お姉さん
「よお、エヴァンスよく来たな。話は聞いてるよ。お前も男なんだから、ガツンとやり返したんだろう。まさかやられっぱなしじゃないだろうな?」と、男勝りの口調で言うのは、会社の経理の木村さんだ。
同じ会社に勤めてはいるが、俺は現場にいるのでほとんど関係はない。ただ、エヴァンスと変なあだ名を付けられながらも可愛がられている。
「ええ、ひっくり返してやりましたよ」ガッツポーズをしてみせた。
「よし。よくやったこっちに来い」
言われて向かうと木村さんはデスクの引き出しを開け「おう、好きなの持って行っていいぞ」お菓子の山を見せて言った。
木村さんは餌付けと言っていつもお菓子をくれる。
社内の挨拶回りで初めて会った時のことだった。
「ええ、十六歳? 私と十個以上違うじゃねえか」と俺の歳を聞いて驚いていた。
「え、本当ですか? 木村さん、インターンの学生かと思いました」冗談で言った。
「おい、坊主。ちょっと来い」と威圧的に言うので、流石にふざけ過ぎたかと思った。が、「お前よく分かってるな。好きなだけ持って行け」と、ニコニコで引き出しを開いた。可愛らしいお姉様である。
それから、エヴァンスという名前の由来は歓迎会を開いてくれた時の事だった。
木村さんは俺の隣に座って随分世話を焼いてくれた。
というよりは瓶ビールを持ってくる人がいる度に「駄目駄目、こいつ未成年なんだから。あと四年後にまたおいで」と、いわゆるアルコールハラスメントから守ろうとしてくれていた。
しばらくの時間が経ち木村さんも酔い始め、俺の肩に手を回して、色々と人生について木村さんが得た教訓を話してくれた。
そして話の流れで「あなた今、恋人はいらっしゃらないの?」と前の席に座る事務のおばさまが言ってきた。
俺は少し前にこのおばさまから、ハラスメント教育の冊子を渡され、読み終えて署名をしたばかりである。だからその時の俺は、恋人がいるのかという質問を、つまり、恋人のように心の支えになる大切なものがあるのか。と、そう聞かれているのだと曲解した。随分詩的な表現である。
「ええ、一つに絞るのは難しいのですが、ジャズピアニストのビル・エヴァンスは心の恋人ですね」
俺がそう言うや否や、木村さんはビールを吹き出して笑っていた。
「お前なんつった? ジャズ、エヴァンス? 確かにお前はジャズとか聞きそうだなぁ。ようエヴァンス、元気かい?」何が面白いのかゲラゲラ笑っていた。
酔っ払いの言うことはよく分からなかったが、余程面白かったのか、俺に凭れかかってきた。その時、木村さんの決して大きくは無いが、粗野な性格とは裏腹な小ぶりで品のある胸が腕に当たった。俺は言語を喪失した。そんなものは不要だった。ただありったけの集中力で腕の神経に意識を注ぎ込み、その押し付けられた柔らかい肉の感触を味わい尽くした。
「心の恋人って、かわいそうに。今は彼女居ないのか」憐れむように、更にくっついた。
「ええまあ、居ませんけど」
「まあでもエヴァンスは可愛いから、すぐに彼女の一人や二人くらいできるよ」ケラケラ笑っている。女性の言う可愛いと、すぐ彼女できるよは、この世で最も信頼してはならない言葉の二つであった。
「そうですかね」辟易として言った。以前も何度かあったが、女性はこうなると水を得た魚のように、助言と称した人格否定を始めることがあった。
「まあでも、初対面の女性をいきなり口説くのは感心せんなぁ」ニヤりと笑った。
「そんなことしてませんよ」
「エヴァンス、お前は私の心を弄んだのか? 高校生に見えるって言えば勝手に喜ぶだろって」
「いや、流石に大学生のつもりでしたよ。なんですかその自信は、高校生は無茶があるでしょう」
「どうせ私は商業高校の女ばかりで男気のない、臭い学校生活を送ってたよ」
「えぇ、臭いんですか?」
