第7話 マリアの爪痕
とうとう『聖母祭』の日がやってきてしまう。
その間あたしは、気もそぞろな学園生活を送ってしまっていた。
授業中はもちろん、友達と話してるときだって、時々上の空になるくらいだったから。
原因なんて決まってる。
ホルスのせいだ。
あれ以来、街には近づいてないから、会うこともなかったんだけどさ。
脳内じゃ完全にレギュラー選手よ。どうしてくれる。
「また会えないかな……」
なんて、周りに誰もいない廊下を歩いているときにぽつりと呟いちゃったくらいだ。
『聖母祭』は、学園が誇る大聖堂の前で行われる。
そこには開けた広場があって、参加者を見守るように聖母像が建っている。けれど堅苦しいことはなにもない。パーティーのように華やかに開催されるお祭りだ。
晴天の下、『姉妹』を求める上級生と下級生がたくさん集まって談笑している。
みんなここから、『姉妹』になる人を見つけるわけだ。
クソ上品な婚活パーティーみたいな感じ? 知らんけど。
前も言ったけど、『聖母祭』は参加自由で、姉妹の契りを結ぶかどうかは個々人の判断に任せられている。
姉妹の契りは『聖母祭』の最中じゃなくても結べるんだけど、やっぱりこういうイベントを通して『姉妹』になりたいからか、多くのお嬢様でごった返していた。
理想のお嬢様らしさにこだわって参加しているあたし以外にも、クラスで仲良くしてる子たちは、みんな参加していた。
「なんだか緊張しますね、鞠栖川さん」
あたしの隣で、弥生さんが胸に手を当てていた。
「ふふ。弥生さんがそれを言うのはおかしいですわね。だって、弥生さんはもうお姉様にするべき方をお決めなさっているのでしょう?」
「それはそうなんですけど……でも、みんなの前で姉妹の契りをするわけですよね? そんな大胆なこと、わたしにできるかどうか心配なんですよ」
隣で頬を染めているのは、御苑弥生さん。
ふわふわな栗色の長い髪をしていて、常に笑みを絶やさないお姉さん的な包容力があって、クラスのみんなからも頼りにされている人だ。奥ゆかしく上品なところは育ちもあるんだろうけど、たぶん生まれつきで、あたしは弥生さんのそういうところを心底羨ましく思ってる。
姉妹の契りを恥ずかしがる弥生さんだけど、たいそうなことをするイベントじゃない。
聖クライズ女学園に入学すると、学園側から一人ひとりロザリオが配られるんだけど、『姉妹』でこれを交換し合うだけ。
でも、あたしと違ってガチお嬢様の弥生さんからすれば、それだけでも恥ずかしいことなのかもしれない。
「弥生さん、それでしたらお姉様になる方にリードしてもらえばいいのではなくて? 長い付き合いなのでしょう?」
「ええ。幼馴染ですから。でも、昔からいつも甘えっぱなしなんです。姉妹の契りを結ぶ大事なときも甘えてしまったら、この先もずっと甘えてしまいそうで」
頬を染めちゃう弥生さん。
可愛らしい悩みだ。
「いいのではなくて? 弥生さんのお姉様になる方も、そういう弥生さんを好きでいるに違いありませんもの」
「だといいんですけど……」
「きっとそうですわよ。弥生さんを嫌いになる方なんているはずがありませんわ」
「ふふふ。鞠栖川さんは、いつもわたしを褒めてくれますね。そこまで言われてしまったら、このまま足踏みするわけにいかないですよ。ありがとうございます、鞠栖川さん」
恭しく礼をして、上級生が集まる一帯へと歩いていく弥生さん。
たぶん瀬越ツインズも、どこかで『姉妹』を見つけようとしてるんじゃないかな。
あたしは……どうしよう?
