第三十三話 カロスの出立
信者の数は、確実に減っていた。
光神教会区域。白亜の回廊を歩きながら、青龍はその現実を、数字ではなく空気で感じ取っていた。
祈りの声が、少ない。
香の焚かれる量も、減っている。
報告書には出ない、だが確かな衰え。
(……人は、静かに離れていくものだな)
かつて、自分のもとには最も多くの信者が集っていた。今もそれは変わらない。だが、熱が違う。
青龍は、立ち止まり、天井の聖紋を見上げた。
(私は、何を信じていたのだろう)
光神教団。その在り方を初めて疑ったのは、いつだったか。思い返せば、玄武のやり方には、最後まで賛同できなかった。
恐怖で縛る支配。力による服従。信仰を管理するという発想。
青龍は、違った。
人の話を聞いた。悩みに寄り添った。孤児を引き取り、食事を与え、文字を教えた。
名もなき者の葬儀を、正式な儀式で執り行ったこともある。それが「教団の利益にならない」と咎められても、やめなかった。
(宗教とは、本来……)
答えは、まだ出ない。
そこへ、脳裏に浮かぶ一人の姿。
黒炎龍を宿す者。
教団が最重要危険人物と定めた少女。
破壊の象徴。
神に背く異端。
だが。
(何故だ)
青龍は、拳を握る。
(何故、彼女は民に愛されている)
風翔国。玄武を討ち、帝として迎えられ、一年。
恐怖ではなく、敬意。
神託ではなく、選択。
それは、教団が長年説いてきた“正しさ”とは、真逆の在り方だった。
(……この目で、確かめねばならない)
青龍は、決断した。
誰にも告げず。
護衛もつけず。
麒麟にも、朱雀にも知らせない。
聖衣を脱ぎ、流行りの普段着に身を包む。
光神教団の紋章は、すべて外した。
鏡に映る自分は、ただの旅人だった。
「……名は」
一瞬、考え。
「カロス、とでもしておこう」
教団の名は捨てる。
神の名も、語らない。
ただ一人の人間として。
一人の目で。
青龍――いや、カロスは、光神教会区域を後にした。
向かう先は、風翔国。
新風帝ミリアの国。
それが、信仰の終わりを意味するのか。それとも、始まりなのか。
まだ、誰にも分からない。
だが。この旅が、青龍自身の「選択」になることだけは、確かだった。
山奥に位置する風翔国へ向かうには、いくつもの険しい山脈を越えねばならない。獣道に近い細い山道、突然変わる天候、そして人の往来もまばらな孤立した土地。
青龍。今はカロスと名乗る男は、その道を前にして足を止めた。
(……まずは、だな)
彼は、自分が光神教団の幹部である以前に、一人の人間であることを、誰かに示す必要があると考えていた。
山道を下っていたその時だった。
「……誰か……」
か細い声が、風に混じって聞こえた。
道の脇。倒木の陰に、一人の男が倒れている。青龍は迷わず駆け寄り、膝をついた。
「大丈夫ですか」
額に手を当てる。熱がある。脱水と疲労。無理に山を越えようとしたのだろう。
青龍は水袋を取り出し、ゆっくりと口元に運ばせる。ただの旅人として、あくまで自然に。
「……助かった……」
男は、しばらくして意識を取り戻した。
「俺は……炎龍国の商人だ。風翔国に荷を届けた帰りで……」
その言葉を聞いた瞬間、青龍の中で、進むべき道が定まった。
(風翔国ではない……今は、炎龍国だ)
風翔国へ向かえば、真実に近づけるかもしれない。だがそれは、教団の者として疑われる可能性も高い。
ならばまず、人として信頼を得るべきだ。
「炎龍国へ戻るなら、私も同行しましょう。この山を、一人で越えるのは危険です」
商人は驚いた顔で青龍を見上げ、やがて深く頭を下げた。
「……すまねぇ」
こうして青龍は、風翔国行きを一度断ち、炎龍国へと向かう旅路を選んだ。
それは、光神教団の幹部・青龍ではなく、一人の旅人・カロスとしての、最初の選択だった。
山を下りきった先で、二人は炎龍国領内・山麓の村へと辿り着いた。
そこは、風翔国と炎龍国を繋ぐ山へ挑む者たちの拠点。交易商人、修行者、腕試しの傭兵、そして物見遊山の旅人まで入り混じり、まるで観光地のような賑わいを見せていた。
村の中央には湯気が立ちのぼる温泉街。長旅で傷んだ身体を癒やす湯治場としても知られており、通りには土産物屋や食事処が軒を連ねている。
「……随分、賑やかだな」
商人が、ほっとしたように呟いた。
青龍は、その顔色を一瞥すると、迷わず一軒の宿の前で足を止めた。
石造りの外観。大きな窓からは暖かな灯りが漏れ、玄関には彫刻入りの柱。明らかに、この村でも上等な宿だった。
「ここにしましょう」
「……おいおい」
商人は慌てて袖を引く。
「あんた、いいのかぃ?俺は、ここに泊まるような金なんて持っちゃいないぞ」
まるで申し訳なさそうに言うその顔に、青龍は小さく首を振った。
「気にしないでください。それより、今日はしっかり休むことが大切です」
受付で告げたのは、団体向けの広い部屋。客は二人だけだというのに、だ。
商人は目を丸くしたが、それ以上は何も言わなかった。その代わり、深く、深く頭を下げた。
「……恩に着る」
「大げさですよ」
そう言って微笑む青龍の表情に、嘘や打算はなかった。商人はふらつく足取りで、案内された部屋へと向かう。その背を見送りながら、青龍は一人、宿の廊下に立ち尽くした。
(これでいい……)
光神教団の幹部としてではない。ましてや、黒炎龍を測るためでもない。
ただ、人として、手を差し伸べただけだ。外では、温泉街の灯りが夜の闇を照らしていた。