「臭いし、全然キラキラした青春なんて過ごせなかった。彼氏なんていなかったし、学校にWiiQ持って行ってみんなでヌマブラしてた」
「いいじゃないですか。楽しそうで」
「本当にいいと思うか? 卒業して残るのは簿記の資格と中途半端なヌマブラの腕前だけ」
「簿記取ってるだけ偉いじゃないですか」
「だからエヴァンスには悔いのない高校生活を送ってほしいんだ。たった三年しかないんだから」三つの指を立て大きな声を出した。
「俺は定時制なんで四年です」
「そんなことはどうでもいい。ただ、お前が心に決めた女がいたら、悔いだけは残さないようにしろよ」言い終えるとジョッキを空にした。
「……ええ、そうですね」
瓶ビールを持って空いたジョッキにビールを注いだ。
独り言のように、色々な後悔を回らない呂律で吐露していた。こんなに明るい姉御肌のお姉ちゃんでも、学生時代を後悔するなんて意外だった。
「二次会オッパブ行く人ー」酔った部長が全体に呼びかけた。
俺の右手は驚くほど真っ直ぐ屹立し、周りの親父達は大喜びしていた。新入りがいくなら、俺が行かないわけにはいかないと。
「おい、エロ餓鬼、そんなとこ行くな」俺の上げた手を無理矢理掴んで下ろした。「それはお前が心に決めた人に対する精神的な不貞行為だ」
男勝りの木村さんは肉体的な道楽に寛容なのかと勝手に思っていたが、後で話を聞いてみれば、一度彼氏を商売女に寝取られているとのことだった。ならば仕方あるまい。
結局俺は、カラオケの方に参加した。
これが俺のあだ名エヴァンスの由来であった。
「じゃあ」俺は個包装されたチョコレートを一つ取った。
「おいおい、餓鬼が遠慮なんかすんなよ」ビニール袋を取り出して鷲掴みにして袋にぶち込んだ。
「ありがとうございます」
すると事務のおばさまが来て俺に書類を持ってきて、サインを求められた。木村さんはデスクの上の書類を退かしてここで書けよと、空いたスペースを軽く叩いた。
会社に事件のことを相談したときに聞いたのだが、福利厚生の一環として社員個人に何かあった時、弁護士に相談や交渉を頼める制度があった。俺はその制度を使用したので、名前を記入した。
こんなものは郵送で済ませればいいのだが、みんな心配してるから一度顔を見せに来い。と、部長が言うので、わざわざ本社へ足を運んだ。
「それで、結果はどうなったん?」
「休職期間中の費用と、怪我の治療費は全部向こうが出してくれることになりました。あとはまあ、多少の慰謝料も」
「まあ、よかったな。てか、そのくらいして当然だ。で、学校はどうなったんだ?」
「あいつら酒もタバコもやってたんで、スリーアウトで退学ですよ」
「そっか、まあしばらくは早めの夏休みだと思ってゆっくり過ごせよ」
「そうします」そして日付も書き終えて書類を持った。「これ他にも利用される方っているんですか?」
「ああ、相続のことを相談する人が多いな。後は、浮気がバレたりとかな」
「えぇ、情けないですね。まあ気持ちはわからないでもないですが」
「なんだ、お前も気が多いのか」軽蔑するような視線だった。
「ええ、でもこのくらい男はみんなそうじゃないですか? やっぱりすぐ勘違いしちゃいますよ。俺、中学の時はクラスの女の子全員好きでしたよ」
「……お前まさか私のことも好きなんじゃないだろうな?」目を細めて身を捩らせた。
「ええ、まあ。いっぱいお菓子くれますし」
「女児か、お前は。でも残念だったな、私はもう人妻だからな」
「あまり人妻を自称する人って見たことないですけどね」
「私が後十年遅く生まれてたら、お前は今頃、商業高校の臭い女が彼女になってたんだけどな」
「一緒にヌマブラしますよ」
「お前なんて私のメテオでボコボコだよ」
爽やかな笑顔を見せてくれた。
そんな高校生活を過ごすことができたら、どれだけ楽しいだろうか。俺はただぼんやりと、物思いに耽った。