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12/21

箱根旅行 上

 天気予報の通りカラッと晴れた気持ちのいい青空と自身の曇天とを比べめてみるのは、余りに酷なことだろう。鬱蒼としたこの心持ちを洗い流すべくシャワーを浴びて、準備を済ませて出発した。

 慣れない電車は満員でそれがまた俺には辛く、泉さんと待ち合わせをしている駅で降りる頃には既に辟易としてしまった。

 言われた場所に向かうと既に泉さんが待っていた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムで有名なアンディ・ウォーホルのバナナが印刷されたシャツに、丈は長いが涼しげな黒いスカートを履いていた。

 泉さんは俺を見つけると手を振りながらトコトコ駆け寄ってきてくれた。その姿が余りに愛くるしかったため、俺はクヨクヨするのをやめた。もう、どうにでもなれといった感じである。


「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド好きなんだ?」早速そのシャツに触れた。もちろん話題に出したと言う意味である、いきなり触るわけはない。


「あ、なんだっけバンドの方でしょ? 私、後から知ったんだよね。アンディ・ウォーホルの絵が好きで買ったから」そのバナナを撫でて言った。


「じゃあ後で一緒に聞こうよ、ヘロイン」


「物騒な曲だね」いつもように口元を手で隠してふふっと笑い、しかしそれから不安そうな表情で顔を上げ「大丈夫、あんまり元気ない?」心配するようだった。


「恥ずかしながら昨日楽しみすぎて、あんまり寝られなくてね。それに満員電車も慣れなくて」


「私もあんまり寝付けなかった。満員電車も大変だよね、学校に行く時は反対だからいつも空いてるんだけど」


 そんな話をしながらホームへ着いた。その駅では人の乗り降りが激しく、俺たち二人は列の先頭で電車を待ち構えていたが、その列は驚くほど長く後ろまで続いていた。電車が着くと決壊したように人が流れ出て、その洪水が収まった時に素早く乗り込み、泉さんを隅へ立たせその前に俺が立った。

 すぐぎゅうぎゅうに押し込まれ、俺の身体は泉さんへの身体に押し付けられた。


「ご、ごめん」咄嗟に謝った。


「仕方ないよ。謝らないで」優しく慰めてくれた。


 電車が出発した。泉さんは普段とは違う車窓からの景色を眺めていて、その表情は髪に隠れて見えなかった。

 普段とは違う香水の甘い香りを、本来ならば彼氏にしか許されない密着した距離で、柔い肉体の感触と共に堪能した。

 肉体はなんて単純で、力強いのだろうか。あっという間に鬱屈とした暗い思考を奪い去り、その刹那的な享楽に耽ることに夢中になっていた。残された僅かな罪悪感からなんとか腰を引いて耐えていた。


「あッ……」泉さんがなんともいえない声を出したのは、ガタンと電車が揺れた時だった。


 俺は後ろから押されたはずみで足が少し前に出て、上体はぐらついた。なんとか当てないようにしていた物は彼女の腰に触れた。足場が悪い中、重心を立て直し、泉さんに物が触れないようにした。俺はもう、終わったと思った。

 泉さんはゆっくりと俺の方へ視線を向けた。それから視線を落とした。俺はその間、声も出なかった。ただ、下を見ている時間は長かった。いや、俺がそう感じているだけかもしれない。

 泉さんは視線を落としたことで何かを確信したようだった。泉さんは再び顔を上げ、まじまじと俺を見つめて捉えた。

 泉さんも何も言わずにただ黙っていた。ただその泉さんの美しい切れ長の瞳は、さらなる元気と恥ずかしさを俺に与えた。


 一度電車を乗り換える際もほとんど会話が無く、泉さんはただ電車の乗り換えに必要な情報だけを淡々と教えてくれた。乗り換えも終わり、ようやく特急電車へ乗る駅についた時「まだ時間あるし、特急電車で食べるお菓子でも買っていこっか」と、ようやく話してくれた。


 ホームのベンチに座りながら、泉さんはチョコレートを一つ食べて「食べる?」箱を俺の方に向けた。


「ありがとう」


 二人でまた静かにチョコレートを食べる時間が続いた。

 時間になりやってきた特急電車に乗り込んだ。


「藤村くん窓側座っていいよ」


「ありがとう」促されて座った。


 泉さんは隣に座るや否や、俺の方へぐいぐいと距離を詰めた。


「さっきはせっかく元気が出たと思ったのに、また元気が無くなっちゃったの?」俯く俺と視線を合わせるために上体を傾けて下から覗きんだ。「ほら、元気出してよ」どちらの意味にも捉えられる、俺を馬鹿にしたようなセリフだった。切れ長の瞳をさらに細めて口角は上がり、その小さな歯が覗き見える表情は劣情を煽り立てた。


