第三十一話 玉座に立つ者、路地を走る者
別れは、あっけなかった。
アリウム、イーヴァ、トルネロ。
そして、生き残った水明国の兵士たちは、朝のうちに風翔国を発った。
彼らには、帰るべき国がある。
守るべき民がいる。
「借りは、必ず返す」
別れ際、アリウムはそう言って、ミリアに軽く手を振った。重い言葉は、いらなかった。
それぞれが、それぞれの戦場へ戻っていく。それが、同盟というものだった。
ジャックもまた、出立の準備を整えていた。
「俺は、炎龍国へ戻る」
ミリアの前で、簡潔に告げる。
「炎帝クレイに、今回の顛末を直接報告する。玄武の討伐、光神教団の動き、そして……」
一瞬、言葉を区切る。
「風帝ミリアの誕生もな」
ミリアは苦笑した。
「大げさに言わなくていい」
「無理だな」
ジャックは肩をすくめる。
「世界は、こういう変化を見逃さない」
それだけ言って、踵を返した。
「……またな、陛下」
「やめて」
即座に返すと、ジャックは声を立てて笑った。
「冗談だ。だが」
振り返らずに、言う。
「無理はするな」
その背中が、遠ざかっていく。こうして、炎龍国の兵士にして、誰よりも頼れる兄・ジャックも、戦場を後にした。
残された風翔国は、静かだった。
だが、空虚ではない。
風帝ミリアのもと、国はそれなりの戦力を持っていた。
光神教団の洗脳から解かれた、元信者たち。
剣も魔法も未熟だが、もう命令ではなく、自分の意思で立つ者たち。
そして、ルシオとエリオ。
玄武に挑み、叩き伏せられ、それでも立ち上がった二人。技量では、まだ大幹部級には遠い。だが、前に出ることを恐れない。
誰かに選ばれたわけでもない。
守られる約束もない。
それでも、剣を握ると決めた若者たちだった。
兵士長には、ガンドロフ。
巨躯の男は、形式ばった言葉を嫌ったが、命令には忠実だった。無駄な理想を語らず、守るべき線を決して下げない。
「戦える者だけ、前に出ろ。無理な奴は、無理をするな」
その一言が、兵たちの恐怖を和らげていた。
そして、治癒魔法を扱える、アネモネ。
彼女は前線に立たない。
だが、彼女の存在そのものが、国の背骨だった。
怪我は、戻る。
命は、繋がる。
それだけで、人は戦える。
玉座の間。
かつて、支配者が座っていた場所に、ミリアは立っていた。
座らない。座る気も、まだなかった。
(……仮、だもんね)
帝としては、未熟。
統治者としては、頼りない。
それでも。誰かに縋る国を、もう作らない。それだけは、決めていた。
風が、吹き抜ける。この国は、確かに自分の足で、立ち始めていた。
風帝ミリアの治世は、こうして始まった。
それは、英雄の物語ではない。選ばれなかった世界が、選び直そうとする物語だった。
その頃。
風翔国の外れ、崩れかけた石壁の影に、一人の男が身を潜めていた。
ゴリガンだった。
暗月国から戻ったばかりのその男は、フードを深く被り、城内の様子を遠目に眺めていた。
「……おいおいおいおい」
唇が、ひくりと歪む。
「どうなってんだよ」
目に映るのは、整えられ始めた中庭。巡回する兵。
その中心にいる、薄紅色の髪の少女。
「なんで……黒炎龍のガキが、風帝になってんだよ……」
信じられないものを見る目だった。
「しかも」
視線が、巨躯の男へ移る。
「ガンドロフが……手下になってんじゃねーか」
喉が鳴る。
ありえない。
ありえないはずだった。
支配者が倒れれば、国は割れる。
混乱し、内紛が起き、外から食われる。
それが、ゴリガンの知っている“世界の仕組み”だった。
「……おかしいだろ」
だが、風翔国は崩れていない。
むしろ、静かに形を整え始めている。
その異常さに、背筋が冷える。
「チッ……」
舌打ちした、その瞬間。
気配が、変わった。
「……?」
ふと顔を上げると、いつの間にか周囲に人がいた。
老人。
女。
子ども。
農具を持った男。
風翔国の民だった。
誰も、武器を構えていない。
だが、視線が冷たい。
敵意でも、恐怖でもない。
ただの「警戒」。
よそ者を見る、まっすぐな目。
「……あ」
ゴリガンの喉が鳴る。
逃げるには、遅い。
かといって、脅すほどの力もない。
「あ、あは……」
引きつった笑みが、顔に張り付く。
「あはははは……」
明らかに下手な、気味の悪い愛想笑い。
「い、いやー……通りすがりでしてね? はは……」
誰も、返事をしない。
ただ、見ている。
値踏みするように。
この男が、害かどうかを。
(やっべ……)
背中に、汗が滲む。
「じゃ、じゃあ俺はこれで!」
言い終わる前に、ゴリガンは踵を返した。
全力で、走る。
「うおおおおっ!!」
息を切らし、石畳を蹴り、路地へ飛び込む。
背後から追ってくる気配はない。
だが、それが余計に怖かった。
「くそ……くそくそくそ……!」
走りながら、頭が回転する。
(どうする……?)
玄武は消滅。
黒炎龍は、帝。
(このままじゃ……俺の居場所がねぇ)
暗月国に戻る?
いや、あそこも安全とは言えない。
どこへ行っても、安泰は無い。
「……これから、どーしましょ」
思わず、独り言が漏れた。
ゴリガンは走る。
答えもないまま。
世界が、音を立てて変わり始めていることだけを、背中で感じながら。




