眼鏡じゃない。
「えっと、これ」彼女は持って来た紙袋を渡してくれた。中には和菓子の詰め合わせのセットが入ってあった。
「ええ、ありがとう。今から食べようか、お茶持ってくるからちょっと待ってて」
彼女はこくりと首肯した。俺は三本の2リットルのペットボトルと紙コップを持って来た。
「はーいお茶、綾鷲、五右衛門、どれがいい?」三本をちゃぶ台の上に乗せて尋ねた。
「え、一緒のでいいよ」困惑した表情だった。
彼女は委員長みたいに「緑茶に一家言あるなら、もういっそ急須で淹れたら?」なんてツッコミはしない女の子だった。俺は二本をちゃぶ台の傍に置いて、彼女と自分のコップに注いだ。それから和菓子の詰め合わせ箱を開け二人で物色した。
「俺はこのどら焼き食べようかな」
「私はこれ、なんていうんだろう」と、おばあちゃん家に常備してありそうな甘くてざらざらしたやつを手に取った。
「ありがとうね。いただきます」
彼女はまたペコリと小さく頭を下げた。お菓子を食べている間の沈黙がどうにも辛く、彼女が食べる硬いお菓子の砕ける音だけが狭い部屋の中に響いていた。
彼女は俯き、古びたちゃぶ台に視線を落として、その視線の先にノートがあった。それは俺がつけている日記で、大きく日記と書いてあるので目を引いたのだろう。
俺は黙って彼女を見ていた。というより、目を離せなかった。学校で会った頃は暗くてよく見えず、美しいとは思っていたが、こうやってまじまじ見るとそれ以上に、想像以上にに美しかった。眼鏡をかけていないからなんとか済んでいるが、とても危なかった。
まず彼女の一番特徴的で、その美しさの象徴であるのは切れ長の瞳であった。彼女が気がついているかは知らないが、多分あの瞳にじっと見つめられたら、あらゆる男はその瞳に屈服させられるだろう。
鼻は筋が通っていて綺麗で欠点が無く、口元は控えに知性的であった。肌は驚くほどきめ細やかで白く、彼女の周りを揺蕩う短い絹ような黒髪は、彼女に儚げで薄幸な印象を与えていた。
もし彼女が赤や黒といった色のフレームに細長い縁の知的な眼鏡をかけていたら、その二つのクールさの相乗効果により、俺は死ぬ。
もし丸縁眼鏡をかけていたら、その涼しげな表情と丸縁眼鏡の愛くるしさの全く違うベクトルでの融合。それは正しくギャップ萌えと呼ぶに相応しいだろう。俺は死に、一度蘇り、再び死ぬ。
彼女も俺の視線に気がついたのか、ようやく顔を上げた。
「あの名前なんていうんだっけ? 俺は大江藤村、なんだか変な名前でしょ。お笑い芸人みたいでさ」
「どっちも名字みたいだね」
「お袋が島崎藤村の破戒が好きでさ。それなのに、とうそんって読むの知らなくて、ふじむらってそのままつけちゃったんだよ。間抜けな話でしょ」
「私も破戒好きだな。最後の子供達が直談判に来るところで泣いたなぁ」
「ね、あのシーンいいよね。それに終わり方も素晴らしい。部落差別という根深い問題は何一つ解決してないんだど、それはそれとして、丑松はあらゆる幸福を手に入れて終わってるんだよね。いや、沢山のものを当然失っているんだけど、俺には全てを手に入れているように見えたんだ」
「そうだね」
「ごめんね、なんかいきなり語り出しちゃって。名前はなんていうんだっけ?」
「泉晶」
「いいなあ。俺もアキラが良かったな」
「そう? 当たり障りのない名前だと思うけど」
「それがいいんじゃあないか。」
「ありがとう。大江くんは」
「あ、ちょっと待って、泉さんって何年生だっけ?」
「一年だけど」
「良かったぁ、同級生だ。なんかすげえ大人びてるから、先輩なのかと思ったよ」
「よく言われるけど、自分ではよくわからない。雰囲気が違うとか言われて」
「十五、六歳なんて常に馬鹿みたいなことを考えているけど、泉さんはそういうこと考えてなさそうだなって意味だよ。多分ね」
