過去編1
後半からは三人称視点になります。
部屋に戻るとまだ薄らと晶の香りが残っていた。持っていた段ボールをそっと置き、横になりアシュケナージが弾くショパンのノクターンを流した。顔も見たことのない親父の形見だった。俺が持っているアルバムは殆どが親父のものだった。
俺が自ら発見した趣味といったら楓と一緒に聴いていた、古いロックバンドのアルバムくらいだ。二人でよく、中古のレコード屋を見てまわった。俺は古い思い出に浸った。
「嶋咲、絶対に藤村のこと好きだぜ。俺が保証するよ」そう楓が大きな声で言っていた中学二年の終業式。
この楓という男はあまりに女性に人気があり、好かれていたため、あらゆる人はそのくらいモテるのが当然だと信じて疑わなかった。それになぜか、楓の中での俺は美化されて、いやもう神格化と言ったって大袈裟ではないようなレベルで俺を扱っていた。
「確かに俺のことを随分気にかけてくれる女の子は多いけど、それは俺が片親で貧乏なのにも関わらず前向きなのが居た堪れないという理由なんだ。女の子は基本的にみんな優しいからね。俺が持つその属性は随分強力なものだが、お前が考える好意とは毛色の違うものなんだよ。憐れみと同情さ」
「なんだよ、それが前向きのやつの台詞か?」ハハっと笑って背中を叩いた。「確かにそういう子も居るが、嶋咲は違うと思うけどね」
俺は人を見る目に関しては楓を殆ど信用していなかった。こんなことを楓に言われたことで、やっぱり嶋咲は俺に好意を持っているわけがないと確信するほどだった。嶋咲は諦めろ、あいつはお前に気が無いよ。そう言われた方が俺にとっては嬉しいことだった。
「前向きさ、どこが前かなんて人それぞれだろう。しかし俺は、自身が向いている方向が俺にとっての前向きだという確固たる信念がある」俺はこんなことを恥ずかしげもなく言っていたので、クラスメイトの女子から鼻につくだなんて思われていたのだろう。
「やっぱりお前は哲学者だな」感心して言った。
「揶揄するのはやめてくれ、安易にお前が言うと俺のあだ名が哲学者(笑)とかになるから」
「でもみんな、多くの人が向いている方を前だと思っているよ」
「それも一つの正解さ。そういう人たちはなにも考えずにそうしているわけではないよ、よく敷かれたレールなんて揶揄されるけどね、それは多くの人々の血と汗の結晶なんだ。レールだって使われなければ朽ちていく、自分がそのレールを使い安全性を確かめ、そうしてまた後世に託すことが最善であると、彼らは気がついているんだよ。俺のようにレールがない人生を見れば尚更さ」
「別にそこまで卑下することでもないだろう。お前は立派だよ、よくやっている」
「別に卑下なんかしていなさ。皮肉なことにね、不平等だけが人々に平等に与えられるのだから、自身の置かれた環境で足掻くしかないじゃないか。レールがある人にも苦悩はあるし、ない人にもあるのだから」
「藤村は達観してるな」
「多感な頃は同情からくる優しさを憎たらしく思ってしまったこともあったけどね」
「今も十分多感だろ」
「今は多感なんてエロい言葉だと思ってるよ。ありがたいことにね」
「そんな風に思えるようになったのも、嶋咲のおかげだろう?」
「まあね」
「その気持ちを伝えたら、きっと嶋咲も喜ぶと思うよ。藤村はクラスメイトの女子がみんな好きだとか言っているけど、本当は嶋咲を一番大事に思っているんだろう。その気持ちを伝えないときっと後悔するよ」今になってその言葉が俺の深いところへ突き刺さる。
しかし嶋咲も、俺がこんなに女性に対して不信感を募らせることになった理由を知っているのだから、嶋咲の方からその気持ちを伝えてくれたらいいじゃないか、と思う。一度嶋咲は告白して断られるのが怖いと言っていた。本当に俺が嶋咲を断ると思っていたのだろうか。
「そうしたいのは山々だが、俺は委員長に突き放されてしまっては、もう、生きては行けないんだ」
「大袈裟だが、藤村らしいな」
「ああ、だから委員長とはずっと友達でいたいと思っているよ」
