第二十一話 期待と、絶望
ゴリガンが、モウラの視線一つに肝を潰し、戦場を捨てて無様に逃げていく。
まさにその頃。
ミリアたちは、風翔国都市・清風街の門をくぐっていた。
高い城壁に囲まれた街は、かつては風の都と称されていたという。だが今、その名に相応しい軽やかさはない。
通りに並ぶ人々は、足を止め、こちらを見ていた。声はない。ただ、視線だけが集まってくる。
アリウムは、その空気を一瞬で理解した。
期待と、絶望。
水明国の兵装に向けられる、わずかな希望。
そして、それと同じ量だけ混じる、諦めきった目。光神教団に逆らった者の末路を、彼らは知っている。期待して、裏切られる痛みも。
だからこそ、人々は何も言わない。
アリウムは一歩、前に出た。背筋を伸ばし、胸を張る。声を張り上げるための予備動作はない。ただ、当然のことを告げるという顔で。
「光神教団!」
街全体が、ぴたりと静まった。
「貴様らの行いは、もはや布教ではない!」
一語一語が、石畳に落ちていく。
「支配だ!征服だ!この国の意思を踏みにじり、人を道具として扱っている」
兵士たちがざわめく。教団の紋章をつけた者たちの顔が、強張る。
アリウムは止まらない。
「ただちに風翔国から出ていけ!!」
宣言だった。交渉ではない。脅しでもない。
これは、始まりの合図だ。ミリアは、その背中を見つめていた。ジャックは拳を鳴らし、ルシオとエリオは視線を交わす。
清風街の空気が、確実に変わっていく。もう、戻れない。この街で、光神教団と真正面からぶつかる。
静まり返った清風街に、軋むような気配が走った。教団兵の列の中から、一人の信者が後ずさり、やがて踵を返す。
「……っ」
何も言わず、ただ必死に走り出した。路地を抜け、建物の影へ消えていく。
アリウムは、その背を追わなかった。
いや、追う必要がなかった。
彼の視線は、信者の行き先を、最初から最後まで捉えていた。
街の奥。
風の流れが不自然に歪む一角。
白い外壁に、光神教団の紋章が刻まれた施設。
「……あの施設だな」
確信を含んだ声。
アリウムは振り返り、仲間たちを見る。
「行くぞ」
短く、だが迷いのない号令。
「総員、前進!!」
水明国の兵と、ミリアたちが一斉に動き出す。
石畳を踏み鳴らす足音が、清風街に初めて“意思”を刻んだ。
その頃。
白い施設の奥深く。外界の騒がしさから切り離された、静謐な個室。
信者は床に膝をつき、息を切らしながら叫んだ。
「ご報告を!清風街に、水明国の部隊が侵入!指揮官格と思しき者が、光神教団の退去を宣言しました!」
沈黙。やがて重々しい音と共に、椅子が引かれる。
立ち上がったのは、玄武。
巨体。岩のような存在感。その背後には、個室を与えられた幹部たちが控えている。
「……神の意志に」
低く、鈍い声。
「逆らう者には」
玄武の目が、冷たく細められた。
「裁きを与える」
拳を握るだけで、空気が震えた。
清風街の通りを進む、水明国の部隊。
隊列は整っている。だが、その足取りはわずかに重い。誰もが感じていた。この街そのものが、敵だという感触を。
最初の犠牲者は、路地裏だった。
建物と建物の隙間。
薄暗い影の中から、かすかな金属音が鳴る。
ヒュッ。
短い風切り音。次の瞬間、先頭列の兵士が喉を押さえて崩れ落ちた。
「……っ!?」
声にならない悲鳴。口から泡が溢れ、指先が痙攣する。
「毒だ!!」
叫びが上がったときには、もう遅い。兵士は石畳に倒れ、白目を剥いて動かなくなった。
だが、終わりではない。
民家の二階。
閉ざされていたはずの窓が、ほんの一瞬だけ開く。
ヒュ、ヒュッ。
細い針が、雨のように降った。
「ぐっ……!」
「腕が……!」
鎧の隙間。首元。指の関節。避けきれない位置を、正確に狙っている。
兵士が数名、よろめき、壁に手をついた。そして、崩れるように倒れた。泡立つ唇。急激に蒼白になる顔色。
ミリアの表情が、瞬時に変わる。
「……毒、即効性」
黒炎が、無意識に揺れた。
だが、攻撃は止まらない。
人混みの中。祈るように両手を合わせていた老人が、すれ違いざま、袖をわずかに払った。
チクリ。
兵士の脇腹に、ほとんど痛みもない刺激。
「……あ?」
振り返った時には、もう遅い。
老人は、人波に溶けて消えていた。
「っ……く、は……」
兵士は数歩歩き、膝をつき、そのまま前のめりに倒れた。
街は静かだった。悲鳴も、怒号もない。
ただ、人が倒れていく。
アリウムは、歯を噛みしめた。
「……散開するな!隊列を保て!」
冷静な声。だが、その拳は、強く握られていた。
光神教団は、正面から来ない。
戦わない。殺すだけだ。
そして、教団施設の外壁。
白い石造りの影に、ひとつの人影があった。
「いいねぇ……」
低く、粘つく声。
「みんな、ちゃんと苦しんでる」
目の下に深い隈。
不自然に細い体躯。
指先には、いくつもの小瓶と、細長い針。
その男の名は、オセロス。
個室持ちの1人だ。
「俺の毒はさぁ……即死じゃない」
楽しそうに、くすくすと笑う。
「呼吸が浅くなって、手足が痺れて……それで最後に、心臓が止まる」
肩をすくめる。
「祈る時間は、ちゃんとあげてるんだぜ?」
彼の足元には、すでに空になった瓶が転がっていた。その時、オセロスの笑みが、ふっと消えた。
「……ん?」
施設へ向かう通りの先。倒れた兵士の隙間を縫うように、黒い炎が揺れている。
ミリアだった。
毒に倒れた兵士のそばで、膝をつき、歯を食いしばっている。
「……許さない」
小さな声。だが、確かに届いた。
オセロスは、舌なめずりをする。
「おぉ……」
目が、歪んだ喜びで細められる。
「黒炎の子。いいねぇ……でも、君の相手は僕じゃない」
背後から、別の気配が立ち上がる。
施設の正面扉。肌を刺すほどの魔力。
別の個室持ちの一人が、ゆっくりと姿を現そうとしていた。清風街は、完全に戦場へと姿を変えた。光の名を掲げた毒と、正面から踏み込む意志。
もう、引き返す道はなかった。