結局、めぼしいお姉様候補を見つけられずにこの日になっちゃったんだけど。
「あら? 一体何ですの? 地鳴り?」
騒がしい物音が響いていた。
おかしいな、聖クライズ女学園の敷地内でこんな騒々しいことなんて起きるはずがないのに――
「鞠栖川さん! 私のロザリオを受け取って!」
「鞠栖川蓮奈さん! 私の『妹』になるために生まれてきた方!」
「私と契約して、『妹』になって!」
大挙して押し寄せるお姉様候補の皆様に取り囲まれてしまう。
みんないかにもお嬢様という感じで、きっと家柄も良くて、そんな人達が鼻息荒くあたしを『妹』にしようと躍起になるのだから、嬉しさより戸惑いの方が上回っちゃう。ぐへへ……っていうより、おほほ……って笑みを漏らしているんだけど、怖いものは怖い。
ぐるりとお嬢様たちを見回すんだけど、あいにく、お嬢様じゃないことがバレるリスクを抱え込んでまで密に絡みを持ちたいと思えるような人はいなかった。
「み、皆様、お誘い本当に嬉しいですわ。熟慮したいので、少しだけお席を外させていただきますわね……」
お花摘みに行きます、という雰囲気を出しながら、どうにか校舎へ引き返すあたし。
校舎へ戻る間も、無数のお嬢様が熱視線を送り続けていたのが必死過ぎてなんかヤバい……。
★
「今日中に誰か一人を決めないと五体満足で帰れない雰囲気ですわね……どうしたものかしら」
思い悩みながら廊下を歩いていたときだ。
突然、強い力で腕を引っ張られた。
悪質なナンパ野郎に出会っちゃったのは昨日の今日のことだから、一瞬そのときの怖いことが蘇りかけちゃったんだけど、当然ながら、このお嬢様の園に男はいない。先生も含めて。
「ごめんね、急に」
廊下の物陰に引っ張り込んだそいつの顔を見たとき、得体の知れない恐怖はなくなった。
この前廊下でぶつかっちゃった、黒髪おさげで黒縁メガネの地味なセンパイ……伊佐谷さんだったから。
「構いませんけれど、どういうつもりですの?」
いくらなんでも、いきなり腕を引っ張られる筋合いはない。
「君が困ってるみたいだったから。君、『姉妹の契り』なんて結ぶ気ないだろ?」
「あら? 不思議なことをおっしゃいますわね。おかしな方。この学園の生徒なら、『姉妹』に憧れて当然ですのに」
顔色は変わってないはずだけど、あたしは内心冷や汗ものだった。
なんでわかるんだろう? って思ったから。
「でも確かに、困っているといえば困っていますわね。魅力的な方ばかりですから、迷ってしまいますわ」
「本当かな? 『姉妹』になると何かと面倒でしょ。特に君みたいな人は」
ずいぶんズケズケ言ってくるものだから、驚くタイミングすら見失ってたんだけどさ。
流石にスルーできないよなってことを言われたのは、そのあと。
「それに、ギャルの格好で『バンシーズ』行くような子を『妹』にできる甲斐性のある子は、この学園にはいないと思うよ」
体から魂が抜けそうになった。
こいつ……ライブ会場であたしを見てたって言うの?
いや、待て。
今のお嬢様に擬態したあたしと、休日のギャルなあたしを同一人物と結びつけられるはずがない。その辺、めっちゃ警戒してるんだから。
テキトーに言ってるに決まってる……!
「おかしなことをおっしゃいますのね。あいにく私、音楽はクラシックしか……」
「首、首」
顔色一つ変えない伊佐谷さんがあたしの首元を指差す。
「君、のどの下のところに星型のほくろあるよね? 正体隠したいなら見えないように気をつけた方がいいよ」
「なっ!?」
たしかに、あたしの真っ白な喉の下には特徴的なほくろがぽつんと一つ浮かんでいた。顔にも体にもほくろなんてないのに、何故かここにだけある。
でも、クッソ小さいし、わざわざ他人のほくろなんてまじまじ見ないだろうから大丈夫ってスルーしてたのに。
「それに、ぼくは『バンシーズ』で君を見たって言っただけだよ? でも君はクラシックしか聞かないって答えたよね。『バンシーズ』って単語だけで音楽を演奏する場所だってわかったのは、実際に君がそこにいたからでしょ」
とどめとばかりにロジックで詰将棋をしてくる伊佐谷さん。
あたしは最後の意地で、顔だけはお嬢様の表情を維持したけれど、全身から冷や汗がダラダラ出た感覚があってヤバい。制服の中水浸しかもしれない。
でも、いつバレた?
