第三十四話 兄と妹
旅立ちを翌日に控えた夜。
炎龍国王城の一角、灯りを落とした書庫で、クレイは妹と向かい合っていた。
机の上には書物が山と積まれている。歴史、法、領地運営、外交記録。
どれも王族の学びに欠かせぬものだ。
「……まだ、やってたのか」
クレイが言うと、クレアは顔を上げ、小さく笑った。
「当然でしょう。兄さんが炎帝を継ぐその時、私が何もできなかったら意味がないもの」
炎帝リグーハンの血を引く娘。だが、クレアには魔力がない。それでも彼女は、学びを止めなかった。
「最大の助けになるって……そんな肩肘張らなくていい」
「いいえ」
クレアは、はっきりと言い切る。
「兄さんが前に立つなら、私は後ろを支える。剣も魔法も使えない私にできるのは、それだけだから」
一瞬、沈黙が落ちる。
そして、クレアはぽつりと本音をこぼした。
「……でも、少しだけ。羨ましいとも思うの」
クレイは眉をひそめる。
「羨ましい?」
「ええ」
クレアは視線を落とし、指先を絡めた。
「過酷な遠征。命のやり取り。きっと、怖い……それでも、兄さんは外の世界を見ることができる」
静かな声だった。
「私は、城の中で書物を読むことしかできない。でも兄さんは、自分の足で世界を知っている」
クレイは、すぐに言葉を返せなかった。
魔力は、血によって授かる可能性は高くなる。だが、いかに優れた家系であろうと、使えぬ者は使えない。逆に、先祖代々魔力と無縁の血筋から、爆発的な力を持つ者が生まれることもある。
それは才能であり、呪いでもあった。
「……クレア」
クレイは、妹の頭に手を置く。
「外を見るだけが、世界を知ることじゃない」
クレアは驚いたように顔を上げる。
「お前が学んでいることは、俺が剣を振るより、ずっと多くの命を救う」
少し照れたように、視線を逸らしながら。
「それに、俺が帰ってくる場所が、ここにあるのは心強い」
クレアは、一瞬きょとんとし、やがて柔らかく笑った。
「……無事に、帰ってきてください」
「約束する」
翌朝。
城門の前で、クレアは三人を見送っていた。ミリアとジャックにも、丁寧に頭を下げる。
「兄を、よろしくお願いします」
「任せて」
ジャックが軽く手を振る。
「ちゃんと生きて返すから」
ミリアは、静かに頷いた。
馬車が動き出す。石畳の音が、次第に遠ざかっていく。クレアは、姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
こうして三人は、風翔国へ向けて旅を開始する。
伝承の地へ。
狂気が蠢く国境の向こうへ。
それぞれが背負うものを胸に、馬車は静かに走り出した。馬車は、炎龍国の城下を離れ、緩やかな街道へと入っていた。揺れは一定で、車内には束の間の静けさが流れる。
その沈黙を破ったのは、ジャックだった。
「……仲のいい兄妹だな」
何気ない一言。
だが、どこか羨ましさも滲んでいる。
向かいに座るクレイは、窓の外から視線を戻し、ふっと口元を緩めた。
「そうか?」
「そうだろ。空気が違う」
クレイは肩をすくめる。
「君たちも、十分仲がいいと思うが」
その言葉に、ジャックとミリアが同時に顔を向けた。
「それに」
クレイは続ける。
「俺とクレアは、君たちみたいに……口論になったことすらない」
一瞬の間。
ミリアが、じとっとした目でジャックを見る。
「それは賢いからよ」
「ん?」
「妹の扱いを、ちゃんと分かってるって意味」
ジャックは得心したように頷きかけて、ミリアの言葉の続きに眉をひそめた。
「ウチの兄は……アレだから」
「……アレ?」
ジャックが聞き返すと、ミリアは当然のように言い放つ。
「察しなさい」
沈黙。次の瞬間。
「ちょっと待った!アレとはなんだよ!」
ジャックが声を張り上げる。
「お前こそアレだろ! いきなり殴ってくるし、言葉より先に拳だし!」
「はぁ!? そっちが余計な一言を言うからでしょ!」
「それはお前の短気が原因だろ!」
「なによその言い方!」
馬車の中が、一気に騒がしくなる。クレイはその様子を眺めながら、静かにため息をついた。
「……なるほど」
小さく、しかし確信を込めて。
「確かに、仲がいい」
ミリアとジャックは同時にクレイを睨み、声を揃えた。
「どこが!」
馬車は揺れながら、風翔国へと向かって進んでいく。口論もまた、旅の一部だった。
そんなこんなで、馬車は炎龍国を北へ、北へと進んでいた。
赤土の大地は次第に色を失い、風は乾き、空気がわずかに冷たくなる。
遠くまで続いていた平原の向こう、視界の遥か先にそれは姿を現した。
連なる山々。
空を切り裂くようにそびえ立つ峰が、幾重にも重なり、地平線を塞いでいる。
ミリアは思わず息を呑んだ。
「……あんなに、山が」
馬車の御者が、苦笑混じりに手綱を引く。
「ここからが、本番だな」
その言葉に応えるように、クレイが前方を見据えたまま、静かに口を開いた。
「風翔国は……」
一拍置いて。
「……あの山を、いくつか越えた先にある」
淡々とした口調だったが、その奥には覚悟が滲んでいた。ジャックが鼻で笑う。
「いくつか、ってのが嫌な言い方だな」
「実際、そうなんだ」
クレイは否定しない。
「峠は険しく、天候も変わりやすい。国境に近づくほど、人の気配も薄れる」
ミリアは、無意識に胸元へと手を添えた。黒炎龍の気配は、静かに内側で眠っている。
だが山々は、ただそこに在るだけで、不吉な沈黙を放っていた。
風翔国への道は、すでに始まっている。




