第三十二話 英雄の帰還
水の都に、朝の光が満ちていた。
澄んだ水路に反射する陽光の中、ミリアたちは出立の準備を整える。
水明国での戦いは終わった。だが、その爪痕は、確かに残っていた。
街路には人だかりができている。花を手にした者、帽子を振る者、ただ静かに見送る者。
「ありがとう、英雄たち!」
その声に、ミリアは小さく頭を下げた。誇らしさよりも、安堵が先に来る。
アリウムは、ジャックの前に立つ。
「また会おう」
短く、だが確かな言葉。二人は拳を交わし、そして、強く握手をした。
「次は、もっといい勝負をな」
「負ける気はねえよ」
笑い合う二人の背に、戦場の記憶が静かに溶けていく。
クレイとミリアの前に、ラグーナシアが歩み寄った。まだ万全ではない身体だが、その眼差しは、水帝として揺るがない。
「いつでも、来てください」
柔らかな声で、だがはっきりと。
「そして、あなた方が窮地に立たされた時は、水明国は必ず駆けつけます」
ミリアは、少し驚いたように目を見開き、やがて深く頷いた。
「……ありがとうございます」
炎龍国へと向かう背中を、水の都は最後まで見送った。
平穏は、束の間だとしても。
一方その頃。
雷帝国・中枢。
重厚な机の上に、一通の書簡が置かれていた。
差出人は、風翔国。
ハイドは、それを無言で開く。
最後の三大将軍、ランスからの報告だった。
『人体実験、初成功』
淡々と綴られた文字を、ハイドは一行ずつ追っていく。
『非検体・001 ゴリガン
飢えて倒れていた、正体不明の兵士らしき男。
体だけは頑丈だったため実験台とする。
初の生存例。
機械化は一部、自我も残存。失敗作』
ハイドの口元が、わずかに歪む。
『非検体・002 アリス
風翔国兵士長エンリケの娘。
自我の消失には失敗』
ページをめくる。
『非検体・003 エンリケ
自我の消失、完全成功。
完成品機械兵、第一号』
最後に、冷たい数字。
『実験台の生存率、4%
引き続き、風翔国の人間を改造予定』
ハイドは書簡を閉じた。
「……いい」
低く、楽しげな声。
「実に、いい流れだ」
雷帝国は、敗れたのではない。形を変え、次の地獄へ進んでいるだけだ。
そして、ある部屋。薄暗い空間の中央で、メアリは膝を抱え、揺れていた。
「許さない……」
唇が、壊れた人形のように動く。
「許さない許さない許さない許さない許さない許さない……」
焦点の合わない瞳が、虚空を睨む。
「黒炎龍の……メスガキ……クソ豚……」
声は掠れ、憎悪だけが濃縮されていく。
「許さない……許さない……許さない……」
誰に向けた言葉か。それすら、もう曖昧だった。
復讐だけが、彼女を生かしていた。
戦争は終わった。だが、悪意は、確実に次の章へ進んでいる。
炎龍国への帰路。
山道を越え、乾いた大地を踏みしめながら、ミリアたちは歩いていた。戦争の熱は、すでに遠い。
だが、道の向こうから、白い装束の一団が現れた。
人数は多くない。揃いの法衣、胸元に刻まれた光輪の紋章。歩調は揃い、誰一人、周囲を警戒する様子がない。
すれ違いざま、先頭に立つ男が、穏やかな声で語りかけてくる。
「全ては、光の神の御導き」
その声には、不思議な説得力があった。
「我ら光神教団は、荒廃した乱世のすべてを救います」
笑みは柔らかく、だが瞳の奥には、揺るがぬ確信が宿っている。
通り過ぎたあと、ジャックが眉をひそめた。
「……なんだ、ありゃ」
軽口のようでいて、本能的な違和感が滲んでいた。クレイは、視線を前に向けたまま、小さく答える。
「……この大陸に巣食う、カルト教団です」
声を潜めて。
「関わらない方がいい」
それだけ言って、口を閉ざした。
噂では――
教団の頂点に立つ男は、光の魔力の才能に恵まれ、その力は、大陸一とも囁かれているという。
だが、その真偽を確かめる者は、ほとんどいない。
やがて、一行は炎龍国へと帰還した。
城門が開かれ、赤き城壁の内へと迎え入れられる。炎帝リグーハンは玉座から立ち上がり、三人を見据えた。
「よくぞ、やった」
低く、重みのある声。
「水明国を守り抜き、雷帝国の野望を挫いた。それは、炎龍国にとっても、大陸にとっても大きな意味を持つ」
一人ずつ、近衛が進み出る。
クレイに。
ジャックに。
そして、ミリアに。
胸元に、勲章が授けられた。
それは栄誉の証であり、同時にこれからも戦いの中心に立つ者であるという、烙印でもあった。
「誇りに思え」
リグーハンは、そう言った。
ミリアは、静かに頷く。
戦争は終わった。だが、世界はまだ、救われていない。
光を名乗る者たち。
闇に沈む者たち。
そして、龍の力を宿す者。
新たな火種は、すでに各地で燻っている。
ーーー 第二章 漆黒の戦乙女 完 ーーー




