リゼと愛しあえて」
「うふふ…オースティン様ったら」
(リゼリア…耐えるのよ。ここで間違えたら、終わりよ)
笑顔の仮面を貼り付けるリゼリアを抱きしめて、そのままの優しい口調でオースティンが言った。
「ところで、リゼリア…その左腕に隠しているものは何かな?」
「…え?」
***
「腕に何か細い小さな…針でも入れているね?ダメな子だ。」
「…化け物ね」
(小指ほどの小さな細い針…一瞬オースティンが強く抱きしめた時に勘付いたのかしら。だとしても感覚神経が鋭すぎるわよ)
リゼリアの腕から小さな針を取り出し、彼女の目の前で無惨にへし折る。そして、オースティンは悲しそうに言った。
「残念だ…リゼリア。君とは最高の夫婦になれると思ったのに…」
その言葉で、リゼリアは悟った。
(さっきからの表情で薄々気づいていたけれど、この程度で私を捨てるってことは、この男はただエリオットの妻を奪いたかっただけのようね)
そして、それと同時に自分に命の保障などないことも悟った。
(完全な詰み。エルを助けに行くことさえもできない。最期は少しだけ噛みついて終わりましょう)
リゼリアは悲鳴を上げる体を叩き起こし、オースティンを睨みつける。
「は!何を言っているのよ!エリオ…エルのものを奪い取りたかっただけでしょう?!それでもう満足したから捨てるってことでしょう!」
「違うさ!君を本当に愛していたよ…!」
「早く殺すなら殺しなさいよ!」
その言葉に、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにほんのりと頬をピンクに染めながらオースティンは笑顔で頷いた。リゼリアの体を全身で覆って少しずつ、少しずつ力をこめていく。
「私は、主人公として悪と呼ばれるものを全部壊すのが大好きなんだ。海賊たちを殺す時は、その家族も全部…調子がいい時は近所の人間や親族も殺す…それも、海賊たちの目の前で…。」
「狂、って…るわ…!」
「リゼリア…君も主人公の正義の下、悪として綺麗に死んでくれ。明日の都での新聞の一面には‘第二王子を殺害!2度目の稀代の悪女を第一王子が成敗!’と言ったところかな」
「…ふ、ざけ…かハッ!」
「そろそろ気道が確保できなくなったかな?あの殺し屋の真似でもしようか。…最期に言い残したいことは?」
意識が途切れそうになる中、リゼリアはエリオットの言葉を思い出す。
――『愛してるよ』
リゼリアは気づいた。
リゼリアのことを優しい目でじっと見つめる彼を、
危険なことがあれば、いつでも駆けつけてくれる彼を、
‘リゼリア’という忌むべき名前を好きだ、と笑う彼を、
愛していると。
搾りかすのような空気を最後の力で振り絞って、掠れた声を精一杯出す。
「え、ル…わ、たし、も…」
「リゼーー!」
リゼリアの耳に、エリオットの叫び声が聞こえた。最期の幻聴なんだろうか。しかし、その声は何度も聞こえてくる。
「リゼ!リゼー!リゼリア!僕の愛するリゼリア!」
その声はついにオースティンの部屋の中に響いた。オースティンが顔を顔を顰めリゼリアを締める腕を少しだけ緩めて、ベッドから立ち上がり、彼女を人質にするように首元に手をかけた。ドアの前に荒い呼吸をしながら怪我の一つもないエリオットが立っていた。エリオットがドアの中に踏み込もうとすると、オースティンは首を締める力を強めて動かないよう強迫した。
「エリオット…どうしてここにいる?」
「お前その汚い腕をどけろ!リゼリアに触れるな!」
「リゼリアは私を愛しているんだ!さっきはベッドで2人抱き合った」
リゼリアはオースティンの彼女の首を締める腕がわずかに震えているのを感じた。しかし、瞬きを一度した後、その腕が急に床下に赤い液体と共にぼとりと重々しい音を立てながら落ちていった。そしてもう一度瞬きをすると今度は自分の体は、エリオットの体に優しく抱き寄せられていた。彼の顔には涙の跡でひどく赤みがあるものの、その目に恐怖は映っておらず、怒りの色が出ていた。
「う、うわぁぁぁ!!」
左腕を切り落とされたオースティンは、狂ったように叫んだ。切り落とされた腕の付け根から血が滝のように流れ出る。リゼリアがエリオットに状況を尋ねるより前に、オースティンの首に剣を当てた。その剣を構える姿勢は、今までに見てきたへっぴり腰王子とは似ても似つかないほど、毅然としていた。
「リゼ!リゼリア!僕の愛するリゼリアの首にこんな青あざを作るあいつを愛してるなんて嘘に決まってるよな?嘘だよな?」
リゼリアの方を向いた瞬間その姿はまたいつも通りのエリオットに変わった。
「嘘に決まってるでしょ!?それより、どうしちゃったの!エル!」
