第十七話 人は、変われる
山道は、思っていた以上に険しかった。
風翔国へと続く峠道は細く、両脇には切り立った岩壁と深い森が広がっている。湿った土と落ち葉が足を取るたび、ジャックが先頭で進路を確かめながら進んでいた。
「この辺りから、風翔国の山域だ」
地図を確認しながら、兵士長アリウムが告げる。
「街道は監視されている可能性が高い。今夜は山中で野営し、明朝一気に抜ける」
ミリアは黙って頷いた。黒炎龍の力を宿してから、こうした行軍にも自然と身構えるようになっている自分に気づく。
日が傾き始め、山の影が長く伸びたころ。一行は風を遮れる岩場を見つけ、野営の準備に入った。
兵士たちは手慣れた様子で焚き火を起こし、簡易の見張り配置を整える。火がぱちぱちと音を立て、冷え始めた山の空気をわずかに和らげた。
「今日はここまでだな」
ジャックが腰を下ろし、肩を回す。
「さすがに疲れた」
「お前が言うと説得力あるな」
エリオが、焚き火の向こうで苦笑する。
ルシオとエリオは、並んで火を見つめていた。揺れる炎を眺めていると、不意に、懐かしい感覚が胸に浮かぶ。
「……なぁ」
先に口を開いたのは、ルシオだった。
「覚えてるか。教団で、初めて外で泊まったとき」
エリオは、一瞬だけ目を伏せる。
「ああ……覚えてる」
教団の名目は修練。
実際は、従順さと恐怖を叩き込むための野外行動だった。
夜の森。最低限の食事。交代制の見張り。
焚き火の周りで、年の近い孤児たちが身を寄せ合って眠った。
「寒かったよな」
ルシオが小さく笑う。
「火を消すなって怒鳴られてさ」
「消えたら殴られるから、必死だった」
エリオも、かすかに口元を緩める。あの頃は、疑問を持つことすら許されなかった。ただ生き残るために、言われた通りに動くだけの日々。
「……でも」
ルシオが、焚き火から目を離さずに言う。
「今は、違うな」
エリオは、その言葉の意味をすぐに理解した。命じられているわけじゃない。恐怖で縛られているわけでもない。自分で選んで、ここにいる。
「……ああ」
短く答え、エリオは炎を見つめた。
焚き火の向こうでは、ミリアが地図を確認し、アリウムと小声で進路を相談している。ジャックは剣を膝に置き、周囲を警戒していた。
それぞれが、それぞれの理由で、ここにいる。
山の上を、冷たい夜風が吹き抜ける。だが焚き火の炎は、消えなかった。かつて恐怖の中で囲んだ火とは違う。今は、進むための火だった。
ルシオは、静かに息を吐く。
「……明日から、本当の戦いだな」
「だな」
エリオはそう答え、立ち上がって見張りの交代に向かった。
夜の山は深く、静かだった。
その静けさの先に、風翔国と、避けられぬ戦いが待っていることを、誰もが理解していた。
翌日。
一行は、朝靄の残る山道を越え、ひたすら歩き続けた。峠を下りるにつれ、道はなだらかになり、森の奥から水の気配が濃くなる。やがて視界が開け、夕陽を映す湖が現れた。
静かな水面のほとりに建つ、旅人のための宿。
湖の馬宿。
「やっと着いたか……」
兵士の一人が、安堵の息を漏らす。長い行軍の疲労が、一気に足へ重くのしかかる時間帯だった。
宿の厩舎では馬が鼻を鳴らし、湖面には橙色の光がゆっくりと溶けていく。
人の気配はあるが、戦の匂いはない。久しぶりの、束の間の安息だった。
だが。
エリオだけは、立ち止まったまま、湖を見つめていた。
夕暮れの水面に映る自分の顔が、歪んで見える。
(……あのとき)
教団にいた頃の記憶が、不意に蘇る。
酒場の片隅で、旅人たちが囁いていた言葉。
その声に、エリオは激昂した。
「……」
胸の奥が、じくりと痛む。守ってなんかいない。ただ、自分が信じたいものを、疑われるのが怖かっただけだ。
エリオは拳を握りしめる。
(俺は……何をやってたんだ)
「エリオ」
静かな声が、隣から届いた。いつの間にか、ルシオが立っていた。湖の光を受けた横顔は、穏やかだった。
「……思い出したんだろ」
否定しない。責めもしない。エリオは、視線を逸らしたまま、かすれた声で答える。
「俺はあの時、教団の悪口言った連中を脅した」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ外に出た。
「正義のつもりだった。信仰を守ってるつもりだった」
自嘲気味に笑う。
「でも……ただの、脅迫だ」
湖の水が、微かに波打つ。ルシオは、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「後悔してるなら」
一歩、エリオの方を向く。
「それで、もう半分は変わってる」
エリオは、驚いたようにルシオを見る。
「……許されると思うか?」
「分からない」
正直な答えだった。
「でもさ」
ルシオは、ほんの少し笑った。
「これから変えていけばいいさ」
その言葉は、軽くも重くもない。
逃げ道ではなく、進むための言葉だった。
エリオは、しばらく黙って湖を見つめ、やがて小さく息を吐く。
「……ああ」
短い返事。
だが、その声には、昨日までなかった芯があった。
夕陽が沈み、湖の色が夜へと変わっていく。
湖の馬宿には、ランタンの灯りが一つ、また一つと点り始めていた。
過去は消えない。だが、進む道はこれから選べる。
そのことを、二人は同じ景色の中で、静かに理解していた。




