第十話 代行
薄暗い診療室に、雨の音が静かに響いていた。
湿った空気の中、ルシオは天井を見つめていた。身体のあちこちが、鉛のように重い。包帯の下では、まだ熱がくすぶっている。
「……なあ、先生」
掠れた声。
無精髭の村医者、バルサロは、薬草をすり潰す手を止めずに答えた。
「なんだ」
「……教団の連中、来たんだろ」
その手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……ああ」
否定はしなかった。
「三日前だ。白装束の連中が、川沿いを探してた」
ルシオは、ゆっくりと息を吐く。
「やっぱりか……」
自分の身体を見下ろす。包帯。裂傷。打撲。骨の軋み。どれも、まだ治っているとは言い難い。
「正直に言うぞ」
バルサロは、低い声で言った。
「お前は、まだ動ける状態じゃない。山越えどころか、まともに歩くのも無茶だ」
ルシオは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと、しかしはっきり言った。
「……それでも」
視線が、天井からバルサロへ向く。
「拾った命を、無駄にしたくない」
バルサロの眉が、わずかに動く。
「俺は……ラグーナシア様のところへ行く」
その名に、部屋の空気が少し張り詰めた。
「水帝に、会うってのか」
「ああ」
声は弱いが、意志は揺れていない。
「この手紙が、何を意味してるのか……知らないままじゃ、終われない」
バルサロは、長く息を吐いた。
「……無茶なガキだ」
そう言いながらも、拒絶の色はなかった。
しばらくの沈黙のあと。
バルサロは、決意したように立ち上がった。
「来い」
「え……?」
バルサロは、ルシオの肩に手をかける。
「表に出すわけにはいかん。連中が嗅ぎつける」
彼は、診療室の床板を外した。
現れたのは、狭く、湿った階段。
「地下室だ。元は薬の貯蔵庫だが、外からは分からん」
ルシオは、驚きながらも、バルサロの肩を借りて身体を起こす。
「……先生」
「黙って運ばれろ」
地下室は、ひんやりとしていた。簡素な寝台と、薬草の棚。逃げ場として作られた場所ではない。だが、隠すには十分だった。
階段の上で、アーシャが、不安そうに立っていた。
「お父さん……?」
バルサロは、しゃがみ込み、娘の目を見て言う。
「アーシャ。しばらく留守にする」
「……え」
「この人のことは、誰にも言うな。誰が来てもだ」
アーシャは、唇を噛みしめ、それから、こくりと頷いた。
「……わかった」
バルサロは、静かにルシオの手紙を手に取る。
「俺が行く」
ルシオの目が、大きく開かれた。
「先生が……?」
「水の都だ。水明国の都市」
無精髭の奥で、歯を食いしばる音。
「ラグーナシア様に、直接届ける。お前が行くより、よほど安全だ」
「……でも」
「いいから、寝てろ」
バルサロは、珍しく強い口調だった。
「生きろ。生きて、立てるようになってから、続きをやれ」
その言葉に、ルシオは、何も言い返せなかった。
数刻後。
村の外れで、古い馬車が軋みながら準備されていた。
村の馬車乗りが、手綱を握る。バルサロは、荷に紛れるようにして、外套の中に手紙を隠した。
「……待ってろよ、ガキ」
誰にも聞こえないように、呟く。馬車は、ゆっくりと動き出した。行き先は水明国の中枢、水の都。
地下室の暗闇で、ルシオは天井を見つめていた。
(……託した)
それは、希望か。
それとも、さらなる嵐の始まりか。
だが、ひとつだけは、はっきりしていた。
もう、引き返せない。
数日後。
エリオたちは、ついに川の行き着く先である湖まで辿り着いていた。
捜索開始からすでに一週間が経過していた。
川岸をなぞるように進み、倒木の裏も、岩陰も、淀みも探した。だが、痕跡はひとつとして見つからなかった。
「……ないな」
エリオが湖面を睨む。静まり返った水は、何も語らない。
「あるとすれば」
脳裏に浮かぶのは、あの川沿いの村だった。不自然なほど、何も知らないという顔をした村人たち。
「……戻るぞ」
短く、命じるように言った。
そのとき。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。少し休みましょう」
一人の信者が、疲労を滲ませた声で言った。
次の瞬間、エリオの表情が、凍りついた。
「……は?」
一歩。距離を詰める。
「命令が、聞こえなかったか?」
「い、いえ、ですが――」
言い終わる前に、鈍い音が湖畔に響いた。
拳が、信者の顔面を真正面から打ち抜いたのだ。男は声も上げられず、その場に崩れ落ちた。
「動けと言ったら動く。休めと言われてから休む。それが、信者だ」
吐き捨てるような言葉。
だが、それを見た他の信者たちの目に宿ったのは、畏怖ではなかった。
怒りだった。
(ガキが……)
(年下のくせに……)
誰もが、エリオより年上だった。長く教団に仕え、血と汚れを背負ってきた者たちだ。
その空気を、ただ一人、楽しむように眺めている男がいた。
ゴリガン。少し離れた場所で、腕を組み、事の成り行きを見物している。
「……醜いなぁ、コイツら」
小さく呟き、口の端を歪める。
止める気など、毛頭ない。
むしろもっと壊れろ、と言わんばかりに。
下卑た笑みを浮かべながら、ゴリガンは、湖畔に広がる歪な亀裂を眺めていた。




