第四十一話 カロスと暗月国
暗月国・暗月城下町。
日が傾き始めた石畳の路地で、一人の老人が壁際に追い詰められていた。背中は丸く、手にした荷袋を胸に抱え、逃げ場を失っている。
「だからよ、さっさと渡せって言ってんだろ」
明らかにガラの悪い連中だった。数は七、八人。服装も統一感がなく、だが目つきだけは揃っている。最近、暗月国で幅を利かせ始めた半グレ集団だ。
そこへ、駆け寄る足音。
「そこまでだ」
見回り中のガイツだった。老人と連中の間に割って入る。
「ここは暗月国だ。無法は許さない」
だが、半グレたちは怯まない。むしろ、嘲るように笑った。
「おいおい、兵士様かよ」
「数、見えてねぇのか?」
ガイツは舌打ちする。囲まれている。応援を呼ぶには、少し距離があった。
その時だった。
半グレの一人が、前のめりに倒れた。
「……あ?」
誰も何もしていない。少なくとも、そう見えた。次の瞬間、別の一人が崩れ落ちる。膝から、静かに。
「な、なんだ……?」
混乱が広がる中、さらに一人、また一人。
ガイツの視界の端に、青が映った。
青い衣を纏った、一人の男。
彼は走っていない。構えてもいない。ただ、歩いていた。半グレの一人が叫ぶ。
「ふざけんな!」
ナイフを抜き、男に突き立てる。
だが、刃は空を切った。
否。すり抜けた、と思うほどの、極限の見切り。
男は、ほんのわずかに身体を傾けただけだった。それだけで、刃は当たらない。
次の瞬間、ナイフを持っていた男が、何かに打たれたように吹き飛び、地面に転がる。
音は、ほとんどなかった。
ガイツは目を凝らす。
だが、何も見えない。
(……見えない?)
攻撃が、ではない。
動きそのものが、認識できない。
気づけば、半グレたちは全員、地に伏していた。呻き声を上げる者、気絶している者。立っている者は、一人もいない。
青衣の男は、倒れた連中には一切目を向けず、怯えたまま動けずにいた老人の前に立った。
そして、静かに手を差し伸べる。
「……大丈夫ですか」
老人は、一瞬戸惑い、それから震える手でその手を取った。
「ぁ、ああ……ありがとう……」
男は、力を込めず、ただ支えるように老人を立たせる。その様子を見ながら、ガイツは身構えたまま、警戒を解かなかった。
「待て」
男が振り返る。
「お前……何者だ?」
暗月国の兵ですら見切れない動き。
だが、そこに殺気はない。誇示もない。
男は、穏やかに答えた。
「私は、カロス」
一拍置き、続ける。
「一宗教家に過ぎません」
その名乗りに、ガイツは眉をひそめた。
宗教家。だが、目の前にいるのは、ただの聖職者ではない。倒れ伏した半グレたちを一瞥した後も、ガイツは警戒を解かなかった。
「……来い」
短い命令だった。拒否を許さない声音。だが、そこに私怨はない。国を守る者の判断だ。
カロスは頷いた。
「構いません」
逃げる気配も、弁解もない。その態度が、かえってガイツの警戒を強めた。
こうして、青衣の男は暗月城へと連行された。
暗月城・謁見の間。
そこに立つ女性は、噂に違わぬ存在感を放っていた。
白銀の髪を後ろで一つに束ね、黒い軍服に身を包む。しなやかな体躯。無駄のない立ち姿。
だが、何よりも印象的なのは、その眼差しだった。氷のように冷え、嘘も、恐怖も、容赦なく射抜く視線。
正しき覇王・レイア。
その傍らには、もう一人。
炎龍国最強の隠密、モウラ。
気配は薄く、だが、そこにいると意識した瞬間、背筋が粟立つ。光神教団の侵略を警戒し、同盟国から派遣された切り札だった。
「……さて」
レイアが、低く言った。
「城下で騒ぎを起こしたのは、お前か」
「いえ。止めただけです」
カロスは、視線を逸らさずに答える。
「ほう?」
レイアの口元が、わずかに吊り上がる。
「兵ですら見えぬ動きで“止めただけ”とは、随分な宗教家だな」
沈黙が落ちる。モウラは何も言わず、ただカロスを見ていた。瞬き一つせず、呼吸の乱れも追うような、隠密の視線。
「名を言え」
「カロスと申します」
「本当の名は?」
試すような問い。カロスは、一瞬も迷わなかった。
「……かつては、光神教団大幹部、青龍と呼ばれていました」
空気が、凍りつく。ガイツが一歩前に出かけ、モウラの気配が、わずかに鋭くなる。
だが、カロスは続けた。
「風帝ミリアと出会い、その名を捨てました。今は、ただの旅人……カロスです」
言い切る声に、飾りはない。懺悔でも、弁明でもなかった。モウラが、ゆっくりと口を開いた。
「……レイア様」
視線を外さず、断言する。
「こいつに悪意はない。おそらく……全て、正直に言っている」
レイアは、少しだけ目を細めた。
「炎龍国最強の隠密が、そう言うか」
そして、ふっと息を吐く。
「あぁ……ミリアなら、光神教団の大幹部一人、心変わりさせても不思議じゃないな」
その名を口にしたとき、警戒の中に、微かな信頼が滲んだ。
カロスは、静かに語り始める。
「風翔国に、小さな教会を作りました」
孤児たち。
身寄りのない老人たち。
夜、行き場のない心を抱えた者たち。
「祈りのためではありません」
視線を上げる。
「人には……正しき救いの場所が必要です。裁かれず、押し付けられず、ただ、生きていていいと確認できる場所が」
その言葉に、レイアは反応した。
ほんの一瞬。だが、確かに。
暗月国もまた、孤児が多い。
戦で家族を失った者、老いて頼る先をなくした者。
理想だけでは、どうにもならない現実が、彼女の国にもあった。
「……監視を付ける」
レイアは、即断した。
「モウラ」
「は」
「こいつの教会設立を許可する。ただし、お前の監視下だ。一つでも怪しい動きを見せたら、斬る」
モウラが、淡々と引き継ぐ。カロスは、深く頭を下げた。
「それで構いません」
隠すものはない。逃げるつもりもない。
レイアは、その姿を見つめ、静かに告げた。
「暗月国に来たこと、後悔させるなよ……カロス」
その言葉は、警告であり、同時に許可だった。
こうして暗月国に、新たな光が、静かに灯されることになった。




