第三十五話 山の麓の村
日が傾き始めた頃、一行は山の麓にある村へと辿り着いた。
切り立つ山々を背にしたその村は、思いのほか活気がある。木造の家々が密集し、行き交う人の数も、いわゆる山村の想像よりはるかに多かった。
「……人、多くないか?」
ジャックが周囲を見回し、首を傾げる。
村の中央には広場があり、荷を下ろす商人、剣を携えた冒険者風の一団、革袋を背負った猟師たちが行き交っている。子どもたちの笑い声すら聞こえてきた。
ミリアも違和感を覚えていた。
「山の麓って、もっと静かなものだと思ってた」
その疑問に、通りすがりの村人が応じる。
「そりゃそうだが、この辺りは特別でな」
男は気さくに笑い、親指で山を指した。
「登山に、キノコ狩り、獣狩り。それに、国境を越える前の足慣らしに来る兵士や傭兵も多い。訓練場代わりってわけだ」
「なるほど……」
クレイは納得したように頷いた。風翔国へ向かう者にとって、この村は最後の補給地点でもあるのだろう。
宿を探して村を歩くが、どこも盛況だった。
「満室です」
「今夜はもう空きがなくて」
「団体が入ってましてね」
断られるたび、日はさらに傾いていく。
ようやく案内されたのは、村の外れに並ぶ二軒の宿だった。
一つは、外観からして立派な石造り。窓も大きく、灯りも明るい。
もう一つは、年季の入った木造の宿。壁は軋み、看板の文字も少し剥げている。
「空いてるのは、この二つだけだよ」
案内人が言う。
「こっちは高いが快適。あっちは安いが……まあ、古いな」
値段を聞いたジャックが、露骨に顔をしかめた。
「うわ、高っ」
ミリアも思わずクレイを見る。
「……どうする?」
クレイは一瞬、迷ったようだった。
王族だと名乗れば、融通が利く。それは間違いない。だが、彼は首を横に振った。
「ここは、ただの旅人でいこう」
そして、安宿の方へと視線を向ける。
「資金は、先で必要になる」
ジャックが肩をすくめる。
「だよな。どうせ寝られりゃいい」
ミリアも小さく笑った。
「屋根があって、雨がしのげれば十分よ」
こうして三人は、古く安い宿を選んだ。
軋む扉を押し開けた瞬間、かすかに漂う木と埃の匂い。だが、それは同時に、旅の途中でしか味わえない、どこか懐かしい匂いでもあった。
簡素な夕食を済ませたあと、宿の主人が声をかけてきた。
「風呂はな、うちには無くてよ。裏道を少し行った共同浴場を使ってくれ」
そう言って渡された木札には、湯気の立つ印が刻まれている。
「……別の風呂?」
ミリアが首を傾げると、主人はどこか誇らしげに笑った。
「この村はな、実は温泉が湧いててよ。一部じゃ、知る人ぞ知る湯治場なんだ」
意外な言葉だった。
外に出ると、確かに夜風の中に、ほのかに硫黄の匂いが混じっている。
教えられた道を進むと、木造の共同浴場が現れた。湯気が立ち上り、昼の疲れを誘うようだ。
それぞれ、暖簾をくぐる。
女湯に入ったミリアは、すでに先客がいることに気づいた。
年の近そうな四人組の女の子たち。湯船に浸かりながら、楽しげに話している。
「明日から、山でキャンプなんだよ!」
「目標は山頂の景色!」
「朝焼け、絶対きれいだよね!」
無邪気な声が、湯気の中に弾んでいる。
ミリアは軽く会釈し、端の方で静かに湯に浸かった。湯は思いのほか柔らかく、張り詰めていた身体が、ゆっくりとほどけていく。
一方、男湯。
湯船に入ったジャックは、思わず目を見開いた。
「……うわ、すげぇな」
周囲には、筋骨隆々とした男たちが並んでいた。傷跡のある者、体を鍛え抜いた者。どう見ても只者ではない。
「な、なぁクレイ……あれ、絶対どっかの騎士団だろ」
小声で囁くジャック。
だが、隣で湯に浸かる男たちの会話は、意外な内容だった。
「次は北峰だな」
「この時期は風が読めねぇ」
「装備は軽くした方がいい」
「……登山?」
話を聞けば、全員が趣味の登山家だった。
「はは、よく言われるよ」
そう笑われ、ジャックは気まずそうに頭を掻く。クレイは、肩まで湯に沈めたまま、くすりと笑った。
「違ったな」
「……違ったな」
その夜。
三人は宿へ戻り、簡単に言葉を交わしたあと、それぞれ床に就いた。
軋む天井。遠くで風が鳴る音。山の気配が、すぐそこまで迫っている。
こうして、旅の一日は静かに終わりを告げた。
翌朝。
山の村は、早朝から静かな活気に包まれていた。荷を背負う旅人、登山の準備をする者、狩りへ向かう猟師たち。
ミリアたちも身支度を整え、宿の前で馬車に乗り込む。
「風翔国を目指すんだろ?」
手綱を整えながら、宿の店主が声をかけてきた。
「途中までは馬車で行けるがな。最後の山だけは、どうしても歩きになる」
店主は北の方角を指差す。
「その手前に、湖がある。旅人のための馬宿があってよ、馬を預けるにはちょうどいい場所だ」
「湖と、馬宿……」
クレイが頷く。
「そこを、今日の目的地にしよう」
こうして三人は、馬車に揺られながら山道へと入っていった。
平地とは違い、道は次第に細くなり、木々が空を覆う。車輪が石を踏み、軋む音が静かな山中に響いた。
ミリアは窓の外を見つめる。
深い森。冷たい空気。遠くに見えていた山々が、少しずつ、確かな存在感を持って迫ってくる。
やがて馬車は、湖へと続く道を進む。
最後の山の手前。そこにあるという湖と馬宿が、三人の次なる拠点となる。
風翔国への旅は、いよいよ本格的な山越えへと踏み込もうとしていた。




