第五十八話 一進一退
瓦礫と死臭が漂う戦場に、重たい沈黙が落ちた。
残る敵は――
麒麟、ただ一人。
麒麟は、まだ立っていた。
クレイの渾身の一撃は、その体を深く裂き。
ミリアの連撃は、肉を焼き、骨を砕いていた。
裂傷。
火傷。
肋骨の幾つかは、確かに折れている。
それでも、致命にはまだ遠い。
麒麟は肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、焦りも恐怖もない。
ただ、冷え切った光。
一方で。
ミリアたちも、もはや万全とは程遠かった。
数多の兵。
歴戦の精鋭。
名を刻んだ戦士たち。
そのすべてが、たった一人に斃されていった。
そして、今――
立っている者は、僅か五人。
ミリア。
クレイ。
アリウム。
トルネロ。
ルシオ。
息は荒く、血と煤にまみれ、剣を握る手は震えている。それでも、誰も武器を捨てなかった。
「……まだ、やれるか」
低く呟いたのは、トルネロだった。
次の瞬間、麒麟の姿がぶれた。
「――っ!」
気づいた時には遅かった。
閃光。
衝撃。
トルネロの身体が宙を舞い、地面を転がる。
「トルネロ!!」
ミリアの叫びが響く。
駆け寄ろうとしたその前で、トルネロは自ら腕を突き、無理やり上体を起こした。
だが、立てない。
脇腹から溢れる血、骨が異様な角度で沈んでいる。
「……くそ……」
歯を食いしばるトルネロを見て、アリウムが一歩前に出た。そして、静かに告げる。
「撤退しろ、トルネロ」
即断だった。
「アリウムさん、俺はまだ」
「無理だ」
言葉は短く、しかし重い。
アリウムは、倒れたトルネロを一瞥し、続けた。
「……イーヴァも、そう言ったはずだ」
その名に、場の空気が凍る。
イーヴァ。死の間際、血を吐きながら。
――生きろ、若造。
その声が、確かに胸に蘇った。
ルシオも限界が近い。このままでは、確実に殺される。アリウムがそう判断し、すぐに指示を飛ばす。
「ルシオ、トルネロを運べ」
ルシオは、反論しなかった。ルシオ自身も、トルネロを生かすための、最適解だとわかっていたからだ。
麒麟が仕掛けてくる。
アリウムが迎え撃つ。
「百烈突!!」
ミリアとクレイも、攻撃を合わせる。
麒麟が、ゆっくりと口を開いた。
「……英断だったな」
血に濡れた唇が、薄く歪む。
「奴らは足を引っ張る。あのまま残せば、貴様ら――精鋭中の精鋭に、必ず隙が生じる」
「喋るな」
アリウムが踏み込み、叫ぶ。
怒涛の突きが、嵐のように降り注ぐ。
「百烈突!!」
槍の軌跡が幾重にも重なり、空気が裂ける。正面から、圧殺するつもりだった。
だが、麒麟の姿が掻き消えた。
「……っ!?」
次の瞬間、背後。冷たい気配が、首筋を撫でる。
「お前は強い」
麒麟の声が、至近距離で響いた。
「だが、私には遠く及ばん」
クレイが吼える。
「させるか!!」
ミリアも、同時に踏み込む。二人の連撃が、左右から麒麟を挟み撃ちにする。刃と炎が、同時に迫った。
しかし、麒麟は動じない。両腕を、ゆっくりと広げた。片手ずつ、光が集束する。
光神壁。
左右同時に展開された二枚の障壁が、斬撃と炎を完全に阻んだ。
「な……っ」
その瞬間、アリウムが歯を食いしばりながら振り返る。
「まだだ……!」
体勢を崩したまま、槍を突き出す。
「百烈突!!」
「私はな」
静かな声。
「手を翳さずとも、魔法は使える」
次の瞬間、麒麟の両眼が、眩く光った。
「――っ!?」
光線。直線の逃げ場のない殺意。
予想外だった。
攻撃の最中。
回避も、防御も、間に合わない。
「アリウムさん!!」
ミリアの叫びが届く前に。光が、アリウムの身体を貫いた。鮮血が宙に散り、槍が地面に落ちる。
アリウムは、その場に崩れ落ちた。
麒麟は、倒れ伏すアリウムを一瞥する。
「惜しいな」
淡々と。
「だが、それまでだ」
戦場に、さらに重い絶望が落ちた。
――その時。
『こういう時こそ、我らの奥義だ』
胸の奥に、低く重い声が響いた。
覇王ゴウガ。
かつて暗月国を率い、力のみで時代を押し切った王の声。
ミリアは、息を呑む。
そして、もう一つ。
『お前なら、やれる!』
はっきりとした、まっすぐな声。
ガイツ。
背中を預け、何度も笑い合った、戦友の声。
ミリアの中で、何かが繋がった。
知識。
記憶。
魂。
すべてが、一つになる。
「はああああああっ!!」
ミリアが、踏み込む。
「破壊双掌!!」
黒炎を纏った両掌が、真正面から叩き込まれた。
「……何!?」
麒麟が、初めて声を荒らげた。
光神壁が、悲鳴を上げる。
絶対防御――そう信じていた光の壁に、無数の亀裂が走った。
次の瞬間。
砕けた。
光が、粉々に弾け飛ぶ。
「馬鹿な……!」
麒麟の足が、わずかに止まる。
予想外。
それこそが、致命だった。
『いけ、ミリア』
優しく、だが燃えるような声。
『熱き心で、焼き尽くせ!!』
炎帝リグーハン。かつてクレイの父であり、炎そのものとして語られた男の声。
「……っ!」
ミリアの黒炎が、爆発的に膨れ上がる。
「炎獅子!!」
咆哮。黒き炎が、獅子の形を成して解き放たれた。
「――っ!?」
クレイが、思わず目を見開く。
知っている。見たことがある。
「あれは……父上の奥義……!」
だが、違う。
リグーハンの炎は、紅蓮。
すべてを焼き尽くす、王の炎。
だが、ミリアのそれは、漆黒。
夜そのものを燃やす、黒炎の獅子。
「クソッ……!」
麒麟が、防御の構えを取る間もなかった。
黒炎の獅子が、正面から叩きつけられる。
爆音。
衝撃。
光と闇が、激突する。
次の瞬間。
麒麟の身体が、弾丸のように吹き飛ばされた。地面を削り、瓦礫を砕き、遥か後方まで叩き飛ばされる。
戦場に、轟音の余韻だけが残った。
確かに、今、この一瞬。
麒麟は、押された。




