第六十二話 黒炎龍がいなくても
ラグーナシアは、王城に戻っていた。
白亜の城壁は健在で、城下には人の往来が戻りつつある。完全な復興には、まだ時間がかかるだろう。それでも世界は、確かに滅びを免れた。
この日、それぞれの国が帰路につく。
ミリアとルシオは、風翔国へ。
ジャックと、退院を許された炎龍国の兵たちは、炎龍国へ。
王城の中庭に、集った者たちを前に、ラグーナシアは静かに頭を下げた。
「皆に、心から感謝を」
水帝としての威厳ではなく、一人の人としての礼だった。
「あなた方がいなければ、この世界は、もう存在していなかった」
ミリアは、軽く首を振る。
「皆で勝ったんです」
「……そうですね」
ラグーナシアは、微笑んだ。
別れの準備が進む中、ミリアはふと、隣に立つルシオを見上げる。
「ルシオ」
「は、はい!」
「私の護衛、頼むわよ」
一瞬、ルシオは目を瞬かせ、それから慌てて姿勢を正した。
「は、はい! 全力で務めます!……ですが」
言いかけて、困ったように続ける。
「ミリア様の方が、僕より遥かにお強いのでは……」
その言葉に、ミリアは少しだけ間を置いた。
そして、あっさりと言う。
「それがね」
周囲の視線が、自然と集まる。
「麒麟を倒した、あの最後の奥義以降、私の中から黒炎龍はいなくなったの」
「……え?」
ルシオだけでなく、皆が息を呑む。
「今の私は」
ミリアは、胸に手を当て、涼しい顔で続けた。
「か弱い乙女、よ」
一拍。
「――ぶっ」
最初に耐えきれなかったのは、ジャックだった。
「な、何よ?」
ミリアが睨む。
「いやいやいや」
ジャックは腹を抱えながら言う。
「お前のどこが、か弱いんだよ」
「ちょっと!? それどういう意味!?」
「全部だよ全部! ついこの前、神をもぶっ飛ばしてた奴が言う台詞か!」
「それはこの前まででしょ!」
「今でも十分化け物だろ!」
「何ですって!」
兄妹の言い合いが始まる。
あまりにも、いつも通りで。
あまりにも、平和で。
ルシオは呆然とし、やがて苦笑する。
アリウムも、トルネロも、炎龍国の兵たちも、誰からともなく笑いが漏れた。
神はいない。だが、人はいる。
戦いは終わり、こうして口論できる日常が、確かに戻ってきた。
ラグーナシアは、その光景を静かに見つめながら、胸の奥で確信する。
人の時代は、まだ続いていく。
それは、決して弱くはない時代だ。
笑い声の響く王城で、世界は次の一歩を踏み出していた。
別れの時は、静かに訪れた。
王城の中庭。出立の準備を整えたミリアの前に、ラグーナシアが歩み寄る。
「ミリア」
その呼びかけに、ミリアは背筋を正した。
ラグーナシアは、ひとつ、小さな箱を差し出す。装飾は控えめだが、纏う気配だけで、ただの品ではないと分かる。
「あなたへの感謝と友情、そして」
一拍、置いて。
「帝として。同盟国の証として、これを渡します」
箱の中に収められていたのは、短剣だった。
刃は淡い蒼。水面のように揺らめく光を帯び、握りには細やかな紋様が刻まれている。
「宝刀・海神の牙」
その名に、周囲が息を呑む。
ミリアは、ゆっくりと受け取った。
「……重いですね」
物理的な意味ではない。そこに込められた想いの話だ。
「大切にします」
「ええ。あなたになら、託せます」
二人は、短く微笑み合った。こうして、ミリアとルシオは、風翔国への帰路についた。
数日後。
風翔国へと続く山道は、まだ人の往来が少ない。戦の傷跡が、あちこちに残っていた。
「……静かすぎますね」
ルシオが周囲を警戒しながら言う。
「こういう時ほど、出るのよ」
ミリアの言葉通りだった。
「止まれ!!」
岩陰から飛び出してきたのは、山賊だった。
粗末な武装。統制の取れていない足並み。
数は、十。
「運がいいなぁ! 女とガキの二人連れだ!」
「荷物置いていけ! 命までは取らねぇ!」
ルシオが、一歩前に出る。
「ミリア様。下がってください」
最初の山賊が、剣を振り下ろす。
ルシオは、かわした。
紙一重。反撃の一閃。
「ぐあっ!?」
一人目が倒れる。
「な、なんだこいつ!」
そして、二人目。これまで守られてきた背中を、今度は自分が守る番だと、歯を食いしばる。
ふと、背後が気になって振り返る。
「……ミリア様?」
そこにあった光景に、ルシオは固まった。
「この短刀……」
ミリアが、何気ない調子で言う。
「使いやすいわね」
彼女の足元には、残りの八人の山賊が、きれいに転がっていた。
気絶。あるいは、完全に戦意喪失。
血は最小限。無駄な動きは、一切ない。
「…………」
ルシオは、言葉を失った。
「どうしたの?何か問題あった?」
「い、いえ……」
ルシオは、ゆっくりと首を振る。
確かに。
黒炎龍は、もういない。
神を焼き払う力は、失われた。
だが、数々の死線。
強敵との戦い。
仲間を失い、それでも立ち続けた経験。
それらが、すべて、彼女の中に残っている。
ミリアは、短剣を一度振り、鞘に納めた。
「弱くなったかもしれないけど」
穏やかに、しかし断言する。
「戦えなくなったわけじゃないもの」
ルシオは、苦笑した。
「……やっぱり、護衛が必要なのは」
「何?」
「僕の方ですね」
ミリアは、くすっと笑う。
山道に、再び静けさが戻る。
人の時代を生き抜く力は、
もはや神のものではない。
それを、彼女は、何より雄弁に証明していた。