そんなことを思いながら眠りについた。
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「嶋咲、絶対に藤村のこと好きだぜ。俺が保証するよ」
校舎裏からそんな会話が聞こえ、嶋咲まことはニ階教室の窓から顔を真っ赤にしてこっそりと覗いた。忘れ物を取りに来た彼女は教室に一人だけだった。
聞こえてきた言葉は、本当に自身に関することなのか疑わしかった。ただ、本当だとすれば、こんなに恥ずかしいことはない。隠していたと思った気持ちは、藤村の親友には筒抜けだったのだから。
言われた藤村の方は動揺する様子もなく、淡々と喋っている。藤村の声は二階まで届かなかった。嶋咲は藤村の真意を知るべく、急いで教室を出て校舎裏へ走った。
彼女の心と頭には、様々な感情と想いが溢れ出ていた。あぁ、あぁ。ただその想いは具体的な言葉を伴わず、冷静な嶋咲を狂わせるには十分だった。
下駄箱で急いで靴を履き替えて急いで校舎裏へ駆けてゆき、そおっと足音を潜めて二人の側で聞き耳を立てた。
「ああ、だから委員長とはずっと友達でいたいと思っているよ」
しかし、愛する藤村は微笑んでそんなことを言っていた。嶋咲は絶望の底へと突き落とされたような気分であった。泣きたくなり、そのまま部活動も初めてサボって帰った。
帰り道では涙をポタポタ垂らし、藤村の言葉は頭の中で何度も反芻されていた。自身は友達としてか見られてなく、恋人になることは決してできないのだと決めつけていた。
どうして、どうして。嶋咲は何度も頭の中で考えた。家に帰り、シャワーも浴びずに横になった。
今度また一緒に遊びたいって、藤村が言ってたよ。冬休みに空いてる日があれば教えて欲しいって。
起きた時、楓から連絡があった。藤村は携帯を持っていないので、こうして楓から連絡があった。
「人の気も知らないで」彼女は悲しくも、本当に大切な友達だと思われていることは理解できた。「絶対に……」
絶対に好きにさせてみせる。
嶋咲の意思は固かった。彼女の想いはそれほどまでに強かった。嶋咲はすぐに返信して、楓と藤村との約束を取り付けた。その日は明日だった。
彼女は鏡の前に立ち、頬に触れた。それから眼鏡を外して鏡に笑いかけた。眼鏡外した方が可愛いよ。よく、そんなこと言われた。そうかもしれないと、鏡を見ながら思った。
それからはファッションショー。自分の持っている服を引っ張り出し、着替えに着替えた。普段は身体のラインを隠すため、だぼだぼした服を着ていたが、身体のラインのよく出るニットを着て自分の胸を撫でた。
「どうせ男なんてみんな巨乳が好きなんでしょ」嶋咲の友達の安部がそんなことを藤村に言っていた。嶋咲はそれを隣で聞いていた。
「いや、どうだろうね。人によるでしょ」
「藤村はどう思うの?」
「俺は精神の方がずっと大事だと思うけど」
「へえ、これを見てもそんなことが言える?」安部はニヤッと笑い嶋咲の後ろに回るとその大きな胸を揉みしだいた。
藤村はその光景から目が離せなかった。柔らかい脂肪にめり込む指と、その手からこぼれ落ちそうなほど実った胸に唯ならぬ性欲の昂りを抑えられなかった。
「もう、やめてよッ」嶋咲は安部を振り払い胸を隠した。「ごめんね変なもの見せて」俯き顔を真っ赤にして。
「ねえ、めっちゃガン見してたじゃん、顔真っ赤にして、めっちゃ巨乳に心惹かれてるじゃん」
「いや、目の前でそんなことされたら誰だって見ちゃうよ」
「よかったね、まこと。おっぱい大きくて」
「もう最低」嶋咲は言い残してその場から走り去った。
「ごめんって、まことー」安部は謝りながら追いかけた。
嶋咲は恥ずかしかったが、自分の武器を使わない手はないと思った。その時も、嶋咲は俯きながら、藤村の股間の辺りを盗み見ていた。そしてそこがピクピクと上下する様を見た。
嶋咲は鏡を見て胸を寄せ、大きく頷いた。手を出させればこっちのもんだ!
明日に向けた脳内作戦会議はしばらく続いていた。