第二十七話 嵐の予感
雷帝国を退けた日から、二か月が過ぎていた。
真夏の太陽が、水明国の白い石畳を照らす。だが、暑さは不思議と和らいでいた。
街中を巡る数多の水路が、絶えず風を呼び込んでいる。水面を渡る涼気が、人々の頬を撫で、都は穏やかな日常を保っていた。
その西の空が、いつの間にか暗く染まり始めていた。
王城の高台。ラグーナシアは、欄干に手を置き、空を見つめている。
黒い雲が、ゆっくりと、だが確実に集まりつつあった。
「……嫌な予感がしますね」
呟きは、風に紛れて消える。
理屈ではない。水帝としての経験でもない。
ただ長年、戦場を生き抜いてきた者の、直感だった。
そして、数時間後。
甲高い音が、水明国全域に鳴り響いた。
緊急事態を告げる、警鐘。街が、一瞬でざわめく。
「来たか……!」
「兵舎へ! 急げ!」
人々が動き出す中、王城の中庭では、すでに部隊が整列していた。
「やはり、来ましたね」
ラグーナシアは、静かに言う。
その声に、動揺はない。
彼女はすでに、兵士たちにも、そしてミリアたちにも嫌な予感がすることを、事前に伝えていた。
備えは、できている。空から、最初の雫が落ちた。
ぽつり。
ぽつり、ぽつりと。
やがて、それは雨となる。
同時に、西方の城外から、地鳴りのような足音が響き始めた。
雷帝国軍、侵攻開始。
雨に煙る戦場。その先頭に立つのは、
漆黒の戦乙女・グロリア
大鎌を携え、無言で前を見据えている。
その隣には、女が一人。
メアリ。
どこか恍惚とした表情で、視線はただ、グロリアだけを追っていた。
「……始まりますね」
囁く声は、祈りにも似ている。
そして、もう一人。
大柄な男が、肩を鳴らしながら歩く。
「はは……いい天気じゃねぇか」
サイガは、降りしきる雨を気にも留めない。
「強者が揃ってるって話だ。退屈はしなさそうだな」
その背後に、雷帝国の兵士たちが続く。
整然と、しかし確実に、戦の形だ。
そして、最後方。丘の上。
雨に濡れることもなく、高みから戦場を見下ろす男がいた。
雷帝ハイド。
腕を組み、余裕の笑みを浮かべている。まるで、芝居を観る観客のように。
「……さて」
小さく、愉しげに呟く。
「水帝と、黒炎龍」
視線の先にあるのは、水明国。
「どこまで、踊ってくれる?」
雷鳴が、遠くで轟いた。それは、開戦の合図。
真夏の雨とともに、再び戦火が、水の都へと迫っていた。
城門の上から、合図の角笛が鳴り響いた。
「放てぇ――!」
水明国の矢部隊が、一斉に弓を引き絞る。
空を覆うように放たれた矢の雨が、雨粒と交じり合いながら、雷帝国軍へと降り注いだ。
同時に、城壁の一角で、ミリアが一歩前へ出る。
「行くよ」
掌に宿った黒炎が、凝縮され、弾丸となる。
黒炎弾。
低い唸りを上げながら放たれたそれは、矢の雨を追い越し、一直線に先頭へと迫った。
さらに――
「炎よ、道を裂け!」
クレイの剣が、水平に振り抜かれる。
赤熱した斬撃、炎斬波が大地を舐めるように走り、雷帝国の陣形へと突き刺さった。
だが。
最前線に立つ二人は、微動だにしない。
グロリアが、一歩踏み出す。そして大鎌を、横一文字に振るった。
ガァンッ――!!
金属音とともに、黒炎弾が、真っ二つに裂かれる。炎は霧散し、雨に溶けて消えた。
その隣。
メアリは、ほとんど舞うような動きで、細剣を走らせる。
きん、と軽い音。
飛来した矢が、一本、また一本と正確に斬り払われていく。
彼女の視線は、矢でも城でもない。ただ、グロリアの背だけを追っていた。
「……美しい」
恍惚とした呟きが、雨音に溶ける。
「おっと」
サイガは、矢の軌道を一瞥しただけで、身体を傾けた。
一本が肩をかすめ、もう一本が脇腹を抜ける。だが、どれも致命には届かない。
彼は、まるで見えているかのように。いや、見ているのではない。感じ取っている。
「悪くねぇな」
口元を歪め、愉しげに笑う。
雷帝国の兵は削られる。矢に倒れ、炎に焼かれ、悲鳴が上がる。
だが本命は、無傷。
その事実を悟った瞬間、水明国側が動いた。城門が、重々しい音を立てて開く。
「突撃――!」
先頭に立つのは、アリウム。水明国軍を率いる将であり、蒼き鎧を纏った歴戦の戦士。
その横には、剣を握りしめたジャックの姿があった。
「かかれー!!」
鬨の声とともに、水明国軍が雪崩れ込む。
両軍が正面からぶつかり合い、戦場は一気に白兵戦へと変わった。
剣と槍が交錯し、盾がぶつかり合う。雨に濡れた石畳が、血で赤く染まっていく。
アリウムの前に、一人の巨漢が進み出た。
雷帝国軍、兵士長ゴッサム。
全身を覆う大盾。それに見合う、重槍。
隙のない構え。まさに、鉄壁。
「我らの進撃を、止められると思うか」
低く響く声。
アリウムは、口角を上げる。
「止めねばならん理由が、こちらにはある」
二人の視線が、正面から激突した。
一方、その少し離れた場所。ジャックは、前へ出た瞬間、強烈な圧を感じ取る。
「面白そうな奴がいるじゃねぇか」
サイガが、ゆっくりと拳を鳴らした。
(コイツ……バガンほどじゃねぇけど、めちゃくちゃ強い……!)
剣を握る手に、わずかな汗が滲む。それでも雨の中、二人が向き合う。剣士と闘士。
互いに、退く気配はない。戦場の喧騒の中で、確かに生まれたもう一つの決闘。
水の都を揺るがす戦いは、ここから本格的に牙を剥き始めていた。




