カツ丼と少女と料理研究部
今日も大衆食堂「かつの屋」の店内は熱気に包まれていた。
「泰彦、お前は三番席で注文のあったカツ丼を頼む。俺五番と八番十番席用の日替わり定食を作るから」
「了解、親父。カツ丼終わったら俺もそっち手伝うよ」
「すまん、助かる。でも手ぇ抜くなよ?」
「当然。俺はカツ丼に人生をかけてるんだ」
そう言うと、俺と親父は各自の作業に取り掛かる。
俺は冷蔵庫から豚のロース肉を取り出した。
そして、豚肉を小麦粉、溶き卵、パン粉の順にくぐらせていく。
油の温度は一八〇度。適温のフライヤーの中に衣を纏った豚肉をそっと滑り込ませる。
じゅわあっ。
弾ける音を立て、香ばしい匂いが漂う。
片面を揚げ、ひっくり返して再び揚げる。
俺はカツが揚がった瞬間を見逃さないよう目を凝らす。
徐々に泡が小さくなり、チリチリと高めの音を出し始めた。
――ここだ!
俺は一瞬の合図を見逃さず、完璧なタイミングでカツを油から引き上げた。
カツの油切りをしている間に、小鍋を準備する。
小鍋にだし、醤油、みりん、砂糖を入れ、火にかける。甘辛い香りが立ちのぼる中、薄切りにした玉ねぎを落とし、しんなりするまで煮る。
その間、油切りを終えたカツを切り分ける。
ザクッ、ザクッという心地のいい音が鳴った。
そして、そのカツを小鍋に投入する。
サクサクの衣がだしを吸い、しっとりしていく背徳感がたまらない。
仕上げに溶き卵を、円を描くように回しかける。
最後に丼に盛ったご飯にカツとじを乗せ、真ん中に三つ葉を飾れば……カツ丼の完成だ。
満足のいく出来栄えに感慨に浸るのも束の間、俺はすぐにカツ丼を届けるため歩きだす。
「カツ丼お待たせしました」
俺は注文があった三番カウンター席に座る少女の前に丼を置いた。
少女は湯気の立ち上るカツ丼を見て目を輝かせると、静かに「いただきます」と言って食べ始めた。
俺がちらりと目を向けると、カツをかじった彼女はとても幸せそうに頬を綻ばせている。
あの表情が見られただけで俺の心は満たされるのだ。
俺は親父の手伝いをするため、足早で厨房に戻っていった。
◇
昼時も過ぎ、客の数もまばらになってきた。
手が空いたので皿洗いをしていると、フロア担当の俺の姉京香が話しかけてくる。
「泰彦、三番席の人が呼んでるよ。このカツ丼を作った人と話したいって」
「……分かった。すぐ行くよ」
この手の呼び出しはたいていろくなことが無い。今までも理不尽なクレームを何度も受けてきたのだ。
俺は洗い物の手を止め、未だ三番席に座っている少女の方へ行くと、彼女の隣に立った。
それに気づくと、少女はこちらに体を向けた。しかし、目線は下を向いたまま手をもじもじさせている。
俺が声をかけようと口を開いた瞬間、少女は急に顔を上げた。
「あ、あの!」
若干上ずった声が喉の奥から発せられる。
彼女ははっきりした目で俺を見つめると、一度大きく息を吸って、叫んだ。
「私は、あなたが欲しいんです! 私の部活に入ってください‼」
……いきなり何を言い出すんだこの人は。
急な少女の大声に店内は静まり返っていた。
あっちの席の客はチキン南蛮を食べる箸が止まっているし、親父はこちらに気を取られ、火にかけた野菜炒めを焦がしている。
「ちょっと君、こっち来て」
この空気はまずいと思い、俺は彼女を店の一番端の二人掛けのテーブル席に案内した。
席に着くと、俺は少女の前に水を用意する。
「ええと、俺全然話についていけないんだけど、順番に説明してもらっていい?」
「……すみません、急に変なこと言いだして。私、感情が高ぶるといつも周りが見えなくなっちゃって……」
少女は恥ずかしさで真っ赤になった顔を隠すように両手で覆っている。
少し経つと落ち着いたのか、手をどけて自身の顔を見せてくれた。
黒髪のストレートロングに二つのリボンが結ばれている。さっきまでは気づかなかったが、とても綺麗な顔立ちだった。
「私は桃瀬玲奈と言います。水都高校の一年生です」
「俺は勝野泰彦。俺も水都高校の一年なんだけど、桃瀬さんとは会った覚えがないんだが……」
「はい。私も今日初めてあなたと会いました」
あんたも初対面だったのかよ。でも、それならなおさら意味が分からない。
「……それで、桃瀬さんは初対面の俺になんの用なの?」
そう言うと、桃瀬は頬を赤らめ、俺を上目遣いで見てくる。
「一目惚れだったんです…………あなたのカツ丼に」
「はあ」
びっくりした。一瞬告白されたかと思ったじゃないか。
俺の気の抜けた返事に対し、桃瀬は話を続ける。
「私、食べることが大好きなんです。だから今日みたいな休日にはよく街中の飲食店巡りをしているんですよ」
「いいじゃないか。俺もよく食べ歩きするよ」
まあ、俺の場合は他の店の研究のためなんだが。
「私が今まで訪れたどんな店の、どんな料理よりも、あなたのカツ丼は群を抜いて美味しかった。勝野さんの情熱があの一杯から伝わってきました。いろいろな料理を食べてきましたが、これほど感動を受けたのは初めてです」
