第五十二話 最終決戦、開幕
氷が、鳴った。
それは崩壊の音ではない。呼吸のような、規則正しい軋み。水の都の外に、氷の牢獄が、まるで意思を持つかのようにゆっくりと震えていた。
「……来るぞ」
ジャックが、低く告げる。
次の瞬間だった。
氷の内側で、何かが解けた。封印ではない、結界でもない。
抑制。
それは、麒麟自身が自らに課していた枷だった。氷の中心で、麒麟が目を開く。
「なるほど……」
声は静か。だが、空気が軋む。
「よく、ここまで集めたものだ」
その視線が、炎帝、将、各国の精鋭を順に捉え、最後に、ミリアで止まった。
「……黒炎龍の器」
ミリアの背筋を、冷たいものが走る。
麒麟は、淡々と語り始めた。
「疑問に思っているだろう。なぜ、私が最初から動かなかったのか」
誰も答えない。
答えられる者など、いない。
「理由は単純だ」
氷の内側で、淡い黄金の光が揺らぐ。
「私は、この大陸を滅ぼす気はない」
その言葉に、わずかな動揺が走る。
「星も、自然も、獣も。それらは罪を持たぬ」
麒麟の声は、感情を帯びない。
「光神教団の目的は、ただ一つ」
黄金の光が、はっきりと形を成す。
「人という、罪深き生き物の浄化だ」
ミリアは、息を呑んだ。
「人は、争い、奪い、壊す。理を理解せぬまま、力を振るう」
麒麟は、事実を並べるだけのように続ける。
「ならば、答えは簡単だ。人類を終わらせればいい」
炎帝クレイが、歯を食いしばる。
「……ふざけるな」
「感情論だ、炎帝」
麒麟は首を振る。
「私は、世界を壊したいのではない。世界を正すだけだ。だが、それでも私は動かなかった」
黄金の光が、さらに強まる。
「私の魔力は……私自身のものではない」
大地が、わずかに震えた。
「黄龍」
その名が告げられた瞬間、ミリアの内で、黒炎龍が低く唸る。
『……やはりか』
麒麟は、続ける。
「黄龍は、調和を司る存在。均衡を壊す力を、許さぬ」
黄金の光が、脈動する。
「私が最初から全力で動けば、人類だけでなく、大陸そのものが巻き添えになる。だから、私は待った」
麒麟の視線が、再びミリアに向く。
「人類が、自ら選別される瞬間を」
黒炎龍が、低く笑った。
『なるほどな……お前は“処刑人”じゃない、裁定者気取りか』
その声は、ミリア以外には聞こえないはずだった。
「そうだ」
麒麟は、肯定する。黄龍の宿主である麒麟には、その声が聞こえていた。
「世界に耐えうる例外が現れるまで、私は動けなかった」
黒炎と黄金。二つの理外が、同時に存在する。
「黒炎龍の器よ」
麒麟が、一歩を踏み出す。
「お前が現れたことで、私は初めて動ける」
氷に、無数の亀裂が走る。
「さあ」
黄金の光が、氷を内側から砕く。
「人類が、生き残るに値するか」
氷が、崩壊した。
「その答えを、お前たちが示せ」
最終決戦は、思想ごと、ぶつかる形で幕を開けた。
白い破片が空に舞い、冷気が一気に霧散した瞬間、遠くで静観していた影が、動いた。
光神教団の信者たちだ。
散開していた白装束が、まるで潮が引き返すように戦場へと舞い戻る。
狂信に満ちた瞳。
救済という名の殺意。
「……来るぞ!」
兵士たちが構え直す。
だが。
その中に、ただ一人。
動かない影があった。
ゴリガン。
瓦礫の影に立ち、腕を組んだまま、戦場全体を見下ろしている。氷の破片が、彼の肩を掠めても、眉一つ動かさない。
「……はっ」
低く、嗤った。
「やっぱりな。こうなる」
黄金の光を纏う麒麟。
その前に立つ、黒炎龍の器と、集った各国の英雄。
どちらも、まともじゃない。
「麒麟の思想も、相当イカれてる」
人類浄化。
選別。
裁定。
神様気取りも、ここまで来ると笑えない。
だが、ゴリガンはゆっくりと視線をミリアへ移す。
「かと言って、黒炎龍のガキどもが勝っても……」
唇が、歪む。
「俺の居場所は、どこにも残らねぇ」
光神教団に戻る気はない。
だが、新しい英雄譚の中に、自分の席はない。
生き残っても、居場所がない。
ならば。
「……答えは一つだ」
ゴリガンは、フードを深く被り直す。
「相打ち狙い」
どちらかに与する気は、毛頭ない。
麒麟も潰す。
黒炎龍も潰す。
「自在に立ち回って、双方を削る」
戦場全体を“盤面”として見る。
混乱、隙、油断。
それらすべてが、武器になる。
「最後に笑うのは」
ゴリガンの口元が、獣のように吊り上がった。
「この俺様だろ?」
次の瞬間、彼の姿が消えた。
跳躍。否、滑空に近い。
瓦礫を踏み、氷片を蹴り、影から影へと移る。
信者の群れを盾に使い、兵士の動線を断ち、魔力の流れが歪む場所へと、正確に踏み込んでいく。
誰の側にも立たない。
誰の敵にもならない。
だが、確実に戦場を腐らせていく。
「……あいつ、生きてやがった!!」
ジャックの目が、ゴリガンを捉えた。
黒炎龍が、ミリアの内で低く唸った。
『気をつけろ、あいつは……勝つ気じゃない』
ミリアは、歯を噛み締める。
「……わかってる」
英雄と神。
そして、生き残ることしか考えていない化け物。
最悪の三つ巴が、完成しようとしていた。
戦場は、もはや一つの戦いではない。
それぞれの思想。
それぞれの生存理由。
すべてが交錯する場所へ、ゴリガンはゆっくりと踏み込んだ。
誰も予測しない角度から、致命を狙うために。




