第八話 生存
薄暗い室内に、煎じ薬の匂いが漂っていた。
ルシオが身じろぎすると、すぐ横から椅子の軋む音がする。
「動くな。まだ裂けたままだ」
低く、少し掠れた男の声。
視線を向けると、そこには三十代半ばほどの男がいた。無精髭に、くたびれた白衣。だが目だけは、異様に落ち着いている。
「……あんたが」
「村医者のバルサロだ」
簡潔に名乗り、薬草をすり潰す手を止めない。
「助けてくれた……?」
「正確には」
バルサロは、ちらりと視線を横にやった。
戸口の近く。そこに、小さな影があった。
九歳ほどの少女。日に焼けた肌に、くりっとした目。不安と好奇心が入り混じった顔で、ルシオを見つめている。
「こいつが見つけた」
「アーシャだよ!」
少女が一歩前に出て、胸を張る。
「川のとこでね! 血だらけで流れてきて、石に引っかかってたの!」
ルシオは、ゆっくりと目を閉じた。
(……流された、のか)
「……普通は、死んでる」
バルサロが、淡々と言った。
「骨は折れてないが、脇腹は深く裂けてた。出血量も多い。あの高さ、あの流れ……」
一度、言葉を切る。
「正直、運が良すぎる」
ルシオは、苦笑した。
「……そう言われるの、慣れてます」
「ふざけて言ってるわけじゃない」
バルサロは、ルシオの包帯に手を伸ばし、軽く押さえる。
「筋肉の密度、内臓の位置。訓練されすぎだ。普通の旅人じゃない」
そして、視線が落ちる。
ベッド脇に置かれた、血の付いた服。
その中から覗く、封のされた一通の手紙。
「教団の人間だな」
ルシオの胸が、きゅっと縮んだ。
否定は、しなかった。
代わりに、ゆっくりと口を開く。
教団に拾われたこと。
信じていた教え。
疑問を抱いたこと。
エリオのこと。
崖のこと。
逃げた理由も。
卑怯だと分かっていながら、選んだ道も。
全部、話した。
バルサロは、途中で一切口を挟まなかった。
アーシャも、いつの間にか黙って聞いている。
話し終えると、室内に、しばらく沈黙が落ちた。
「……なるほどな」
バルサロは、深く息を吐いた。
「命懸けで逃げてきたってわけか」
「……はい」
ルシオは、枕元に置かれた手紙を、そっと掴む。
「お願いがあります」
声が、少し震えた。
「それ……読んで、もらえませんか」
バルサロは、一瞬だけ目を細めた。そして首を横に振る。
「無理だ」
「……え?」
「これは魔力封印だ」
バルサロは、手紙に触れずに言う。
「送り先に紐づけられてる。開けようとすれば、最悪、燃えるか、呪いが跳ね返る」
部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。
アーシャが、思わず一歩下がる。
「……じゃあ」
ルシオは、天井を見上げた。
「俺が、あれだけ命懸けで奪ったこれも……」
「本人に渡らなきゃ、ただの紙切れだ」
バルサロは、はっきりと言った。
そして、少しだけ声を和らげる。
「だがな」
ルシオを見る。
「お前が生きてるって事実だけで、もう十分に面倒な話だ」
ルシオは、かすかに笑った。
「……そうでしょうね」
沈黙を破ったのは、アーシャだった。
「ねえ」
小さな手を胸の前で組み、首を傾げる。
「ラグーナシア様でも、無理なの?」
その名が出た瞬間、空気が変わる。
水帝ラグーナシア。
水明国の女王にして、大陸屈指の魔力を持つ存在。
バルサロは、一瞬だけ顎に手を当てた。
「……どうだろうな」
即答しない。
「魔力の封式を解く、あるいは無効化し破壊する……」
少し考え、肩をすくめる。
「ラグーナシア様なら、わからん」
ルシオの目に、微かな光が灯る。
「……なら」
上体を起こそうとした、その瞬間。
「……会いに――イッテェ!!」
鋭い痛みが脇腹を貫き、声にならない叫びが漏れた。身体が言うことをきかず、再びベッドに叩き戻される。
「だから動くなって言っただろ」
バルサロが、呆れたように言う。アーシャは、慌ててベッドのそばに駆け寄った。
「だ、大丈夫!?」
そして、きらきらした目で言う。
「会いに行って?私に言ったの!?」
あまりにも真っ直ぐな言葉。ルシオは、痛みで歪んだ顔のまま、乾いた笑いを漏らした。
「いや、痛かったのよ。……自分で行くよ」
その様子を見て、バルサロはつい吹き出した。
「ははっ……ははは」
腹を押さえ、首を振る。
「無茶言うな。今のお前は、山道どころか便所までが限界だ」
そして、少しだけ真面目な声に戻る。
「まずは怪我を治せ」
包帯に手を添えながら、はっきりと言った。
「話は、そっからだ」
ルシオは、天井を見つめたまま、ゆっくりと息を整える。まだ、何も終わっていない。だが終わらせるには、生きていなければならない。
小さな村の医者の家で、ルシオは初めて、次を考える時間を与えられていた。
その手の中には、まだ開かれていない一通の手紙。
そしてその先には、水帝ラグーナシアがいる。