桃瀬は今でもカツ丼の余韻に浸っているようだ。
「そんなに喜んでもらえて嬉しいよ。俺も頑張って作った甲斐があった。……それで、部活って何?」
俺が一番気になっていた質問を口にすると、桃瀬は待ってましたと言わんばかりに目を輝やかかせる。
「私の部活は料理研究部。この世のあらゆる料理を研究し、自ら最高の料理を生み出して、みんなを幸せにする部活です。つい先日私が作ったばかりなので、部員は私だけなんですけど」
思ったよりも出来立てほやほやの部活だった。入学直後の部活動見学の時にはそんな部活なかったし。
「なんだか、すごい壮大な部活なんだな。飲食店巡りも活動の一環なのか?」
「そうですよ。料理を食べた後には必ずレポートを書くようにしているんです。先ほど頂いたカツ丼のレポートも書いたので、見てみますか?」
いつの間に書いたんだ。食べ終わってから三十分くらいしか経ってなかった気がするのに。
「ああ、じゃあ見せてくれ」
桃瀬はカバンの中からA4サイズのファイルを取り出すと、俺に手渡す。表紙には、「料理研究レポート」と書かれていた。
中を開くと、一番上にさっき食べていたカツ丼のレポートがあった。
まず目に入ったのは非常に精密なカツ丼の絵。その料理がどんな見た目で、提供される側がどんな印象を抱くのかが一目でよくわかる。さらに、使用されている具材や調味料、調理方法などが、まるで桃瀬が調理に立ち会ったかのような正確さで記入されている。具材の産地や調味料のメーカー、揚げる時間までもが秒単位で当てられているのだ。
そして、食べた感想が残りの余白にびっしりと埋め尽くしている。桃瀬の心の声がひしひしと伝わってくる感想から、彼女は本当に食べることが大好きなんだなと感じられた。
「……すごいな」
思わず自然と声が出ていた。いや実際本当にすごい。そこらのグルメ雑誌顔負けの完成度だ。
「ふふ、ありがとうございます。私、味覚には自信があるんです」
自身があるとかいうレベルの話じゃないと思うが、深くは追及しないでおくことにした。
「ちなみに、他の店の料理のレポートもはさんでありますので、良かったら見てくださいね」
俺はパラパラとページをめくった。同じ商店街の中華料理屋、駅近くのハンバーガーチェーン店、隣町のレストランなど、多くの店の様々なジャンルの料理が同じように分析され、まとめられていた。
同じ飲食店関係者として、非常に興味深い情報ばかりだ。気が付くと、時間を忘れてファイルの最後のレポートまで読み切ってしまっていた。
「見せてくれてありがとう。本当に面白いレポートだったよ。あとごめん、待たせてたよな」
「いえ、良いんですよ。私の研究を楽しんでいただけて嬉しいです」
桃瀬はにっこりとほほ笑みを見せる。
そして、再び表情を引き締め、はっきりとした強い意志のこもった目で俺を見てくる。
「改めて勝野さん、私の料理研究部に入っていただけませんか? 私も、あなたに負けないくらい料理に対して熱い思いがあります。私と一緒にもっと料理の世界を楽しんでいきませんか?」
桃瀬の切実で、まっすぐな頼み。
この提案は本当に魅力的だ。こんなにも料理に情熱を持った人が同じ学校にいて、俺の腕を買って部活に勧誘してくれるなんて今後二度と起こらないだろう。
しかし、俺は……
「ごめん、桃瀬さん。誘ってくれて本当に嬉しいんだけど、俺には親父の店の手伝いがあるから、部活には入れな……」
「ちょっと邪魔するぜい」
俺の言葉を遮るように頭にタオルを巻いた中年の男が乱入してきた。……親父だ。
「途中からだが話はだいたい聞かせてもらった。嬢ちゃん初めまして。俺はこいつの父です。」
いきなりの親父の乱入に、桃瀬はあたふたしている。
「こ、こちらこそ初めまして。桃瀬と申します。ほ、本日は泰彦さんに部活動の勧誘の件でお話しさせていただいてます」
「いやー嬢ちゃんありがとうな、泰彦に声をかけてくれて。俺としても、泰彦をうちの店に縛り付けてる気がして心苦しかったんだ。是非とも貰って行ってくれ」
親父はニカッと笑いながら桃瀬にグッチョブをした。
「親父、良いのか? 店の手伝いとかは……」
「そんなもん気にするな。バイトが一人増えるだけだ。お前の穴埋めは俺に任せろ」
親父はどんと自分の胸を叩く。
「せっかく高校に行ったんだから、部活でも何でも好きなことやって、楽しんで来い。その経験も大事な勉強だ」
「……ありがとう、親父」
いつにも増して、親父の背中が頼もしく見えた。
俺は再び桃瀬の方へ向き直る。
店の問題は解決した。もう俺の懸念する要素は何一つ残っていない。
「桃瀬さん、さっきの言葉訂正するよ」
これが嘘偽りの無い俺の本心だ。
「俺は、もっと料理を研究して、最高の一品を作れる料理人になりたい。だから、俺を料理研究部に入部させてくれ」
「はい。もちろんです!」
満面の笑みを見せる桃瀬の目には喜びの涙が浮かんでいた。
この日、俺は料理研究部に入部した。




