第三十二話 新風帝と、平和なひととき
光神教会区域。
白亜の大ホールは、今日も厳粛だった。高い天井、磨かれた石床、壁一面に刻まれた聖句。
だが、そこに集う者たちの空気は、どこか歪んでいた。
最前列。
麒麟の席は埋まっている。
青龍も、背筋を正して座している。
朱雀は、肘をつき、どこか気だるげだ。
そして、玉座が二つ空いていた。
玄武。
白虎。
かつて四神が揃っていたはずの場所に、欠けた穴のような沈黙が落ちている。誰も、その空席に言及しない。まるで、最初から存在しなかったかのように。
ホール中央に、一人の信者が膝をついていた。風翔国から逃げ延びた男だ。衣は裂け、声は震えている。
「……ご報告いたします」
喉を鳴らし、言葉を絞り出す。
「玄武様は……敗北されました」
ざわめきが起こる。だが、すぐに沈静化する。ここにいる者たちは、感情を制御することを叩き込まれている。
「討ったのは、黒炎龍を宿す者、ミリア」
その名に、朱雀が大きくあくびをした。
「はぁ〜……またその子かいな」
指で目元をこすり、興味なさげに言う。
「正直、もう聞き飽きたわ。玄武はんも、運が悪かったんちゃう?」
青龍が、静かに視線を向けた。
「……朱雀様」
口調は柔らかいが、制止の意を含んでいる。
「事態は、決して軽くありません」
「そぉ?」
朱雀は肩をすくめる。
「玄武はん、風翔国におったんも一年あるかないかやろ。地盤も信仰も、根ぇ張る前や」
信者が、恐る恐る補足する。
「は、はい……玄武様が派遣されたのは、比較的最近で……」
朱雀は、ほれ見ぃ、と言わんばかりに手をひらひらさせた。
「そないな場所で負けたんやったら、それまでやろ」
青龍は、ゆっくりと首を振る。
「……そういう問題ではございません」
そして、信者に視線を戻す。
「続けてください」
「はっ……」
信者は、深く頭を下げてから続けた。
「ミリアは、玄武様を討った後……風翔国の民に推され、帝として迎えられました」
一瞬、空気が止まる。
「帝、ですか」
青龍の声が、わずかに低くなる。
「形式上とはいえ、国家の頂点に立ったと?」
「……その通りです。風帝ミリアとして、即位しております」
青龍は、目を伏せた。
「黒炎龍の器が、国家を統べる立場に……」
その声には、明確な危機感があった。
「それは、神の道具が守られる存在になったということ。教団にとって、看過できない変化です」
朱雀は、鼻で笑う。
「大げさやなぁ。ガキが王冠被っただけやろ?」
だが。
麒麟が、静かに口を開いた。
「いいや」
場が、引き締まる。
「青龍の言う通りだ。問題は、即位そのものではない」
麒麟の視線が、空席の玉座を一瞬だけ掠める。
「黒炎龍の器が、破壊ではなく“統治”を選び、それを民が受け入れた」
淡々とした声。
「それは、偶然でも感情でもない。世界が、あの少女を“役割”として認め始めた証だ」
朱雀は、少しだけ目を細めた。
「……ふぅん」
青龍は、静かに頷く。
「つまり」
一拍。
「黒炎龍の存在は、もはや秘匿すべき異物ではなく、表に出た脅威になった、ということですね」
「その通りだ」
麒麟は即答した。
「玄武の死も、白虎の不在も、その流れの一部に過ぎない」
大ホールに、重たい沈黙が落ちる。
空席は、何も語らない。
だが、その沈黙こそが、教団の綻びを雄弁に示していた。
朱雀が、もう一度あくびをする。
「ま、ええわ。どう転んでも、面白うなってきたんは確かや」
青龍は、目を閉じた。
「……戦場は、もはや個ではありません。国単位の衝突になるでしょう」
麒麟は、静かに告げる。
「黒炎龍の少女は、神話で終わらない」
そして。
「我々もまた、後戻りはできない」
光神教団は、静かに理解し始めていた。
新たな帝の誕生は、世界の均衡が、確実に崩れ始めた合図であることを。
その決断が、世界に届くまでに、一年の時が必要だった。
季節は巡り、ミリアが風帝となってから、ほぼ一年が経過した。
薄紅色の髪は、もう肩を越えて伸びている。
そして彼女は、この春で二十二歳を迎えていた。
風翔国は変わった。
争いは消え、街道に剣を携えた兵が立つことも減った。畑は荒れず、市場には笑い声が戻り、子どもたちは城壁の影で追いかけっこをしている。
平和だった。
疑いようもなく。
玉座の間。
ミリアは、相変わらず玉座に座らず、窓際に立っていた。風が吹き抜ける。かつて重苦しかった城内は、今では穏やかな空気に満ちている。
「……いい国になったな」
ぽつりと、ガンドロフが言った。
巨躯の男は、兵士長としての役割を完全に受け入れていた。規律は厳しいが、無理をさせない。戦えない者を、無理に前に出さない。
それを、ミリアは信頼していた。
「うん」
短く答える。
側には、アネモネがいた。白いローブに身を包み、穏やかな微笑みを浮かべている。
彼女は、もう怯えていなかった。
かつてのように、命令に縛られ、価値として扱われる存在ではない。癒すことを、自らの意志で選び、誰かのために力を使っている。
「ミリア様」
アネモネは、そう呼ぶときだけ、ほんの少し照れた。
「この国は……あなたがいたから、変われました」
「大げさだよ」
ミリアは首を振る。
「みんなが、頑張っただけ」
だが、アネモネは否定しなかった。
否定できなかった。
暗い日々。
玄武という名の支配。命を奪うためではなく、維持するためだけに使われた力。
それを終わらせたのが、目の前の少女だった。
強くて、優しい。
誰かを踏み台にしない王。
だからこそ、アネモネは、心を許していた。
中庭では、金属音が響いている。
「そこ、甘ぇ!」
ガンドロフの怒声。
ルシオとエリオは、汗だくになりながら剣を振るっていた。一年前とは、別人のような動きだ。
まだ、最前線を任せられるほどではない。
だが、逃げない。折れない。
守る理由を、もう持っているからだ。
ミリアは、その光景を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
(……平和だ)
あまりにも。
光神教団の動きは、一切入ってこない。
偵察も、噂も、使者もない。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
それが、気にかかっていた。
夜。
執務机に向かいながら、ミリアはペンを止める。
胸の奥に、言葉にならない違和感があった。
理由は、ない。
根拠も、情報も、何もない。
ただ。
(……静かすぎる)
戦いを知っている者ほど、分かる。
本当の終わりは、こんな顔をしてやってこない。
ミリアは、窓の外を見る。
穏やかな月明かり。
眠りについた街。
守りたいものは、確かに増えた。
だからこそ、嫌な予感は拭えなかった。
風は、今日も優しく吹いている。
嵐の前触れであることを、誰も知らないまま。
ーーー 第二章 風翔国奪還戦 完 ーーー