「……さっきはほんと、ごめん」


「あ、違うの。さっきのことを責めてるんじゃなくて、あと、さっきのことも全然気にしてないから。せっかく箱根に行くんだからさ、元気出して楽しもうってこと」と、優しく俺の肩に手を乗せた。


「じゃあ、元気出すの手伝ってよ」投げやりに言った。


「えっ……分かった」思いも寄らない返答だった。「……どうすれば元気出るかな?」俺の肩から手を離し、膝の上で両手をもじもじとさせていた。


「それも考えてくれた方が元気でるかも」


 泉さんは黙って何かを考えその目を慌ただしく泳がせていた。そして手を一度俺の方にゆっくりと伸ばし、スッと引っ込め、また視線は定まらずにあちこちと動いた。それから下を向き、意を決したようにもう一度向き直った。


「冗談だよ、本気にした? 今の手はなんだったの、なんかめっちゃ目が泳いでて元気出たわ。ありがとう」


「もう、本当、藤村くんってそういうところあるよね」俺の肩をぽかぽかと叩きながら。


「ごめんって、泉さんも俺に何かして欲しいことないの? 前、考えておくって言ってたよね」


「ご自分で考えてください」意趣返しのつもりかそっぽを向いていた。


「どうしよっかな。じゃあ、泉さんの絵を描こうかな」


「え、本当に」いきなり振り向いた。


「ああ、指が治ったらだけどね。嫌だった?」


「ううん、すごい嬉しい」本当にパアッと顔が明るくなった。


「期待に応えられるよう頑張るよ」


 揺れる電車の中から車窓の景色を楽しんだり、お菓子を食べたり、学校での話を聞いたりした。最近では嶋咲とも仲良くやっているらしい。そこで俺の話をするらしいのだが、どんな話を聞いたのかと問うても「ふふ、教えない」いつもの笑顔で躱されてしまった。


「でも藤村くんがそんなことをねぇ」思い出すように意味ありげに呟いた。


「ほんと、まじで最悪だわ」頭を抱えて見せた。半分は冗談の演出だがもう半分は本気で思っていた。特に中二の頃は不味い、恥ずかしくて死んでしまうレベルだった。


「大丈夫、本当はいい話しか聞いてないよ」頭を抱える俺の背中を撫でてくれた。


「それもおかしいな。俺のいい話なんてほとんど無いはずだけど」


「本当に嶋咲さんの言う通りだ。良いことも自分では全然そんな風に鼻にかけないし対価も求めないって」その驚き具合のせいで、なぜか少し馬鹿にされているように感じた。


「そうかな、俺は女子に鼻につくって影で言われてるの聞いたことあるよ」


「そりゃあ良いことをして、礼なんていらないぜ、当然のことだぜ、って態度でいると、性格の悪い人は偽善だと疑いたくなって鼻にもつくよ。特に藤村くんのしたことを思えば」


「怖えよ、俺はそんなことしてないよ」


「だって、こんな手になっちゃった理由もそうでしょ?」言いながらそっと触れてくれた。


「いやだって、男が三人がかりで女の子囲ってるのを見過ごすなんて、とてもじゃないけど出来ないよ。誰だってそうだよ」


「謙虚も過ぎれば傲慢になるって言うよね」


「いや、言うけどさ。まあ、分かったよ。これからも自分の信じる正しさに従っていくよ」


「うん、そうして。あんまり、危険なことはしてほしくないけど」


「でも、俺も、何も見返りを求めずってわけじゃないんだよ。こんな目に遭ったし、今度はいいことあるだろうって、そんな俗っぽいことを考えているんだよ。実際にこんな可愛い子と一緒に箱根旅行に行けてるわけだしね」


「本当に口が達者だね。嶋咲さんも言ってたけど」


「本心だよ」


「でも中学生の頃クラスの女の子みんな好きだって言ってたって聞いたよ」


「それも本心だよ」


「クラスメイトの女子は十六人いるから四十八手を三週して最後に腹上死したいって」


「それも本心だけど……我ながら滅茶苦茶なこと言ってるな」


「口は達者だけど、行動は伴わない小心者だって」


「ねえ、核心を突いているだけに傷つくんだけど」


「ふふ、ごめんね。チョコ食べて元気出して」


 そう食べさせてくれたチョコはさっきよりも甘く感じた。

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