「ますます意味がわからない。普通はどんな事を考えるの、その日記に書いてある?」
「大したことは書いてないよ、興味ある?」そう言い手に取ると泉さんは小さく頷いた。
俺は日記のページを適当に開いた。
「4コマ漫画?」泉さんは不可解そうに呟いた。
「ああ、ちょっと日記書くの飽きちゃって」
「……ビジネスマナーと女王様」泉さんはあろうことか俺の4コマ漫画を音読し始めた。
「飲み会や会食での上座や下座っていつも分からなくなっちゃいますよねぇ。あれ、どっちがどっちでしたっけ?」とスーツを着た男のセリフだ。隣の女王様は不機嫌そうに黙っている。
「部屋の奥の方が上座で偉い人が座るんでしたっけ?」二コマ目もスーツの男がテーブルを指さして言っている。
「ちげえだろ」女王様がやって来てスーツの男のネクタイを掴む。「お前が私の上座になるんだろうが!」と、三コマ目。
「いい声で鳴けよー、この豚野郎」「ブヒブヒー」女王様はスーツの男の上に座り、鞭で叩いて罵っている四コマ目。
泉さんはその音読を終えると、ゆっくり顔を上げて俺のことを見た。その視線があまりに冷たくて俺はゾクゾクした。
「これが普通の十五、六歳が考えていることだね」
「絶対違うと思う」即答し、日記を閉じて元に戻した。「大江くんって……Mなの?」少し恥ずかしそうだった。
「俺、一度苗字変わってるから大江って呼ばれるのがあんまり好きじゃなくてさ、できれば藤村の方で呼んでくれないかな」
「わかった。……藤村くん」
「それでなんだっけ? 俺の性的嗜好の話か。まあその四コマは俺の趣味というよりは、なんか思いついて描いてみただけなんだ。SかMで言えば俺は別にどちらでもないね。そんなに人を鞭で引っ叩いて楽しいとは思わないし、叩かれても楽しくないでしょ?」
「そんな鞭とか蝋燭じゃなくて、ちょっと強引にされたいとか、玩具で虐められたいとか、言葉責めされたいとかの、あんまり激しくないMは女子で結構多いかも」
泉さんの頬が紅潮してるのが見てとれた。性的な行為に纏わる話をして自ら恥ずかしがる彼女は、大人びた女性では無く急に同年代の女子に見え、親近感を覚えた。その表情を黒髪のカーテンで隠そうとするいじらしさが俺の心を惹きつけて離さなかった。
「泉さんもそうなの?」
「……言わない」そっぽを向いて言った。
その破壊力といったら後にも先にも例がなく、今更ながら泉さんが俺の部屋にいることを神に感謝し、しこたまボコボコにしてくれた三人組にさえ感謝した。
「言わない、か。でも、違うんだったら、違うって言うよね」泉さんをもっと辱めてやりたいと、邪悪な感情が渦巻いていた。
泉さんは真っ赤な顔で黙秘権を行使し、俺をジトッとした目付きで下から睨みつけた。
「ごめんね。ちょっと揶揄いすぎた」
「思ってたより、ずっと元気そうだね。心配して損した」冗談ぽく言った。
「泉さんが来てくれたからだよ。昨日は全然痛く無かったのに、今日になって身体が全身痛み出すし。仕事にも行けないから、給料のこととかで参ってたんだけど、本当楽になったよ。ありがとう」
「でもごめんね、私のせいで」悲しそうげな瞳は彼女には似合わなかった。
「泉さんのせいじゃないし、気にしないでよ。本当に」
「困ったことがあったらなんでも相談してね。私に出来ることならなんでもするから。その手じゃ日常生活で大変なこともあるだろうし」
「三本は使えるし、全然平気だよ」
「ねえ、携帯出して、レイン交換しよ」
「ああ」と携帯を取り出してアプリを開いた。QRコードを読み取り、泉さんの連絡先が追加された。
泉さんのレインのアイコンは愛犬なのだろうか、柴犬と一緒に泉さんが写っていた。長閑な景色が広がる田舎を背景に、泉さんは麦わら帽子を被って柴犬を抱きしめていた。その笑顔が眩しくて、クラクラとしてしまうほどだった。
