第五話 手紙
それから、数週間が過ぎた。
かつて廃屋と呼ばれていた場所は、いつの間にか教会施設と呼ばれるようになっていた。
瓦礫は片づけられ、崩れていた壁は仮設の木材で補強される。穴だらけだった屋根には、粗末ながらも板が打ち付けられ、雨風はしのげる程度にはなっていた。
完全な再建には程遠い。
それでも――人は、集まった。
寝床ができ、食事が配られ、祈りの時間が設けられる。夜になれば灯りが点き、誰かの声が聞こえる。
生活だ。ルシオは、その光景を少し離れた場所から見つめていた。
(……ここ、何だったんだ)
ただの廃屋だったはずだ。
だが、地下への扉、妙に分厚い壁、生活用にしては不自然な間取り。
まるで、最初から何かを閉じ込める場所だったかのような。
誰に聞いても、答えは返ってこない。
「昔の施設だよ」
「使われなくなってたんだ」
「気にする必要はない」
そう言って、皆、視線を逸らす。清風街の空気は、日を追うごとに重くなっていった。
教団の見回りは増え、物資の配給は協力的な者から優先されるようになる。祈りに参加しない家には、訪問が入る。
注意。
忠告。
そして、圧。
逆らう者はいなくなった。
正確には、逆らえなくなった。
ルシオは、それを毎日、肌で感じていた。
エリオも同じだった。
以前より口数が減り、笑うことも少なくなった。
それでも彼は、教団の命令には忠実だった。
生き残るために。
ある日。
二人が施設の外で作業をしていると、玄武が呼び止めた。
「ルシオ。エリオ」
低く、揺るがない声。
二人はすぐに姿勢を正す。
玄武は懐から、一通の封書を取り出した。
封は固く閉じられ、教団の印が押されている。
「これを持て」
エリオが、両手で受け取る。
「届け先は、麒麟様の御許だ」
その名を聞いた瞬間、ルシオの心臓が、わずかに跳ねた。
光神教団総帥・麒麟。
噂でしか知らない存在。
だが、街のすべてが、その名の下で動いている。
「道中で余計なことは考えるな。聞かれたこと以外、話すな」
玄武は、淡々と続ける。
「お前たちは、運び手だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……はい」
エリオが答える。
ルシオは、少し遅れて頷いた。
玄武は二人を一瞥すると、もう興味を失ったかのように背を向けた。
「準備ができ次第、出立しろ」
それだけ言い残し、施設の奥へと消えていく。
その背中を見送りながら、ルシオは胸の奥に広がる違和感を押さえきれなかった。
この街。
この施設。
そして、あの男たち。
すべてが、「正しい」という言葉で塗り固められていく。
(……俺は)
手紙を抱えるエリオの横顔を見つめる。
(……どこまで行けば、戻れなくなるんだ)
答えは、まだ出なかった。
ただ一つ確かなのは、二人が向かう先に、玄武とは比べものにならない人物が待っている、ということだけだった。
二人は出立した。背負うのは最低限の水と乾いた保存食だけ。街道を外れ、山道へと踏み込む。
清風街を覆っていた重苦しい空気は、山を登るにつれて薄れていった。だが、その代わりに、別の不安が胸に溜まっていく。
――手紙。
エリオが肌身離さず持つ封書を、ルシオは何度も横目で見ていた。
(……何が書いてあるんだ)
玄武が、麒麟に直接届けろと言ったもの。ただの報告ではないはずだ。
聞きたい。
だが、聞けない。
山道を半日ほど進み、二人は最初の休憩地・湖の馬宿に辿り着いた。
湖畔に建つ古い宿だが、人の出入りは多い。
商人、旅人、護衛らしき者たちが、馬に水をやり、食事を取っている。
「ここで一度、休もう」
エリオがそう言い、二人は腰を下ろした。
この先は一気に山を越え、光神教会区域へ入る。
戻るなら、ここが最後だ。
ルシオが水を飲んでいると、近くの卓から声が聞こえてきた。
「……聞いたか? 風翔国」
「ん?」
「雷帝国に続いて、今度は光神教団にやられてるらしいぞ」
ルシオの手が、止まる。
「そうか……また戦争か」
「いや、戦争ってより……侵食だな。気づいたら街に教団の施設が建ってて、逆らえなくなる」
別の男が、溜息混じりに続けた。
「雷帝国の時みたいにさ、また黒炎龍を宿す者が助けに来てくれりゃいいんだがな」
「はは……都合よく現れるもんじゃねぇよ」
笑い声。だが、そこには希望があった。
ルシオの胸が、強く脈打つ。
(……やっぱり)
教団の言っていた救済なんかじゃない。これは、奪っている側の理屈だ。
目の前が、はっきりとした。
そのとき、影が視界に割り込んだ。
エリオだった。
彼は、ゆっくりと商人と旅人の前に立つ。背筋は伸び、目は冷えている。
「光神教団を否定する異端よ」
宿の空気が、凍りついた。
「浄化してやる」
瞬間。
「エリオ!!」
ルシオは、反射的に立ち上がっていた。
エリオの腕を掴み、叫ぶ。
「やめろ! 逃げてください!!」
一瞬の沈黙。
「なっ……」
「こ、こいつ……!」
「例のカルトの人間か!?」
商人と旅人の顔が、恐怖に歪む。
「くそっ、行くぞ!」
「馬を出せ!」
椅子が倒れ、食器が落ちる音。人々は我先にと宿を飛び出し、湖畔へ散っていった。
残されたのは、張り詰めた空気と、二人だけ。
エリオは、掴まれた腕を見下ろす。
「……なぜ止めた」
低い声。ルシオは、震えながらも、目を逸らさなかった。
「それ以上やったら、戻れなくなる」
エリオの瞳が、わずかに揺れた。
だがすぐに、何かを押し殺すように視線を伏せる。
「……次は、邪魔するな」
そう言って、腕を振りほどいた。宿の外では、馬のいななきと、遠ざかる足音。湖面には、何事もなかったかのように風が走っている。
ルシオは、胸を押さえた。
(……間に合ったのか)
それとも。
(……もう、遅いのか)
二人は再び、荷を背負う。
山の向こう光神教会区域へ。
戻れない一線は、もうすぐそこまで迫っていた。




