第三十話 風帝、仮戴冠
翌朝。
薄く差し込む朝の光に、ジャックはゆっくりと目を覚ました。
「……生きてる、か」
全身を覆っていたはずの激痛は、どこにもない。軋むだろうと思っていた身体は、拍子抜けするほど軽かった。
上体を起こし、自分の胸元を見る。包帯は巻かれている。だが、その下にあるはずの深手が、まるで嘘のようだった。
「おはよう」
静かな声。振り向くと、ミリアが立っていた。いつもの、少し柔らかい笑顔で。
「……やったんだな」
短くそう言うと、ミリアは小さく頷いた。
「うん。終わったよ」
それだけで、十分だった。ジャックは天井を仰ぎ、短く息を吐く。
「……しかし、妙だな」
腕を動かし、腹部に手を当てる。
「回復が早すぎる。正直、半月は動けない覚悟だったんだが」
ミリアは一瞬だけ視線を逸らし、それから答えた。
「それは……アネモネのおかげ」
「アネモネ?」
「うん。あの人、希少な治癒魔法使いだった」
ジャックの目が、わずかに見開かれる。
「希少、って……」
「大陸でも、数えるほどしかいないレベル」
ミリアは淡々と続けた。
「しかも、戦闘用じゃない。命を戻すためだけの、純粋な治癒魔法」
だからと、ミリアは言葉を継ぐ。
「玄武は、彼女を特別扱いしてた」
ジャックは、はっと息を呑んだ。
寵愛。玉座の間。守られていた女。
その理由が、ようやく一本につながる。
「……道具、か」
「うん」
ミリアは、否定しなかった。
「信者を生かすため。大幹部を戦場に戻すため。教団を維持するための、切り札」
沈黙が落ちる。
言葉にしなくても、二人とも分かっていた。
玄武は倒れた。だが、教団という仕組みは、まだ息をしている。
その時。
「邪魔するぞ!」
扉が、勢いよく開いた。
木製の扉が壁に叩きつけられ、乾いた音が部屋に響く。現れたのは、巨躯の男・ガンドロフだった。
「……相変わらずだな」
ベッドに半身を起こしたまま、ジャックが口の端を上げる。戦場の直後とは思えないほど、いつもの調子だった。
ガンドロフは一歩、部屋に踏み込み、二人を見渡す。ジャックの顔色を確かめ、ミリアの無事を確認してから、低く息を吐いた。
「……聞いた。玄武は、消えたそうだな」
「ミリアがな」
そう言って、ジャックは顎で彼女を示す。ガンドロフは一瞬だけ目を細め、それから、はっきりと言った。
「俺も、決めた」
その声には、迷いがなかった。
「光神教団と、戦う」
室内の空気が、わずかに張り詰める。
「今まで見ないふりをしてきた。都合のいい理屈で、自分は関係ないと思ってた」
ガンドロフは拳を握りしめる。
そして、ジャックを真っ直ぐに見据えた。
「仲間に入れろ」
一瞬の間。ジャックは、じっとガンドロフを見つめ、次の瞬間、フッと笑った。
「はは……」
小さく、だが、確かな笑み。
「強い奴は、歓迎だ」
そう言って、ベッドの縁を叩く。
「命がけになるのも分かってるだろ?」
「当然だ」
即答だった。ガンドロフの顔には、もう迷いはない。
「だったら、文句はねぇ」
ジャックはそう言って、ミリアに視線を向ける。
「問題ないな?」
ミリアは、少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頷いた。
「うん。歓迎する」
その言葉に、ガンドロフは鼻で笑う。
「……なら、決まりだな」
こうして。
光神教団に刃を向ける者が、また一人増えた。
それがどれほど大きな波紋を生むのか、この時点では、まだ誰も知らなかった。
扉が、再び激しく叩かれた。
「おい、入るぞ!」
返事を待たずに、勢いよく扉が開く。飛び込んできたのは、ルシオとエリオだった。二人とも息が上がり、顔色が違う。
「ミリアさん! 動けますか!?」
ルシオが、切迫した声で叫ぶ。
「大変なことになってるぞ!!」
ミリアは一瞬、ジャックと視線を交わし、すぐに頷いた。
「……行こう」
光神教団の施設を出た瞬間。
空気が、違っていた。
朝の澄んだ風。
そして……人、人、人。
中庭から続く広場、そのさらに外まで、風翔国の民が集まっていた。老若男女。兵も、農民も、子どもも。
誰一人、武器を構えていない。
ざわめきが、ミリアの姿を認めた瞬間、波のように静まる。
「……ミリア」
人波の向こうから、アリウムが手を上げた。
「こっちだ」
導かれるように進むと、最前列に、年老いた男が立っていた。風翔国の長老だった。
長老は一歩前に出ると、深く、深く頭を下げた。
「黒炎龍の巫女殿……」
しわが刻まれた顔を上げ、はっきりと告げる。
「其方は、風翔国を二度も救ってくださった」
一度目は、雷帝国の侵攻。
二度目は、光神教団、玄武という支配者。
「この国は、長く守る者を失っていた」
長老の声は、震えていた。
「どうか……どうか、我が国の帝となってはくれぬだろうか」
広場が、静まり返る。ミリアは、思わず一歩下がった。
「……無理、です」
言い切ろうとした、その瞬間。アリウムが、そっと横に寄り、耳元で囁いた。
「この国に、今は帝も、軍もない」
低く、現実的な声。
「俺たちが帰れば、必ずまた付け込まれる。光神教団か……別の悪意にな」
一瞬、間を置いて。
「……仮でもいい。引き受けてやれよ」
ミリアは唇を噛む。
「でも……私なんか」
戦うことしか知らない。統べる器なんて、あるはずがない。その言葉に、アリウムは小さく笑った。
「そうか?」
肩をすくめる。
「俺は、向いてると思うがな」
真剣でもなく、冗談でもない声だった。民を見て、仲間を見て、ミリアはゆっくりと息を吸う。
逃げれば、また誰かが傷つく。
それだけは、分かっていた。
「……分かりました」
静かだが、はっきりとした声。
「仮、です。必ず」
長老の目が、見開かれる。
「この国が、もう誰かに支配されない形になるまで」
ミリアは、前に出た。
「それまでなら……私が、立ちます」
一瞬の静寂。
そして、歓声ではない、拍手でもない。
人々は、ただ深く頭を下げた。
こうして、黒炎龍を宿す少女は、形の上で、風翔国の帝となった。
その名を、風帝ミリアと呼ぶ時代が、静かに始まった。




