第十九話 水明国、到着
盗賊団が去った後、村には遅れて歓声が広がった。
村人たちは、恐る恐る、そして次第に確信をもって三人へと歩み寄ってくる。
感謝の言葉が重なり、頭を下げる者、涙を浮かべる者もいた。
「本当に……ありがとうございました」
「もう、どうなることかと……」
クレイは戸惑ったように視線を泳がせたが、ミリアとジャックは慣れた様子で応じる。
「礼はいらないよ。普通のことをしただけ」
ミリアの言葉に、村人たちは何度も首を振った。
「いえ、どうか……せめて、今夜は村に泊まってください」
「食事も、用意します。お金はいりません」
そうして三人は、無料で宿と食事を提供されることになった。
宿といっても、木造の簡素な建物だ。だが掃除は行き届き、灯された明かりは、長旅で張り詰めていた心を自然と緩めてくれる。
さらに村人は、どこか誇らしげにこう付け加えた。
「谷の下に、温泉があるんです」
「昔から、旅人の疲れを癒してきた湯でして」
夕暮れの中、三人は谷へと下りていった。
岩肌の隙間から湧き出す湯気が、ゆらゆらと立ち上る。硫黄の匂いが、戦いの名残を少しずつ洗い流していく。
温泉は、岩と木で作られた簡素な壁によって仕切られていた。豪華さはないが、必要十分な配慮がなされている。
湯に身を沈めると、張り詰めていた身体が、ゆっくりとほどけていった。
「……生き返るな」
仕切りの向こうから、ジャックの珍しく素直な声が聞こえる。
「こういう時間、大事だよね」
ミリアは、湯気越しに見える夕空を仰いだ。
クレイは少し離れた場所で、肩まで湯に浸かりながら、静かに息を吐く。
(これが……戦の外の世界)
剣を振るわずに過ごす時間。
守るべき人々の、穏やかな日常。
夜、宿で囲む食卓には、質素ながら温かな料理が並んだ。
村人たちは代わる代わる三人のもとを訪れ、感謝の言葉と共に話をしていく。
話題は、自然と水明国へと及んだ。
「水明国の方は、最近静かですね」
「いや……静かすぎる、というか」
だが、得られる情報は限られていた。
ここは、水明国に近いとはいえ、まだ炎龍国の領土内だ。
国境を越えた内情までは、村人たちも把握していない。
「観光で来る水明国の人が、めっきり減りました」
「行商人も、最近は見かけません」
それだけだった。
戦の話も、侵攻の具体的な噂も、ここまでは届いていない。
それが、逆に不気味だった。
何も知らない――
それは、何も起きていないのではなく、まだ見えていないだけかもしれない。
三人はそれぞれの寝床で、静かに目を閉じる。
束の間の休息。だが、旅の先に待つものが、穏やかでないことだけは、誰もが感じ取っていた。
翌朝。
村人たちに見送られ、三人は再び馬車に乗り込んだ。谷から立ち上る湯気が、朝の光に溶けていく。
街道を進むにつれ、空気が変わり始めた。乾いていた風は次第に湿り気を帯び、土の匂いに水の香りが混じる。
空は薄い雲に覆われ、遠景は霞みがちになっていった。
「……霧が多くなってきたな」
ジャックが、前方を見据えて呟く。
やがて、道の脇に一本の石柱が現れた。苔に覆われ、風雨に削られた古い境標。
刻まれているのは、水の紋章。水明国の国境だった。
クレイは馬車を止め、短く息を吐く。
「ここから先が……水明国」
一歩進むだけで、世界が変わる。
馬車が境標を越えた瞬間、霧が一段と濃くなった。
蹄の音も、車輪の軋みも、水に包まれたように柔らかく吸い込まれていく。
道の両脇には水路が走り、澄んだ水が静かに流れて石畳を濡らしていた。
「……きれい」
ミリアが、思わず声を漏らす。
炎龍国の荒々しい大地とは、あまりにも違う。
ここでは水がすべてを包み、鎮め、隠しているかのようだった。
行き交う人影は少ない。すれ違う旅人もどこか足早で、視線を合わせようとしない。
商隊の姿も、噂通りほとんど見当たらなかった。
街道は、緩やかな下りへと続く。やがて、霧の向こうに微かな輪郭が浮かび上がった。
水面に反射する淡い光。無数の橋。
白く細い塔の影。
「あれが……」
クレイが、言葉を失う。
水路が幾重にも巡らされた都市。
水の上に築かれた城塞都市・水明城を中心とする、水の都。霧の中に佇むその姿は、現実でありながら、どこか幻のようだった。
「水明国の王都……」
ジャックが、低く呟く。ミリアは、胸の奥で、黒炎が静かに揺れるのを感じていた。
あの都の中心に、水帝ラグーナシアがいる。そして、雷帝国の侵攻が、すでに及んでいるかもしれない。
馬車は、ゆっくりと坂を下りていく。
霧の向こうで、水の都は、確かに三人を待っていた。




