謝罪の効能
「やっぱり女の子を庇って怪我したのって藤村だったんだ。大丈夫なの、廊下は血だらけで事件現場みたいになってたけど」
学校で委員長に見つかると、彼女は駆け寄ってきて捲し立てた。事件現場みたいって、そりゃそうだ。あれは完全に事件である。
「やっぱりって、そんな話題になってるの?」
「パトカーも救急車も来てたんでしょ? それで本当に大丈夫なの?」
「駄目だったら学校に来てないよ。CTもレントゲンも異常なし。被害は指の二本とおでこの擦り傷だけ」ポケットから右手を取り出した。
「指の二本って結構重症じゃない?」心配そうな表情だった。
「まあね。箸もうまく持てないから、ご飯もスプーンで食べてるよ。けど、それくらいかな。ああ、あと風呂がちょっと不便だね」
「そうなんだ。でも仕事は大丈夫なの?」
「流石に肉体労働だからできないね。しばらく休みで暇になったよ」
「生活は大丈夫?」
「まあ、それについてはちょっとゴタゴタしててね。今度ゆっくり話したいからさ、今週末とか空いてない? 仕事がないと暇でさ」
「日曜日だったら部活は午前中で終わるけど、午後から藤村の家行こうか?」
「ほんとに? 態々来てくれるの」
「まあ、一応見舞いということで」
「あれ、委員長って俺ん家の場所覚えてるっけ? 一回荷解きの手伝いで来てくれたよね?」
「なんとなく覚えてるけど、住所送っておいて」
「了解。いやぁ、委員長来てくれんのかぁ。嬉しいなぁ。やましいものは全部隠しとかないと」
「うん、隠すのが甘いと全部見つけ出すから」ニヤリと笑った。
視線を感じその方を見ると部活帰りの女生徒達と目が合った。彼女たちは視線を逸らしヒソヒソと話し合った。
「……なんか、見られてるような気がするな」
「そりゃそうでしょ。昨日の今日で、まあ厳密には金曜日のことだけど。おでこにそんな目立つ包帯巻いてくれば、みんな察するよ」
「女の子を救った超絶イケメンってことで話題になるかな?」顎に手を当てて目を細めた。
「顔中に包帯を巻けば、あるいはね」馬鹿馬鹿しい。とその目は言い放っていた。
「でもそんなに、話題になってるのか」
「うん、今日の全校集会で学校にはあまり遅くまで残らないで早く帰りなさいって」
「それって、定時制の生徒と関わるなって意味でしょ? あの委員長が学校側の言いつけを守らないなんて意外だね」
「私も誰かさんの悪い影響を受けたのかも」悪い笑みを浮かべていた。
その時、体育教師だろうか、ジャージを着た角刈りの中年の教師が俺たち所へ小走りでやってきた。
「君、今朝の集会の話を覚えていないのか? 早く帰りなさい」と、委員長に向かって言った。
「あ、はい」口籠るように答えた。
「君も何をしに学校に来ているんだい? ナンパじゃなくで学問を修めるためだろう?」
次は俺に向かってあんまりな台詞を吐きやがった。
「いえ、ナンパじゃなくて、彼とは小中学校の同級生で友人なんです」と、委員長が割って入ってくれた。
「だとしても、学校は遊び場じゃないんだから」
「友情を育み、深めることもまた、学校の一つの役割だと存じますが」俺がそう言うと、体育教師は目をパチクリ見開いた。
「なんだお前は生意気だな。友情を育むにしてもだな、夜間学校の生徒は夜間学校の生徒同士で育んで貰わないと。同じ校舎を使っているだけで、全日制と夜間学校は、全くの別物なんだから。まずは、校舎を夜間学校の生徒が使わせて頂いてありがたいという、謙虚な気持ちを持たなければならないだろ? 違うか」
なんで校舎の話が出てくるのかは理解ができなかったが、その体育教師は定時制を見下げた心持ちでいるのだろう。何か言い返してやろうとも思ったが、困り顔の委員長を見たら頭に登っていた血が降りていった。ここで俺が食い下がったところで、委員長に迷惑をかけるだけだった。
「いえ、全くもってその通りです。ただ、いきなりナンパだと決めつけられて頭に血が昇ってしまいました。申し訳ありません」俺が社会人として身につけたスキルの三つは、大きな声で挨拶をすることと、しっかりお礼を言うことと、そして、頭を下げて謝ることだけだった。
その一つを披露してみせた。これは相手も内心非があると思っている時に使えば、かなり効果的だった。こういう謝られた側が却って罪悪感を覚える現象にも、調べると名称がついていたりして面白い。
「いや、分かればいいんだよ。俺もいきなり決めつけるようなことを言って悪かった。ただ二人が話してるのを見て、それをナンパだと思って真似しようとする生徒もいるかもしれないだろう。結局そういうことを言いたかったんだ。二人が仲良くするなと言いたかったわけじゃないんだよ。それはわかってくれるね?」
「ええ、もちろんです」
「……多分君なんだろう、怪我をしてるってことは。全日制の生徒を助けてくれたことには感謝するよ」途端に控えめになった。
「いえ、当然のことをしたまでです」
「君みたいな生徒ばかりだったら、こっちもこんなことをいちいち言わずに済むんだけど。今は色々うるさくなって、しっかりした対応をしておかないと何かあってからじゃ遅いからね」
「はい、俺も軽率でした。以後気をつけます」と、このように丸く収まる。
委員長は眼を丸くし、口は半開きで言葉も出ない様子だった。俺のこんな対応が彼女の目には怪奇現象のような奇妙なことに写ったのだろう。
俺が教室に向かう途中に「社会人になると人って変わるんだね」と、失礼なメッセージがレインに届いた。
俺も誰かさんのいい影響を受けたんだよ。
そう意趣返しのメッセージを送ると、バーカ! と小学生のような返事が、あっかんべーの絵文字と一緒に返ってきた。
しかし、丸く収まったのは良かったものの、それから毎日校門の前で教師が立哨して定時制の生徒を見張るようになっていた。そのせいで俺は、委員長に話しかけることが出来なくなった。
俺は本当に、委員長とのささやかな会話を生きる糧として楽しみにしていたので、その悲しさは計り知れないものだった。友達と帰る時に小さく振ってくれる手だけが、俺の救いだった。