第三十八話 カロスvsガンドロフ
翌朝。
青龍は、宿を出た。空は高く、風翔国らしい澄んだ風が、山裾から街へと流れている。歩みは一定で、迷いはない。
目指す場所は、ただ一つ。
清風街。風帝ミリアの居る街。
道中、畑が増え、往来が増え、風景は少しずつ国の中心の顔を帯びていった。商人の荷車、子どもたちの笑い声、遠くで鳴る鍛冶の音。
それらを、青龍はただ見ていた。
祈りも、決意の言葉もない。あるのは、ここまで歩いてきたという事実だけだ。
夕方。
西日が街を橙に染める頃、清風街の外門が見えてきた。高すぎない城壁。威圧よりも、生活を守るための造り。門の前には、二人の見張りが立っている。
青龍が、一定の距離まで近づいた、その瞬間だった。二人の動きが、ぴたりと止まる。
空気が、変わった。
「……」
一人が、目を見開く。もう一人が、息を呑む。
夕日の逆光の中、はっきりと顔が見えた。
ルシオと、エリオだった。
「……っ」
次の瞬間、エリオが叫んだ。
「敵襲だ!!」
声が、清風街に響き渡る。反射的に武器を構え、警鐘を鳴らそうとする。緊張が一気に伝播していくのが分かる。
だが、青龍は、止まったままだった。一歩も踏み出さず、手も上げず、視線を逸らしもしない。敵意も、殺気もない。あるのは、あまりにも静かな佇まい。
叫び声が、風に溶けていく。
清風街の門前で、三人は向かい合ったまま、動かなかった。
エリオの叫びに呼応するように、清風街の内側がざわついた。
足音。
鎧の擦れる音。
短く鋭い号令。
門の奥から、風翔国の兵士たちが駆けつけてくる。数は多い。だが、その大半は若い顔だった。まだ戦場の匂いを身に刻んでいない者たち。そして――元・光神教団の新兵たち。
緊張と恐怖を、そのまま表情に浮かべている。
だが。
その集団を率いて現れた男は、違った。
ひときわ大きな体躯。
分厚い鎧。
肩に担がれた、大斧。
重い足取りで前に出ると、男は青龍を見据え、口の端を歪めた。
「……久しぶりだな、青龍」
低く、地鳴りのような声。
「何しに来た?」
ガンドロフだった。
かつて、光神教団の幹部。
玄武の右腕として、数多の戦場を渡り歩いた男。
青龍は、その名を聞いても表情を変えない。
「風帝ミリア殿に、会いに来た」
ただ、それだけを告げた。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ガンドロフは鼻で笑った。
「あぁ……そうかぃ」
そして、声の温度が落ちる。
「それは、無理だな!!」
言い終わるより早く、ガンドロフの大斧が振り下ろされた。
速い。
巨体からは想像できない初速。空気が裂け、風切り音が遅れて響く。並の兵士なら、反応する間もなく両断されていた。
だが、斧は青龍の体をすり抜けた。
正確には、当たっていない。
青龍は、ほんのわずかに重心をずらしただけだった。視線も変えず、足も動かさず、極限まで引きつけての見切り。
「……」
ガンドロフの眉が、ぴくりと動く。
「ちっ……!」
次の瞬間。
「知ってるぜ!!」
振り下ろしは止まらない。そのまま腰を捻り、勢いを殺さず、横薙ぎへと繋げる。
連撃。確実に仕留める型。
だが、それでも当たらない。
青龍は、まるでそこにいないかのように、刃の軌道から消え続ける。紙一重。否、紙すら挟まらない距離。
兵士たちが、息を呑む。
「……なんだ、あれ」
「斧が……当たらねぇ」
ガンドロフは、三撃目を振るう前に、動きを止めた。大斧を地面に下ろし、重く息を吐く。殺すつもりだった。本気で、叩き潰すつもりだった。
だが、どこにも反撃の気配がない。殺意を向けても、怒りをぶつけても、青龍は一切応じない。ただ、受け流し、かわし、立っているだけだ。
「……」
ガンドロフは、睨みつける。
「お前」
低く唸るように言った。
「……戦う気が、ねぇな?」
青龍は、初めて、わずかに視線を動かした。
「ありません」
即答だった。
「私は、ここで誰かを傷つけるために来たのではない」
その言葉に、空気がざわつく。剣を握る手が、揺れる。若い兵士たちの目に、迷いが宿る。
ガンドロフは、斧を握る手に力を込めたまま、歯を食いしばった。
(……変わりやがったな)
かつての青龍なら、教団の意志などいい、立ちはだかる者は全て倒していたはずだ。
清風街の門前。武器は構えられ、だが血は流れない。嵐の前の、異様な静けさの中で、青龍はただ一人、風のように立っていた。
しばしの沈黙ののち。ガンドロフは、ゆっくりと大斧を肩に担ぎ直した。兵士たちに向けて、短く顎をしゃくる。
「……下がれ」
「で、ですが」
「いいからだ」
有無を言わせぬ声だった。若い兵士たちは戸惑いながらも武器を下ろし、門の両脇へと退く。
ガンドロフは、再び青龍……否、旅装の男へと視線を戻した。
「風帝の判断を仰ぐ」
それは宣告だった。戦闘の継続ではなく、裁定への移行。青龍は、小さく息を整え、一歩も踏み出さずに言った。
「一つ、頼みがあります」
「……何だ」
「報告の際は、こう伝えてください」
その声は、驚くほど静かだった。
「私は今、カロスと名乗っています」
ガンドロフの眉が、わずかに動く。
「光神教団の青龍としてではない。一人の旅人、カロスとして、風帝ミリア殿に会いに来た、と」
ざわり、と周囲の空気が揺れた。ルシオとエリオが、思わず青龍を見る。兵士たちの間にも、小さな動揺が走る。
名を捨てる。
肩書きを下ろす。
それが、どれほど重い行為かを、武人であるガンドロフは理解していた。
「……ふん」
ガンドロフは、鼻を鳴らした。
「随分と、都合のいい話だな」
だが、その声には、先ほどまでの殺気はなかった。
「だがまあ」
大斧を軽く叩き、踵を返す。
「伝えるだけなら、タダだ」
そのまま、清風街の内側へと歩き出す。
向かう先は、風翔城。かつて光神教団の施設であり、今は風帝ミリアが政を執る城。
過去と現在が重なる場所。ガンドロフの背中が遠ざかる中、門前には再び静けさが戻った。
ルシオが、低く呟く。
「……カロス、か」
エリオは、まだ警戒を解かないまま、青龍を見据えている。
青龍は、ただ立っていた。
名を捨てたからといって、光神教団の青龍としての、今までが消えるわけではない。だが、名に縛られたままでは、辿り着けない場所がある。
(あとは……彼女の判断だ)
風が吹く。清風街の門前で、一人の旅人は、風帝の答えを待っていた。




