第三十九話 カロスと風帝
清風街の門前。
張り詰めた空気の中、やがて足音が近づいてきた。規則正しく、しかし急がない足取り。
先頭を歩くのはガンドロフ。その隣に、風に揺れる薄衣をまとった少女がいた。
風帝ミリア。そして、半歩後ろに控えるのは元・光神教団アネモネ。
門前の兵士たちが、一斉に背筋を正す。街の喧騒が、嘘のように遠のいた。
ミリアは、青龍の前で立ち止まった。
互いに、無言で向き合う。
教団の大幹部と、黒炎龍を宿す風帝。
かつてなら、剣か奇跡が交わる距離だった。
先に口を開いたのは、青龍だった。
「私は、カロス」
名を告げる声に、迷いはない。
「あなたの噂を聞き、ぜひこの目で真偽を確かめたく、参りました」
そして、一拍置いて続ける。
「教団で伝えられていた、あなたの姿。厄災の黒炎龍としての、すべてを」
周囲の兵士が、息を呑む。
だが、ミリアは驚かなかった。
眉一つ動かさず、ただ静かに答える。
「……聞いています」
それだけだった。
ルシオが、ミリアの横で小さく頷く。
アネモネもまた、目を伏せたまま、何も言わない。
「ルシオからも、アネモネからも」
ミリアは、淡々と続けた。
青龍は、その反応にわずかに目を細める。
そして、語り始めた。
山中で倒れていた商人、ガオレムを助けたこと。
炎龍国へ同行したこと。
紅蓮町で聞いた話。
ガオレムの娘、エマ。
彼女が語った、風帝ミリアという人物。
一つひとつ、脚色せず、誇張せず。
旅人として見聞きした事実だけを、淡々と。
話し終えたとき、清風街の門前は、完全な沈黙に包まれていた。
その沈黙を、ミリアの声が破る。
「……エマは」
そこで、ほんの少しだけ、表情が緩む。
「元気でしたか?」
たった一言。だが、それだけで空気が変わった。
緊張が、ふっとほどける。兵士たちの肩が、わずかに下がる。ガンドロフが、鼻で小さく息を吐いた。
帝の問いではなかった。一人の友人の、素直な心配だった。
「……ええ」
青龍は、静かに答える。
「とても」
その返答を聞いたミリアは、ほんの一瞬、安堵の色を浮かべ、そして顔を上げた。
「皆」
澄んだ声が、門前に響く。
「この方は、大丈夫です」
ざわ、と声が広がる前に、ミリアは続けた。
「迎え入れましょう」
「ですが!」
エリオが、思わず声を上げる。
「この人は、光神教団の大幹部ですよ!? 危険です!」
ミリアは、エリオを見た。叱責ではなく、諭すような眼差しで。
「……違うわ」
そう言って、青龍を見る。
「この人は、旅人のカロスさんよ?」
ふっと、柔らかく笑う。
「目を見れば、わかるわ」
「悪い人じゃない」
その言葉は、判断だった。
命令ではなく、信頼だった。
ルシオが、静かに武器を下ろす。
アネモネもまた、深く息を吐いた。
青龍は、その光景を、言葉もなく見つめていた。
(……これが、風帝)
力で従わせない。
恐怖で支配しない。
人を見る。
その在り方こそが、教団が、否、教祖麒麟が最も恐れ、否定し続けた答えだった。
風が、清風街を吹き抜けた。門は、ゆっくりと開かれる。
一人の旅人は、ついに風帝の国へと、足を踏み入れた。城の中を歩きながら、青龍は、何度も視線を巡らせていた。
風が通る回廊。
子どもたちの笑い声が響く中庭。
兵士と民が、自然に言葉を交わす光景。
(……同じ場所、とは思えないな)
かつてここは、光神教団の施設だった。機械兵の実験が行われ、人を道具として扱っていた城。
だが今、そこにあるのは生活の匂いと、平和の気配だった。
その日の夜、青龍には城での食事と寝床が用意された。豪奢ではない。だが、温かく、誠実なもてなしだった。
「……感謝します」
そう言って頭を下げると、ガンドロフは鼻を鳴らし、アネモネは静かに微笑んだ。
ミリアはただ、「ゆっくり休んで」とだけ告げた。
その夜、青龍は久しぶりに何も恐れず、眠った。
翌日。
小さな応接の間。
窓から差し込む風が、薄布のカーテンを揺らしている。
ミリア。
ガンドロフ。
アネモネ。
三人の前に、青龍は立っていた。
「……話したいことがあります」
そう切り出し、深く一礼する。
「私の過去を」
誰も遮らなかった。ミリアは黙って頷き、椅子に腰掛けた。
青龍は、語り始める。
「光神教団に集った者たち……その多くは、元々悪ではありませんでした」
静かな声だった。
「戦争に巻き込まれた者、
犯罪に家族を奪われた者、
親を、子を、友を失った者」
言葉を選ぶように、一つずつ紡ぐ。
「ある者は、復讐のために、
ある者は、救済のために、
そして、ある者は……奪う者を、決して許さぬ正義のために」
ガンドロフが、腕を組んだまま、黙って聞いている。アネモネは、視線を落とした。
「……私もまた、かつては、ただの一人の人間でした」
青龍は、少しだけ目を伏せる。
「守れなかった、救えなかった」
それだけで、どれほどの後悔が込められているか、誰にでも分かった。
「だからこそ、光にすがったのです」
かつての記憶が、ゆっくりと語られる。
「雷帝インドラ率いる雷帝国の侵略、水帝ラグーナシア率いる水明国の防衛」
大陸を揺るがした、大戦争。
「その戦で……私は、家族を失い、仲間を失い、そして一人になりました」
青龍の声は、揺れなかった。
「元々、目がよく……集中力だけは、人並み以上でした。だから、死線を越えて、生き残った」
そこで、わずかに間が空く。
「……ですが」
静かに、続ける。
「家族や仲間は、そうはいかない。全てを、失いました」
部屋の空気が、重く沈む。
「途方に暮れていた私に、声をかけたのが……光神教団の信者でした」
救いを求める者たち。
迷い、泣き、祈る人々。
「そこには、私と同じように、行き場を失った者たちがいました」
そして。
「大幹部の一人……朱雀」
その名に、ガンドロフの眉が動く。
「彼女の正体は、大盗賊ラミア。火魔法における天賦の才能を持ち、数多の殺しと、盗みを働いた……大罪人でした」
青龍は、淡々と続ける。
「ですが、ついに捕らえられた時、教団に救われた。それ以降、彼女は教団を守っていた……私は、それを更生だと信じていました」
アネモネが、小さく息を呑む。
「私自身も、救われた恩から、教えを信じ、麒麟様を心から崇拝してきました」
その言葉に、偽りはなかった。
「……ですが」
青龍は、顔を上げる。
「時が経つにつれて、疑問を抱くようになったのです」
守るための教えが、支配に変わっていく。
救済の名の下に、選別が行われる。
正義が、誰かを切り捨てる道具になっていく。
「そして」
ミリアを見る。
「あなたの噂を聞いた。話を聞いた……実際に、会った」
その目は、まっすぐだった。
「私は、目が覚めました」
はっきりと、言い切る。
「教団が恐れ、否定してきた存在こそ、人を救っていたのです」
しばし、沈黙。やがて、ミリアが静かに口を開いた。
「……ありがとう」
それだけだった。だが、その一言には、裁きも許しもなかった。ただ、人として話してくれたことへの感謝だけがあった。
青龍は、その言葉を胸に受け止める。
この城で。この国で。
彼は、ようやく光を見つけ始めていた。