伊佐谷さんは地味のスペシャリストみたいな人だから、あの日あの時あの場所にこっそり観客として混じってたとか?
「だから、これ」
伊佐谷さんが手を差し出してくる。
指先には、ロザリオがぶら下がっていた。
「ぼくと『姉妹の契り』を結んでよ」
「えっ……」
この日一番びっくりしたかもしれない。
「ぼくなら君のこと、黙っててあげられるから」
それは……脅しってことぉ!?
生殺与奪の自由を伊佐谷さんに握られるってことじゃん!
ここで拒否すれば、最悪の場合周りに言いふらされるかもしれない。
未だに伊佐谷センパイがどういう人なのか全然わかんないけどさ。
だからこそ、何をしてくるかわからなくて不安っていうか恐怖すら感じる。
「なんか疑ってるみたいだけど、ぼくは一度君を助けてるじゃないか。何を疑うことがあるの?」
「心当たりがありませんわねえ……」
入学して以降、伊佐谷さんから助けられるようなイベントなんて起きなかった。
ああ、でも、この前廊下でぶつかったとき、落とし物を拾ってあげたっけ。
いやそれ、あたしの方が助けた側じゃね?
「あれ? 気づかない? ほら、あのとき裏路地で助けたじゃない」
裏路地というワードを聞いて、脳内に蘇るものがあった。
思い当たるものなんて、どう考えたって先日のアレしかない。
えっ、マジで?
「ま、まさか……ホルスなんですの?」
恐る恐る口にするんだけど、目の前の地味を目にするとすぐにそんな考えは吹っ飛ぶ。
「って、まさかあなたみたいな地味な方がホルスなんてありえませんわね!」
「この格好じゃわからないか。ほら」
その場で伊佐谷さんは、ゴツい黒縁メガネと、お下げを雑に結ってる髪ゴムを外して、腰まで伸びる長い黒髪を下ろす。
そして、ポケットから取り出した真っ黒なハンカチで額を隠すと……。
「これでどう?」
「ええっ!? ホルスじゃないですの!」
「そうだよ。NI≒KELL用のメイクなしでもわかるもんなんだね」
わかってくれたことが嬉しいみたいに、微笑む伊佐谷さん……いや、ホルス? やっぱり伊佐谷さん。
まさか、バンギャルを熱狂の渦に巻き込んでいたカリスマがお嬢様学校で地味キャラをやっていたなんて……。
あたしよりギャップあるんじゃね……?
伊佐谷さんが想像より人懐っこい笑みを見せてくれるものだから……ついつい絆されそうになる。
待て。こいつはあたしの正体を触れ回ろうとしている極悪人かもしれないのに!
でも、そういえば路地裏であたしをナンパ男から助けてくれたとき、去り際にホルスはあたしを「お嬢様」って言った。
あの時点で気づいてたってこと!?
「これで信用してくれる? じゃあ、はい、これ。君のロザリオはいつ渡してくれてもいいから」
呆然とするあたしのポケットにロザリオを押し込んでくると、黒縁メガネを掛け直してゆるい三つ編みを雑に編み直した。
「でも嬉しいよ。君の秘密を知ってるのはぼくだけなんだから」
あたしの耳元に囁いてくる。
どういう意味で言ったのか、あたしにはわからない。
学園ではぼっちっぽいのに飄々としているせいか、本心を悟りにくい。いい気にさせておいて、どこかで裏切るんじゃないかって雰囲気が出ちゃってる。
「ぼくたち、いいユニットになれると思うんだ。またね」
ステージをハケるときと同じような調子で、手を振って去っていく。
「も、もう! 何なんですの、あの人は!」
誰もいない校舎で、あたしは一人地団駄を踏むのだった。