第七話 一矢
ルシオが逃げた果てに辿り着いた場所、それは行き止まりだった。
木々が途切れ、地面が唐突に切れ落ちているその先は崖。ルシオは足を止めた。
下を覗く。岩肌の合間を縫うように、小さな川が見えた。水は澄んでいるが、流れは細く、浅い。飛び込めば、岩に叩きつけられる可能性の方が高い。
(……最悪だな)
背後で、足音。
血の跡を辿り、エリオが姿を現した。
短刀を構えたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。
逃げ場は、ない。
「終わりだ、ルシオ」
淡々とした声だった。エリオは、崖とルシオを見比べ、わずかに口角を上げる。
「選べ」
一歩、また一歩。
「飛び降りて死ぬか
俺の手で、死ぬか」
その言葉に、ルシオは笑った。
「……はは」
血に濡れた口元が、歪む。
「やっぱ、お前は最高に教団の犬だな」
エリオの眉が、僅かに動く。
ルシオは、ふらつきながらも、ポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、一通の手紙。封蝋の跡。見覚えのある紋章。エリオの目が、見開かれる。
「……いつの間に」
信じられない、という声だった。
「さっきだよ」
ルシオは、手紙をひらひらと振る。
「殴り合ってる最中に、落としただろ。教団の大事なミッション書類」
エリオの表情が、初めて歪んだ。
「返せ」
「やだね」
ルシオは、にやりと笑う。
「俺は飛ぶ。お前はミッション失敗」
一歩、後ろへ。かかとが、虚空にかかる。
「玄武に焼き入れられとけ、ボケ」
「ふざけるなぁぁぁッ!!」
エリオが叫び、踏み込む。だが遅い。ルシオは、勝ち誇ったような顔で、腕を広げた。
(教団に……ほんの一矢、だけどな)
胸の奥が、妙に晴れやかだった。
(小さいかもしれねぇけど……気持ちいい)
悔いは、なかった。
身体が、宙に投げ出される。
風が、血の匂いをさらっていく。
次の瞬間。
――サバン。
水音が、崖下に響いた。その音だけが、しばらくの間、山に残っていた。
崖の縁で、エリオは立ち尽くしていた。
下を見下ろす。
岩肌、小川、白く砕ける水。
――遺体が、ない。
「……チッ」
短く舌打ちし、踵を返す。
目的は一つだ。
手紙の回収。
生死など、どうでもいい。
任務は、失敗していないかどうか。それだけだ。
エリオは慎重に、時間をかけて崖を降り始めた。
木の根を掴み、岩の出っ張りに足をかける。焦りはない。教団で叩き込まれた動き。
やがて、川辺に降り立つ。
血の跡は途切れていた。
水は澄んでいるが、流れは思った以上に速い。
浅い場所でも、足を取られれば簡単に転ぶ。
(……流されたか)
エリオは、周囲を睨みつける。
岩の陰。倒木の根元。水草の絡まる淀み。
ない。死体も、血溜まりも、衣服の切れ端すら。
エリオは眉を寄せた。
「……ありえない」
飛び降りた高さを考えれば、生きている可能性は低い。だが、死体が見つからないという事実が、胸の奥に嫌な感触を残す。
エリオは、川沿いを歩き始めた。
もし引っかかっているなら、下流だ。
岩に。木に。何かに。
歩くたび、水音だけが耳に残る。
時間が、じわじわと奪われていく。
(……玄武に知られたら)
一瞬、背中に冷たいものが走る。
任務失敗。対象未回収。
異端の逃亡、あるいは生死不明。
焼き入れ。
その言葉が、脳裏をよぎる。
エリオは唇を噛み、さらに足を速めた。
「……必ず見つける」
それが、任務のためなのか。
それとも――別の感情なのか。
エリオ自身にも、もう分からなかった。
一方。
川をさらに下った先。
水明国の領内にある、小さな村。
畑と川に挟まれた、静かな集落だった。
その村の端。
年季の入った一軒の家でルシオは、ゆっくりと目を開けた。
白い天井。
木の梁。
薬草の、かすかな匂い。
身体を動かそうとして、脇腹に激痛が走る。
「――っ……!」
声にならない声が漏れ、喉がひくりと鳴る。包帯。胸から腹にかけて、きつく巻かれている。指先に、感覚がある。息も、できる。
「……い……」
乾いた唇が、震えた。
「……生きてるのか……」
一拍、置いて。
「……俺?」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。天井を見つめたまま、ルシオは、ゆっくりと息を吐く。
死んだと思っていた。
いや、死ぬ覚悟は、あった。
なのに、こうしてまだ世界は続いている。
外から、誰かの足音がした。木戸が、きぃ、と軋む。その音を聞きながら、ルシオはぼんやりと思う。
(……落ちた、よな?崖から)
記憶は、そこで途切れている。
生きている理由も。
ここにいる理由も。
何一つ、分からない。だが、胸の奥に確かな感覚だけが残っていた。
(……逃げ切った)
教団から。
エリオから。
ほんの、わずかな差で。
それだけで、今は十分だった。