「可愛い……」とつい呟いてしまって、ハッとした。
「そうでしょ、ほんと可愛いでしょ。タロっていうの」嬉しそうに言った。「おばあちゃんちで飼ってるから、たまにしか会えないんだよね」しみじみ言った。
「そうなんだ。それじゃあ会った時の嬉しさもひとしおだろうね」そうやって会話の帳尻を合わせると、泉さんは深々と首肯した。
「じゃあ、そろそろお暇しよかな。なにかあったら連絡してね」
「泉さんって電車で来た?」
「うん、そうだけど」
「じゃあ駅まで送って行っていいかな?」
「いいけど、身体は大丈夫なの?」
「もう全然平気、ちょっと着替えてくるわ」
そうは言っても部屋は一部屋しかなかったので、着替えを持って廊下に出ると、泉さんは気を使って俺に背中を向けた。その瞬間背筋に悪寒が走った。今、彼女の丁度目の前には、オナホがあると。
オナホデリート作戦を用意していたのに、テンパり過ぎてすっかり忘れていた。最初緑茶を三本持って行った時、利き緑茶をしようと提案し、そうして目を瞑っている隙にオナホを隠すという完璧な作戦が……。
俺は急いで着替えた。こうなったら有無を言わせない、最後の手段に出ることにした。
「泉さん、準備できたよ。早く行こうよ。ねえ、早く」言っても泉さんは振り向かなかった。
「藤村くん、これって」ゆっくり振り向いて、指を差したその先には大事な大事なオナホールがあった。
「ああ、さっきも話題に出たおもちゃだよ。男はみんな持ってるよ」開き直るしかなかった。
「そうなんだ。ちょっと触ってみていい?」
「いいよ、別に」もうどうにでもなれ、そんな思いだった。
泉さんはまずは外側をじっくりとみて回ると、ついには穴の中に自分の指を突っ込んだ。いいのかい? その穴は俺が使い込んでるんだけど……。
「なんかボツボツしてて痛そうだけど、これで気持ちいいの?」
「ローションを入れて使うからね」
「あ、そうなんだ。そうすると違うんだ?」
「ああ、世界観が変わるよ」
「そんなに?」ふっと笑って穴を弄っていた。
「泉さん、一応言っておくけど、その穴、俺が普段使いしてるからね」
「え?」と、一瞬理解が追いつかないような表情をしたが、次の瞬間にはオナホを目にも止まらぬ速さで元の場所に戻した。「……あの、ごめんなさい」
「べつにいいけど、手洗ってきたら?」
泉さんは顔を真っ赤にして流しに向かうと手を洗った。
助かった。泉さんが自爆をしてくれて。もし、委員長だったらこうはいかなかった。俺は一体どれだけの辱めを受けることになっていただろう。考えるだけでゾッとする。
それから駅まで他愛のない会話をしながら歩いた。少しは笑顔を見せてくれるようにはなったが、柴犬を抱いていた時のような弾ける笑顔は見ることが出来なかった。初対面の男が柴犬に勝つのは容易ではないだろう。
最寄りの駅に着くと泉さんは「また、お見舞いに行くから」微笑んだ。
「いいよ、そんな。大変でしょ」そうは言ったが嬉しさは隠しきれなかったと思う。
「ちゃんと完治するまでは放って置けないよ。私のせいでもあるんだし」
「そっか、じゃあお言葉に甘えることにすよ」
「うん、そうして。じゃあまたね。気をつけてね」
「泉さんも」
泉さんは改札へと入り、階段を降りて行った。
俺は包帯のある手をじっとみて思った。そんなことなら治らなければいいのにな、って。
社宅に戻ると泉さんの香りがまだ残っていた。
情け無いとは思いながら、オナホを持ってその中にローションを注ぎ込んだ。レインアプリを開き、あの泉さんの光輝く笑顔を見た。光が強ければ、影もまた強くなるのだった。
泉さんが散々弄っていたせいか、普段よりもオナホは、なんだかあたたかい気がした。