お前が欲しい
「二週間後の水曜日は開校記念日で休みになるから、その日に行かない? 平日の方が空いてていいでしょ」
今日も泉さんは台所に立ち、ニコニコ微笑みながら話していた。俺はその意見に肯定し、早速二人分のフリーチケットと特急券をスマートフォンから購入した。
「いい曲だね。なんていうの?」泉さんは料理を作り終えるとちゃぶ台の向いに腰を下ろした。俺はいつものように適当な音楽を流していた。
「あぁ、お前が欲しい」エリック・サティが作曲したシャンソンだった。いかにもフランス人らしい題名である。俺はそう答えながら、今購入した電子チケットを泉さんの携帯に分配する方法を調べていた。「泉さんもこのアプリ入れて欲しいんだけど」スマートフォンの画面を見せながら顔を上げると、泉さんは頬を真っ赤に染め、目をまん丸にして硬直していた。
「……藤村くん、今なんて言った?」やっと口が動いたというような、ゆっくりとした重苦しい口調で。
「え、チケットを渡すから泉さんもこのアプリをインストールして欲しいって」
「違う、その前の……欲しいのはそれだけ?」
「欲しいのは?」俺はその意味が分からず少し記憶を辿り、今流れているシャンソンを思い出した。「お前がほし……」その時の泉さんの視線は、俺を視線で射殺すのかと思うほどだった。ハッとした。とんでもないセクシャルハラスメントと勘違いされてしまった。俺は背中にジワッと汗をかいたのが分かった。
「……お前がなに?」ニコッとした作り笑いは、無表情よりも冷たく思えた。
「ごめん、違うんだ。この曲の題名が”お前が欲しい“なんであって。俺はタイトルを聞かれたから答えただけであって」
「ふーん、そっか。勝手に勘違いした私が悪いんだね。普通はそんなこといきなり言わないよね、普通なら曲の題名って分かるよね」いかにもわざとらしい態度だった。
「いや、俺も調べるのに気を取られて言葉が足りてなかったよ。ごめん、泉さんを不快にさせてしまって」
「別に不快じゃないけど、とんでもなく驚いただけ。いきなり私を求められて、いきなり私の身も心も全て求められて」言いながら自ら身体を抱いて身を捩った。「耳か頭がおかしくなったんじゃないかって。爆弾発言をした藤村くんは素知らぬ顔だし。月が綺麗ですね。がプロポーズみたいに、お前が欲しい。には全く違う意味があるのかと思っちゃった」最後は恥ずかしそうに笑いながら。
「逆漱石ね」ハハっと俺は笑った。
「笑い事じゃないんだけど」ぷりぷりしながら可愛らしく怒った。
「ほんと、悪かったよ。許してください」大仰に頭を下げた。
「うーん、ホントにそんな曲あるの? 調べても出てこないけど、やっぱり揶揄ってたんじゃないの?」スマートフォンを操作しながら視線を流してきた。
「えっと、サティって入れて検索してください」
「これかな?」再生すると同じ曲が流れ始めた。「へえ、本当にあるんだね」
「そりゃ、ありますとも」
「じゃあ許してあげる」
「ありがとうございます」
「それでなんだっけ、アプリをインストールすればいいんだっけ?」
「はい、お願いします」
そうして購入したチケットを泉さんに転送した。
もうここまでくれば、箱根旅行に行かないことは絶対ないだろう。いや、あまりにもフラグ過ぎるな。今調べたら当日の予想は晴れだったが、予想が変わって普通に雨とか降る可能性もあるしな。
「楽しみだね」
「そうだね。でも、もし雨とか降っちゃたらどうする」
「電車が動くなら雨天決行で、電車も動かなかったら一日ダラダラして過ごそうよ。何かしたいことある?」
「いや、ダラダラ最高だね」
「藤村くんは昼間はダラダラしてないでシャキッと過ごしてるの?」
「右手以外の筋トレと、今度ある資格試験の勉強かな。あとは本を読んだり、右手がこうじゃなければ絵も描きたいんだけどね」
「意外と充実してるんだね」
「泉さんのお陰で美味しい昼ご飯もあるしね。感謝してもしきれないよ」
「そうでしょう?」その小ぶりな胸を張った。
俺は毎日心踊る気持ちで過ごした。
あまりに楽しみすぎて天気予報を何度も何度も確認してしまったり、泉さんがカレンダーに描き残してくれたてるてる坊主とその日付をぼんやりと眺めいた。
遂に前日、明日の天気は快晴だった。家を早く出て公園に寄り、俺は年甲斐もなく靴を蹴り飛ばして明日の天気を占った。結局俺のせいで雨になってしまったが、泉さんが運命を覆してやっぱり晴れにしてくれた。
授業を終え、明日に向けての最終確認をしていた。その時に電話が鳴り、俺は泉さんかと思って携帯を手に取ると嶋咲の名前が画面に映し出されていた。俺は急いで画面を操作した。
「もしもし、嶋咲? どうしたのこんな時間に」
「ごめん、今時間大丈夫?」
「ああ、平気だよ」
「あの、たいしたことじゃないんだけど、明日急にバレーが休みになったから、天気もいいしどこか一緒に遊びに行かないかなって?」声は淡々としていて、その表情までは分からなかった。
「ごめん、明日はもう予定入っちゃててさ。ただ、嶋咲が誘ってくれて滅茶苦茶嬉しいよ、今度休みの時また誘ってよ。今日のお詫びも兼ねて、面白デート考えとくからさ」
「そっか、こっちもいきなり誘っちゃってごめんね。また誘うね」
「うん、ありがと」
「話は変わるんだけど、ちょっと前に泉さんが三年生のサッカー部の先輩から告白されたのって知ってる? それまでは大人しい子だったんだけどそれを境に凄く明るくなったから、彼氏ができたんじゃないかって、クラスのみんな噂してるの」
「え、いや、知らない」俺の声は自分でも驚くほどか細く震えていた。「それで告白はどうなったの? 付き合ったの?」
「いや、そこまでは私も知らないんだけどさ。藤村ならなんか聞いてるのかなって思って」
「いいや、何にも」息が詰まるようで、胸が苦しかった。
「そうなんだ、藤村でも知らないんだ」そしてしばらくの沈黙があり「面白デート楽しみにしてるから、じゃあね」明るい声がスピーカの奥から響いた。
「ああ、またね」
そして電話は切れた。
俺の鈍い頭がそんな時には都合が悪く、高速で回転し始めて答えを求め始めた。
俺の家で時間を潰しているのはそのサッカー部の先輩と一緒に帰宅するためではないかと、俺が丁度学校に向かう時は、多くの生徒が部活を終えて帰って行く時間だ。その告白された時期と、泉さんが料理を作ってくれるようになった時期が同じだったとしたら。俺の頭は嫌なことばかりを考えた。
部屋の電気を消した、夜はあまりにも暗かった。




