第三十七話 カロス、風翔国到着
湖畔に建つ馬宿は、風翔国へ向かう旅人にとって、最後の休憩所だった。
大きな湖がすぐ傍にあり、水面には山と空が静かに映っている。馬のいななきと、桶の水音、行き交う旅人たちの声が、絶え間なく響いていた。
青龍は、馬宿の片隅に腰を下ろしていた。
背負い袋を足元に置き、木の椅子に座る。ただ、湯気の立つ茶を前に、周囲の話し声に耳を澄ませていた。
「聞いたか? 風翔国の新風帝」
「若い娘だろ。だが、腕は本物らしい」
「黒炎龍を宿す者だとか……噂が多すぎてな」
別の卓から、別の声が重なる。
「民を守るために動いたって話だ。人の話を聞く王が出たって」
「女だてらに、って言うやつもいるが……」
「側近が黙らせたそうだぞ」
笑い声が起きる。だが、その空気はすぐに別の話題に飲み込まれた。
「それよりよ、光神教団はどうなってる?」
その言葉に、場の温度がわずかに下がった。
「玄武のやり口が、もう隠しきれてねぇ」
「理不尽な徴収、逆らえば見せしめ。神の名を使えば、何をしても許されると思ってる」
「殺されて当然だ!ホント、風帝様のおかげだぜ」
殺されていい人間などいない……だが、玄武のやってきた事を思えば、そう思われても仕方がない。
「青龍はどうした? あの大幹部、最近聞かねぇぞ」
誰かが、そう言った。
「白虎や玄武みたいに、悪い事企んでんだろどうせ。悪いことすりゃ、風帝様に殺されるさ」
「ちげぇねぇw」
青龍は、茶を一口含んだ。何も言わない。ただ、湯気の向こうで、湖を見ている。
「……結局、教団は変わらねぇってことだ」
「いや、変わったさ。悪い方に、な」
吐き捨てるような声。馬宿の中に、はっきりとした不満が満ちていく。それは怒りというより、失望だった。
「神なんて言葉で縛るより、ちゃんと守ってくれる奴の方がいい」
「だから、あの新風帝に期待してるってわけだ」
青龍は、視線を伏せたまま、黙ってそれを聞いていた。誰も、彼が光神教団の青龍だとは気づかない。気づかれないことが、今は心地よかった。
(……そうか)
噂は、風よりも早い。
そして、民の声は、誰よりも正直だ。
正しさは、教義の中ではなく、人の暮らしの中にある。青龍は、静かに茶を飲み干した。
外では、湖を渡る風が、馬宿の旗を揺らしている。
その風は、確かに、風翔国の方角から吹いていた。
青龍が、湖の馬宿を発ったのは、昼前だった。
湖面を渡る風が、背中を押すように吹く。振り返れば、水と空が溶け合う景色が、すでに遠くなっていた。
青龍は、無言で山道を進む。
道は次第に整い、石が敷かれ、踏み固められていく。人の往来が増えた証だった。
木々の合間から、旗が見えた。
白地に、風を象った紋。
風翔国のものだ。
境界を示す関所は、驚くほど簡素だった。武装した兵はいるが、威圧はない。通行人に声を荒げる者もいない。
「どこへ?」
「風翔国へ」
「……旅の目的は?」
一瞬だけ、間があった。
「特に。通るだけです」
兵は彼を見つめ、やがて頷いた。
「通っていい」
それだけだった。山道を抜けると、視界が一気に開ける。麓の村が、そこにあった。
低い家々が並び、煙突からは細い煙が立ち上っている。畑には人影があり、子どもたちの声が、風に乗って届いた。
活気がある。だが、浮ついてはいない。地に足のついた、暮らしの匂いだった。
(……守られている)
青龍は、そう感じた。
武力ではない。
恐怖でもない。
人が、人として生きられる場所。
遠く、村の奥に、少し高い建物が見える。見張り台か、役所か。いずれにせよ、支配を誇示するためのものではなかった。
風が吹く。湖畔とは違う、乾いた、軽やかな風。
風翔国の風だ。
青龍は、足を止めていた。
ここが、黒炎龍を宿す者、風帝ミリアの立つ国。
噂で聞いた姿と、目の前の景色が、静かに重なっていく。光神教団の青龍として来たなら、この光景は、脅威だっただろう。
だが、今の彼は違う。名もなき旅人として、この地を踏んでいる。
答えを探すために。そして、自分が何者であるべきかを、決めるために。
麓の村へ続く道を、青龍は、ゆっくりと歩き出した。麓の村で、青龍は一日足を止めることにした。
山越えの疲れもあったが、それ以上に、この国の空気を、もう少しだけ感じてみたかった。
選んだ宿は、小さな木造の宿だった。二階建てで、客室は多くないが、戸口には干した洗濯物が揺れている。
「いらっしゃい!」
戸を開けた瞬間、やけに張りのある声が飛んできた。
宿主は、年の頃五十前後の男で、丸い顔に人の良さが滲んでいる。青龍を見るなり、値踏みもせず、ぐいぐいと話しかけてきた。
「旅人さんかい? ちょうどいい、今日は空いてるよ! 一泊? それとも二泊?」
「一泊で」
「よしよし! ゆっくりしていきな!」
部屋に案内されるまでの間も、男の口は止まらない。
「いやぁ、昔はなぁ、この辺も酷かったんだ」
青龍は、相槌だけを打ち、黙って耳を傾ける。
「雷帝国に狙われてよ、兵が来るたびに作物は取られる、男は駆り出される。逃げりゃ裏切り者だ」
宿主は、肩をすくめた。
「それだけじゃない。光神教団もだ。あいつら、救いだの信仰だの言って、結局は金と人を持っていく」
怒りというより、諦めに近い口調だった。
「だからな……この国の人間は、みんな必死だった。誰かを助ける余裕なんてなかった。自分が生きるために、がめつくなるしかなかったんだ」
部屋に荷を置き、下の食堂で茶を出される。
宿主は、そこでようやく少し声を落とした。
「でもよ」
間を置き、にやりと笑う。
「ミリア様が、風帝になられてからだ」
その言い方には、誇りが混じっていた。
「いきなり金が降ってきたわけでもねぇ。兵が増えたわけでもねぇ。でもな、無理な税は減った。村の話を聞く役人が増えた」
外を見る。
子どもたちが走り、畑では老人と若者が並んで鍬を振るっていた。
「皆、余裕が出たんだよ」
宿主は、湯呑みを置く。
「助けたら損だ、騙さなきゃ食えない……そう思わなくてよくなった」
青龍は、その言葉を、胸の奥で反芻していた。
教団の教義にはない話だ。
奇跡も、神託も、救済の儀式も出てこない。
あるのは、少しずつ積み重ねられた“暮らし”だけ。
「いい国だよ、ここは」
宿主は、最後にそう言った。
「完璧じゃねぇけどな。だからこそ、守りたいと思える」
青龍は湯呑みを手に取り、一口飲んだ。温い茶が喉を通る。それだけで、この国がどんな場所なのか、十分に伝わってきた。
この日、青龍は何もせずに過ごした。村を歩き、人の顔を見て、夕暮れを眺めただけだ。
だがその静かな一日が、これまでのどんな戦いよりも、彼の中で重く残っていた。