リゼリアはいつもと別人のようなエリオットに困惑し、袖を引っ張ってオースティンの首に当てた剣を下ろそうとするが、びくとも動かない。
エリオットは、オースティンに剣を突きつけながらも、リゼリアの方をじっと見て締め傷以外の傷がないかを確認して、頬を優しく撫でて笑った。
「これは僕が蒔いた種なんだ。責任は僕が取る」
「せ、責任って…」
「は、はは…あはははは!エリオット!なにが‘僕が蒔いた種’だ!何もかもお前のせいだろうが!天才に、俺の気持ちの何がわかるっていうんだよ!」
大声を発して立ち上がり、リゼリアへと向かおうとしたオースティンの足の腱を、また、一度の瞬きのうちに切った。オースティンは呻き声を鳴らす。リゼリアは、先ほど言ったオースティンの言葉が忘れられないでいた。
「て、天才…?一体どういうこと…?」
***
リゼリアの混乱する顔に、オースティンはニヤリと笑った。周りは血の海のようになっているというのにもはや痛覚さえも感じ取れないのか、嬉々として語った。
「は!エリオット、お前、リゼリアにもこの話をしていないのか?!」
「は、話…?」
リゼリアは、オースティンとエリオットの顔を交互に見る。エリオットはリゼリアを抱きしめながら、オースティンを睨み続けている。
「確かに全てエリオットの手柄だ…私の功績は」
「え…?」
「けど、エリオットが賞賛されるなんて世界はいらない!だから全部ぐちゃぐちゃにしてやるんだよ!私と!お前!」
オースティンは充血した目を大きく開いて、今までの全てを吐き散らかすように怒涛の勢いで血を飛ばしながら叫んだ。
(ちょっとした違和感はあった。)
「そうすれば、残るのは私だけなんだ!…私は‘主人公’だからなぁ!」
エリオットが得られるはずだった賞賛を奪い取り、国を愛して守ってくれた人々を殺し、あまつさえエリオットの心に深い傷を負わせるオースティンに、リゼリアは心の底から沸々と怒りが込み上げた。
(これはもう、救いようがない。エルに殺させたくもない…)
リゼリアは、エリオットの腕の中から抜け出した。
「リゼ…?」
エリオットの握る剣を奪い取り、エリオットの声は聞こえないふりをした。荒い息をあげるオースティンの後ろに立つ。
「な、なんだ?!リゼリア!何をする気だ!」
「もう、やめて」
オースティンの背中から一気に首に剣を突き刺した。吹き出た血でリゼリアが赤く染まる。
「リゼ…」
真っ赤になったナイフを投げ捨て、リゼリアは真っ直ぐとエリオットの方を向く。
「私は汚い人間。」
言葉が詰まる。
「たくさんの人を、殺した。でも…あなただけはできないの」
鮮血を顔に滴らせながらも、まっすぐと殺し屋は王子を見つめた。その目には涙も浮かんでいる。
「…リゼリア。僕も愛してる」
エリオットは優しく、リゼリアの頬に触れる。
リゼリアもその上に手を重ねた。
ただ目を閉じた。
***
血の匂いが部屋の中に充満した。リゼリアは窓を開けて、涼しく爽やかな風を部屋の中へと入れる。窓の外を見ていると後ろから、エリオットがハグをして、彼の声がリゼリアの耳元で聞こえた。
「全部、話すよ」
「えぇ…」
リゼリアはエリオットの腕に手を添えて、ゆっくりと頷いた。エリオットはぽつりぽつりと口を開き始めた。
「…初めは、ちょっとした悪戯のつもりだったんだ。オースティンと僕は、小さい頃は髪と目の色は違うけど、顔はそっくりでね。たまに入れ替わって遊んでいたんだ。」
「そう」
リゼリアは小さく優しく相槌を打つ。
「でも、ある日、オースティンに変装した僕が、剣術の授業に出たことがあってさ。相手は当時の騎士団長だった。オースティンとして見られてるなら、多少派手にやってもエリオットは怒られないだろうって思って……そのまま本気でやって、騎士団長をボロボロにした。」
「うん」
「そしたら次の日からオースティンへの周りの態度が変わったんだ…神童だの、剣聖だのって、持て囃されるようになった。それでオースティンは味を占めた。」
「うん」
「それからは、剣術だけじゃない。学問でも何でも、僕と入れ替わって、自分の功績にした。エリオットとしては、出来損ないを演じろって言われてね。不思議と、それに対して怒りも湧かなかった。それが当たり前だと思ってたから。まあ、あいつも何もしてなかったわけじゃない。評価に見合うくらいには、剣も学問も身につけてたし。だから、誰も疑わなかったんだ。」
「えぇ」
「成長して、さすがに顔での入れ替わりは無理になったけど、今度は、人前に出なくてもいい功績を選ぶようになった。反乱軍の鎮圧とかね。ほら、鎧で頭を隠してしまえばわからないから…。思えば、僕が初めから拒否していればここまでオースティンは空っぽの功績に苦しむことはなかったんだろうな」
