第十九話 自分は、まだマシ
風翔国都市・清風街。
かつては風帝の居城へと続く大通りだった場所は、今や光神教団の旗と紋章に塗り替えられていた。白と金の意匠が街路を覆い、信者たちが規則正しく行き交う。
支配は、すでに終わっている。
教団施設の最奥。石造りの建物の中でも、限られた者しか足を踏み入れられない区画がある。
個室持ち。
それは力ある者の証であり、役割を与えられた者の証でもあった。
アネモネは、その一室で、膝を揃えて座っていた。
淡い風色の髪を肩口で整え、伏し目がちに息を整える。部屋の空気は重く、逃げ場がない。ここに来るたび、同じことを思う。
(……今日も、終わった)
扉の向こうで、衣擦れの音が止む。
「もう下がっていい」
机に向かったまま、玄武が淡々と告げた。
アネモネは小さく頭を下げ、立ち上がる。足取りは静かで、何一つ乱れていない。乱すことを、許されていない。
玄武にとって、彼女は「力」を持たない。剣も、術も、特別な才覚もない。
だが、それだけで切り捨てられない理由が、彼女にはあった。
玄武の欲望の吐口として選ばれた者は、十二名。
その中でも、アネモネは特に気に入られていた。
それは愛情でも信頼でもない。
ただ、代替が効かないというだけの話だ。
沈黙が流れる中、玄武はようやく書類から視線を上げた。
「風翔国は、もはや征服したも同然だ」
独り言のような声。だが、それは宣言でもあった。
アネモネは、答えない。ただ、聞く。
「風帝ソウムが死に、王位は空いたまま」
指先で机を軽く叩く。
「跡取りもいない。貴族どもは互いに牽制し合い、国は意思を失った」
玄武は、ゆっくりと笑った。
「だから私は、この地に支部を置いた」
支部、という言葉に、意味はない。
「光神教団風翔支部の長として」
視線が、アネモネに向く。
「そして、実質的な王として君臨する」
それは、当然の未来を語る口調だった。誰かに相談しているわけでも、同意を求めているわけでもない。
すでに決まっている結論。
「反抗勢力は、いずれ動くだろう」
淡々と。
「だが問題ない。麒麟も、個室持ちも、機械兵もある」
その言葉の中に、アネモネは含まれていない。
彼女は、戦力ではない。
だが、ここにいる。
「君は、ここにいればいい」
玄武はそう言った。
「それだけで価値がある……私が王に君臨した暁には、君には王妃になってもらう」
アネモネは、わずかに目を伏せる。
「……承知しました」
それ以上、何も言わない。言う必要がないことを、彼女はよく理解していた。
清風街の外では、夜風が街路を撫でている。王を失った国は、静かに、確実に、別の王を迎え入れようとしていた。
光の名を冠した支配が、風翔国に根を下ろす。その始まりは、すでに終わっている。気づいている者だけが、それを戦争と呼んでいた。
アネモネは、自分が置かれている立場を正確に理解していた。
自分は、まだマシだ。
そう思える時点で、すでに感覚は壊れているのかもしれないが、それでも事実だった。
個室を与えられていること。
それだけでも、彼女は他の「捌け口」より遥かに恵まれていた。
残る十一名は、違う。
彼女たちは共同の区画に押し込められ、玄武の相手をするだけでは終わらない。
機械化したことや、数多の死線を超えて性への興味を失ってしまったゴリガンを除く、他の個室持ち三人分の身の回りの世話まで、すべて押し付けられていた。
着替え、食事、入浴の準備。命令一つで、笑顔を作らされる。
拒否権など、最初から存在しない。
だが、アネモネだけは違った。玄武は、彼女にだけは他の信者を近づけなかった。
触れさせなかった。使わせなかった。
それが保護なのか、独占なのか。彼女自身にも、もう区別はつかない。
(……でも)
アネモネは、湯気の向こうにある天井を見つめる。
(生きている)
それだけは、確かだった。
教団施設の奥。信者たちに準備させた風呂で、玄武はゆったりと身体を沈めていた。
白い蒸気が立ち上り、外界の音を遮断する。湯に浸かる姿は無防備に見えるが、その実、結界と護衛に囲まれている。
玄武は目を閉じたまま、思考を巡らせていた。
風翔国。
王のいない国。弱体化した貴族。
信仰と恐怖で縛るには、あまりにも都合がいい。
(反抗はあるだろうが……)
唇が、わずかに歪む。
(問題ない)
「ご一緒しても、よろしいでしょうか」
湯気越しに、低い声が響いた。玄武は、目を開けない。
「入れ」
短い返答。水音を立てて、誰かが浴場に入ってくる。その気配は、アネモネとも、他の捌け口とも違っていた。
重い。
濃い。
魔力そのものが、空間を圧迫している。
姿を現したのは、個室持ちの一人・ファルク。
無造作に結われた黒髪。鋭い眼差しと、無言の威圧感。生まれ持った膨大な魔力が、何もせずとも周囲に滲み出ている。
その量は、水帝ラグーナシアには及ばない。
だが、迫る。
少なくとも、この風翔国においては、別格だった。 ファルクは、一定の距離を保ったまま、湯に身を沈める。
「……ずいぶん、機嫌がよさそうですね」
「そう見えるか?」
玄武は、初めて目を開けた。
「風翔国は、もう私の掌の上だ」
湯の中で、指を軽く動かす。
「後は、反抗勢力を叩き潰すだけ」
ファルクは、何も言わない。ただ、その言葉を事実として受け止めている。
「いずれ、戦になる」
玄武の声は、穏やかだった。
「その時は、お前の力が必要だ」
ファルクは、静かに頷いた。
「命じられれば」
その答えに、感情はない。忠誠とも、信仰とも違う。
ただの了解。
湯気の向こうで、二人の怪物が静かに並ぶ。この場には、祈りも、救済も存在しない。あるのは、力と支配、そして利用価値だけ。
風翔国の夜は、何も知らぬまま、深く沈んでいった。




