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黒炎龍を宿す者  作者: 黒瀬雷牙
第三章 カロスの選択
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第三十六話 カロスの実力

 山麓の村に、再び足を踏み入れたとき。


 青龍は、ほとんど迷わず一軒の宿の前で立ち止まった。


 年季の入った木造の建物。

 外壁はところどころ軋み、看板の文字も半分ほど剥げ落ちている。夜になれば、灯りが点いているのかどうか分からないような、村で一番安い宿だった。


 かつての彼なら、選ばなかった宿だ。


 光神教団の大幹部として、資金はいくらでもある。豪奢な宿に泊まり、誰にも不自由をかけず旅を続けることもできた。


(前の宿は、あくまでガオレムのためだ)


 体調を崩した者に、快適な休息を与える。それは当然の選択だった。自分のために、同じことをする理由はない。


 戸を開けると、かすかに木の匂いがした。


「一泊」


 それだけ告げると、帳場の主人はちらりと顔を上げ、値段を言う。驚くほど安い。


「風呂はな、裏の共同浴場を使ってくれ」


「わかりました」


 それ以上の言葉は交わさず、鍵を受け取る。部屋は狭く、床板もきしむ。窓を開ければ、山の気配がすぐそこまで迫っていた。


 夜。


 青龍は、共同浴場に向かった。


 湯船は大きくない。だが、山水を引いた湯は澄んでいて、疲れを静かに洗い流してくれる。


「……ふう」


 湯に浸かり、肩の力を抜く。思えばこの旅に出てから、初めて何も考えずに湯に浸かった気がした。


 教義も。

 使命も。

 神の名も。


 今は、ない。


 あるのは、今日見た人の顔と、交わした言葉だけだ。


(これでいい)


 湯気の向こう、天井を見上げながら、青龍はそう思った。


 翌朝。


 まだ空が白み始めたばかりの時間、青龍は宿を出た。主人に一言礼を言い、背負い袋を肩にかける。振り返らない。


 目指す先は、ただ一つ。


 風翔国。


 山は、相変わらず険しい。細い山道は朝露に濡れ、獣の気配も濃い。


 だが、足取りに迷いはなかった。一歩、一歩。確かめるように地を踏みしめる。


 光神教団の青龍としてではない。名もなき旅人、カロスとして。


 山へと続く道を、彼は歩き始めた。


 その先に待つのが、答えか、決別か――

 それは、まだ誰にも分からない。


 ただ確かなのは、この旅が、もう後戻りできない場所へと、彼を導いているということだけだった。



 その後、山道を登っていたときだった。


 風に混じって、荒れた声が聞こえた。


「金と山菜を渡せよ」


 木々の隙間から覗くと、ガラの悪そうな男が四人。粗末な籠を背負った夫婦を囲んでいた。年配の二人だ。山菜採りに来ただけなのだろう。


「痛い思い、したくねぇだろ?」


 男の一人が、にやついた笑みを浮かべる。


 女性は肩を震わせ、籠を抱きしめていた。その前に立つ男性は、怯えながらも必死に腕を広げ、妻を庇っている。


「……勘弁してください。これは、村に持ち帰る分で……」


「だからよ、全部置いてけって言ってんだ」


 その時。


「そこまでだ」


 静かな声が、割って入った。


 男たちが振り返る。そこに立っていたのは、旅装の男が一人。派手さも威圧感もない。どこにでもいそうな、ただの旅人だ。


「何だお前は?」


 一人が、苛立たしげに吐き捨てる。


「金くれるのか?」


「金はやらない」


 青龍は、一歩も前に出ず、淡々と続けた。


「だが……相応の罰なら、与えられる」


 一瞬、空気が凍りついた。男たちは、意味が分からないという顔をしていた。


 次の瞬間。


「ざけんな!!」


 怒声と共に、男の一人が殴りかかった。


 拳が、一直線に飛ぶ。

 だが、青龍は動かなかった。

 正確にはほとんど動いていない。


 拳は、彼の顔をすり抜けた。紙一重。極限まで引きつけ、首をわずかに傾けただけの回避。


 空振りした男が、目を見開く。


「……は?」


「遅い」


 青龍の声は、低く、静かだった。


「止まって見える」


「何だこいつ!?」


 動揺が広がる。


「や、やれ!!」


 四人が一斉に襲いかかった。二人はナイフを抜き、殺意を隠そうともしない。


 だが、変わらなかった。


 青龍は、ほとんどその場から動かない。一歩も踏み込まず、身を捻り、視線を流し、必要最低限の動きだけで、すべてをかわす。


 刃が空を切る。

 拳が空振る。

 衣すら、掠らない。


「……っ」


「当たらねぇ……」


 次第に、男たちの顔から血の気が引いていく。


「お、おい……」


「まさか……」


 一人が、震える声で呟いた。


「……幽霊じゃねぇよな?」


 別の男が、怯えきった目で言う。


「だったらよ……こいつ、攻撃してこねぇんじゃ……」

「わけないだろ」


 次の瞬間。青龍の左手が、ほんのわずかに動いた。見えなかった。誰の目にも、その動きは認識できなかった。


 ただ。殴りかかろうとしていた男の顔から、突然、血が噴き出した。


「――っ!?」


 鼻血だった。確かな衝撃と痛みだけが顔面に残る。何もしていないのに、そう見えた。


「ひ……」


「ば、化け物だ……!!」


 恐怖が、一気に弾ける。


「うわあああ!!」


 男たちは悲鳴を上げ、武器も捨てて山道を転げるように逃げていった。残されたのは、静寂と、呆然と立ち尽くす夫婦だけだった。


 青龍は、二人に向き直る。


「……もう、大丈夫です」


 その声は、先ほどまでと同じ、穏やかなものだった。男性は、深く、深く頭を下げる。


「ありがとうございます……!」


 女性も、涙を滲ませながら礼を言った。青龍は、それに軽く頷くだけで、再び山道へと視線を向けた。


 力は、見せびらかすものではない。恐怖を与えるためのものでもない。


 守るために使われるべきものだ。


 その背中を、夫婦はしばらく見送っていた。


 彼が、神でも、化け物でもなく。ただ、人を助けるために立った、一人の旅人であったことをまだ知らないまま。

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