「…それは違うわ。選んだのはオースティンよ。それに、彼はあなたを苦しめるためだけに、何十人を殺した。これは彼の罪よ。あなたの罪は…」
リゼリアはくるりと回転し、エリオットの方を見た。
「私に、その秘密を言わなかったことよ。そして、それだけ。」
「でも、君にも秘密はあっただろう?殺し屋だって…」
「それは…確かにそうね。じゃあ2人で一緒に罰を受けましょう」
「あぁ。一緒に。」
***(ボス視点)
「よし!じゃあリゼは私が連れていくから、早くアレを始末しといてくれ!」
「かしこまりました。…追加料金の方をいただきますが」
「仕事に見合った報酬は出す…だが私の命令以外のことはするな!さっきも、リゼに血を吐かせるなんて!減給だぞ!」
「…かしこまりました」
世間では‘主人公’などと呼ばれているはずのこの傲慢な王子から依頼を受けたのは3年前。
『消したい記憶がある』
一生豪遊して暮らせるほどの報酬を約束され、しかも半分は前払いをすると言われるのだから引き受ける以外の選択肢はなかった。そして一番腕の立つ者を王宮に送り込んだというのに、それが欠陥品だった。この依頼は達成できなければ報酬は受け取れないのはもちろん、大きな依頼に失敗したという汚名を着せられることになる。だからこそ、若い頃は今なお語り継がれている稀代の悪女、リゼリアと共に殺しの名を馳せてきた私自身が、処分と依頼の遂行を行うことにした。そして、自分の作った欠陥品と、世間で有名なポンコツ王子など、すぐに殺せると、若い頃と同じように狩ろうとしてしまった。
しかし、今となっては後悔している。
「カヒュー…カヒュー」
暗殺対象に斬られた。世間で‘ポンコツ王子’と呼ばれる男に、反撃する暇もなく。何が起きたのかわからなかった。歳をとって鈍ったのか、痛みはそれ程ではなかったが、怪我の状態を見て自分が長くないと察した。だが、もともと生い先短い人生。私が死んだ後の引き継ぎは滞りなく行われるはずだ。自分の生が今まさに終わろうとした時、私は地獄への土産に対象と話をしたくなった。
「第二王子!待ち、なさい!」
暗殺対象は持っていた武器とともにこちらを振り返る。やはり恐ろしい。対象が手に持っているのはほんの少しはの当て方を間違えればすぐにでも折れてしまいそうなほど、薄い刃を持つ剣。目つきは飢えた狼のようで、底知れぬものを隠しているように思えた。一体、これのどこが、‘ポンコツ王子’だというのか。
私はやっとの思いで足を動かし、立ち上がった。しかし、決して苦しい表情は顔に出さず、余裕そうな紳士的な笑みを浮かべる。若い頃に会得した止血術で、後ほんの少し残された時間はあった。そして、こちらの息の根を止めようとする対象に一つ、質問をした。
「素晴らしい腕前で、すね。しかし、なぜ今になってその力を明かしたのですか?もう少し早く、使ってい、れば私にもすぐに勝てていたでしょう」
「…僕は自覚なしに、これを記憶の端に追いやっていったんだと思う。リゼリアのために。…でも、それをお前たちが開けてしまったんだ。オースティンに、裏切られるなんて思いもしなかった」
「ふ。パンドラの箱だったと、いうわけですか。あぁ、あとそれから…」
「なんだまだあるのか」
めんどくさそうな雰囲気を出してはいるが、第二王子は人の心を持っているようだ。まだ私の命を狩ろうとはしない。
「リゼリア、とい、う名前…あなたはどう思いま、すか?」
「私の愛する人の名前だ」
「…それは、よ、かった」
「それがどうした?夜の死神…シュヴァン。」
「!?その名前…」
不思議な人だ。自分を殺そうとして、妻を殺した相手に話す時間を与えるだけでなく、忘れられた私達の名前を口にするとは。
与えられたのなら、私もそれに応えなければならない。
妻が目の前で血を吐き、死んだと言われた第二王子は既に目の中に光はなかった。
「…私が今回使った毒は、市場でも流通する一般的なもので、す…。解毒薬もあり、ます。…あの第一王子ならまず間違いなく持って、いるだろうし、リゼリアに飲ませ、るでしょう…」
終始俯いていた第二王子の目に微かな光が宿る。
「…っ!」
あぁ。私にとどめを刺すよりも前に、走ってリゼリアの方へ向かっていってしまった。私は残りの時間、1人で星空を見上げていた。
『リゼリア』
私の最高傑作につけた名前。世間ではその名前を口にするだけで村八分にされる人々が最も忌み嫌う女の名前。そして私の愛する人。
力を持たないものたちのために立ち上がり、そして悪として潰された女。私だけが彼女がどんな人間だったかを知っているというのに、私は人を殺す道具に彼女の名前をつけてしまった。彼女がこの世界に残り続けるために。誰かが、私の代わりに愛する彼女の名前を呼んでくれるように。




