第十一話 機密
水の都・水明国の中枢。
幾重にも張り巡らされた水路を抜け、白い石造りの都市へ入ったとき、バルサロは無意識に息を呑んだ。川沿いの寒村とは、あまりにも違う世界だ。
だが、彼は物怖じしなかった。
水明国において、医師という立場は特別だ。戦乱の多い大陸で、命を繋ぐ者は、国境を越えて敬われる。
バルサロは名を告げると、ほどなくして城の奥へと通された。
謁見の間。
高い天井から差し込む柔らかな光が、床に張られた水鏡を淡く照らしている。水の都の象徴とも言える、静謐な空間。
その玉座に座していたのは、水帝ラグーナシア。
透き通るような蒼髪を背に流し、静かな威厳を湛えた女王。そこにいるだけで、空気が澄む。
そして、その両脇には、明らかに異質な面々がいた。
炎龍国からの使者――
黒炎龍を宿す者・ミリア。
年若い少女でありながら、その身から漂う魔力は、常人のそれではない。隣には、彼女と同じ顔立ちをした青年が立っていた。
双子の兄にして、一流剣士・ジャック。
腰の剣は未だ抜かれていないが、隙のない佇まいが、それだけで実力を物語る。
さらに、柱の影に溶け込むように、ひとりの男がいた。
炎龍国の隠密。
最強と噂される存在・モウラ。
視線を向けても、そこにいると認識しなければ、見失ってしまいそうなほどの気配の薄さ。
バルサロは、喉を鳴らした。
(……とんでもない場に来ちまったな)
だが、逃げる気はなかった。
彼は、深く頭を下げた。
「水帝ラグーナシア様。お目通り、感謝いたします」
「顔を上げてください、村医者殿」
ラグーナシアの声は、穏やかで、よく通った。
「あなたがここへ来た理由は、すでに聞いています」
その言葉に、バルサロは覚悟を決めた。
すべてを話そう。
川で拾った瀕死の少年のこと。
教団の追手。
玄武の名。
命を賭して託された、一通の手紙。
嘘も、脚色もなかった。話し終えたとき、謁見の間には、しばし沈黙が落ちた。
最初に動いたのは、ミリアだった。
「……教団が、そこまで動いているなんて」
呟きは、怒りと警戒を孕んでいる。
ジャックは、黙って顎に手を当て、モウラは相変わらず、何の反応も見せない。
ラグーナシアは、静かにバルサロへ視線を戻した。
「その手紙を」
バルサロは、外套の内側から、丁重に包んだそれを取り出し、差し出した。
ラグーナシアが受け取った瞬間、空気が変わった。
手紙の封に刻まれた、複雑な魔術式。
教団特有の、強固な封印。
「……確かに、容易ではありませんね」
ラグーナシアは、目を閉じる。
指先に、水の魔力が集まり始めた。それは荒々しさとは無縁の、静かで、しかし底知れぬ力。
時間をかけて、丁寧に。
封印を解くのではなく、解かせるように。
謁見の間の誰もが、口を閉ざし、その瞬間を見守っていた。
そして封印は、音もなくほどけた。
ラグーナシアは、ゆっくりと目を開く。
「……なるほど」
その表情が、わずかに厳しくなる。この手紙が、ただ事ではないことを、そこにいる全員が悟った。
水の都に、波紋が広がろうとしていた。
ラグーナシアは、ゆっくりと手紙に目を通した。一行、また一行と読み進めるごとに、謁見の間の空気が、確実に重くなっていく。
やがて、彼女は静かに顔を上げた。
「内容を共有します」
その声に、ミリアの背筋が伸びる。
「まず、風翔国制圧の完了報告」
ジャックが、思わず舌打ちした。
「やっぱりか……」
「次に、機械兵製造施設の再生」
その言葉に、ミリアの拳が、きゅっと握られる。
機械兵。かつてミリア達を恐怖に陥れた、無機質な殺戮兵器。
そして。
ラグーナシアは、一拍置いた。
「重大機密事項として」
謁見の間の誰もが、無言で続きを待つ。
「暗月国への侵攻計画。
過去、炎龍国との戦いで大幅に戦力を失った暗月国を攻め落とし、新たな光神教会区域とする……そう記されています」
一瞬、沈黙。
次の瞬間。
「……最悪だな」
低く呟いたのは、ジャックだった。ミリアは、唇を噛みしめている。
「教団が、こんな重要事項を……紛失してるなんて」
その声には、はっきりとした不安が滲んでいた。
「嫌な予感がします」
ミリアは、ラグーナシアを見据える。
「これは……偶然じゃない。ルシオという少年が生きてるかどうかは分からない。でも、この情報が動いた時点で、もう歯車は回ってる」
ラグーナシアは、静かに頷いた。
「同感です」
そして、決断を下す。
「ミリア。ジャック。あなたたちは、この村医者と共に、川沿いの村へ向かいなさい」
「……私たちが?」
「ええ。少年ルシオの安否確認と、教団の動きを探るためです」
バルサロは、驚きながらも、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
そのとき。柱の影から音もなく一歩、モウラが前に出た。
「俺は炎龍国に戻る」
短く、それだけ。
「炎帝様に、直接報告する。この件は、一国が単独で抱えられる話じゃない」
ラグーナシアは、止めなかった。
「お願いします、モウラ」
踵を返す直前、モウラは、ふと足を止めた。
ミリアとジャックを、鋭く睨む。
「いいか」
その声には、いつもの飄々とした気配はない。
「手紙のことは、知らないフリをしろ」
視線が、特にジャックに突き刺さる。
「特に、ジャック」
「……はい」
即答だった。いつもなら軽口の一つも叩く男が、今回は一切ふざけない。ミリアも、真剣な顔で頷く。
「はい。絶対に」
モウラは、それだけを確認すると、再び気配を消した。
謁見の間には、残された者たちの緊張だけが漂う。
バルサロは、胸の奥がざわつくのを感じていた。
(……俺は、とんでもない渦の中心に、足を踏み入れたんじゃないか)
だが、もう後戻りはできない。
水の都で解き放たれた真実は、確実に、川沿いの小さな村へ。そして、瀕死の少年の運命へと、押し寄せようとしていた。




